プロローグ
死んだばあちゃんの口癖は過去の友人と影食いに気をつけろ、だった。
あと、女は魔物だと言っていたっけな。まぁ、近所のガキから魔女だと呼ばれていたばあちゃんも魔物としてカウントしていいかもしれない。一度、何か嫌なことがあったのだろう。俺がいないと思ってか、セメントの壁に掌底で風穴を開けていた。俺は何も見ていないことにして、日々を送ったよ。
過去の友人に気をつけろは久しぶりに会えば金の無心をするからと言っていた。こちらも世知辛いものだ。幼心にそんな友達は嫌だなぁと感じたもので、俺がもっと繊細だったら将来に希望を見いだせない人間になっていた。もし、友人がそうなってしまったら金を渡して友達の縁を切れというのがばあちゃんの言葉だ。
でも、ばあちゃん友達いないじゃんって言ったら鬼の形相で俺を睨んだことがあったな。怒らせると怖いのは知っていたので、もう少し口を滑らせていたり、俺がお馬鹿だったら口では言えない大変なことになっていた。孫に甘いとおばあちゃんという考えこそが甘かったりする。
最後、残った影食いのことだが、これは分からなかった。何せ、この言葉を言ったばあちゃんが教えてくれなかったのだから、分かるわけも無い。もう一言、何かを言っていた気もするが、そちらは夜の外出を控えろだったかな。その時は不審者情報がちょいちょい出ていたくらいだ。行方不明になった女児の話もあった気がするが、こちらはどうなったのかよく知らない。
夜の外出はともかく、はてさて、影食いってなんぞやと調べたこともあったが結果は空振り。図書館、ネットなど、あたってみてもどれも駄目。影踏みなんかはヒットしたけどな。子供の遊びと、どっかの懲罰部隊の俗称とかなんとか。俺が求めていた物とは違うように思えたので詳しくは調べなかった。
他を調べて出ない以上、発言者に聞くしかない。何度もばあちゃんに影食いとはなんだろうかと訊ねたことはあったものの、納得のいく返答はもらえなかった。そのたび、無表情で、じっと俺を見つめている。
冗談なら冗談だと言ってくれれば俺はそこで諦めた。それなのに、絶対に教えてくれないくせに、もういいと諦めた俺を煽るのだ。
「お前は影食いに狙われているんだよ」
「私の孫だからね、しょうがない」
「力のない愚図どもが徒党を組んで無知なお前を襲いにくるのさ」
近所から変人やら魔女やら呼ばれていただけはある。近所で有名な婆ちゃんの言葉は今思い出しても非常に不気味で、見た目も妖怪としてエントリー出来そうだ(一度妖怪だと言ったら箒を頭の上で回しながら追いかけてきた)。
小さい頃はよく婆ちゃんと一緒に居た。いくら、くそばばぁだったとしてもなんだかんだで俺は婆ちゃんの事が好きだった。だが、大きくなるにつれ、興味を持つ対象が増えると自然と婆ちゃんと過ごす時間は徐々に減っていった。人が過ごせる時間は有限で、魅力的な物からつい手を出してしまうものだ。
魔女だ妖怪だといわれていたばあちゃんも、さすがに年齢には勝てなかった。ある日、眠るように亡くなっていた。あれだけ騒がしいばばあだと言われていたくせに、終わりは静かで、あっけなかった。あのくそばばあと罵っていた近所のおっさんが泣いているのを見て、何とも言えない気持ちになった。他にも泣いていた人は多かった。なんだかんだで慕われていたのか、婆ちゃんが過ごした屋敷には大量の人が来て俺は驚いたのを覚えている。
「お前も私もろくな死に方をしないよ」
ばあちゃんとの古い思い出だ。愉快そうに婆ちゃんは屋敷の縁側で俺に言っていた。あの屋敷は誰がしていたのか知らないが、よく掃除の行きとどいていた。それでいて、屋敷の中はあまり人の生活しているあとがない。
それは俺の住んでいた家よりもはるかに大きな屋敷と呼ぶのにふさわしい場所でもあった。俺がこの世に生を受ける以前、ここでずっと寝起きしていたそうだが、母ちゃんが同居を申し出たらしい。俺は二人が話している姿をあまり見たことはない。かといって、仲が悪いと言うわけでもなかった。子供ながらに一定の距離を保つ不思議な関係なんだろうと思った。
寝起き、飯は今の家だが、朝ご飯を食べ終えると婆ちゃんはこの家にやってくる。こんな場所に一人で日中を過ごすなんてさみしくないのかと聞いたことがあった。あの時、ばあちゃんは珍しく笑っていた。
「そうさねぇ、お前みたいな出来の悪い孫が懲りずに来てくれるから、そんな気持ちは起きないよ。それに、最近はお前の友達のあいつも来てくれる」
一人じゃなくても、寂しかったらうさぎは死ぬらしいよと当時最新知識だったことを告げると笑っていた。
「さっきも言っただろう? 一人じゃないさ」
あれほど、さびしそうだけれど穏やかな祖母の笑い顔は後にも先にも見たことがない。俺が言葉を失っていると、また意地悪そうな笑みを湛えた。
「それに、お前の子供の尻を叩くまで、死ねないねぇ。どうせ、くそがきさ」
死なないといった割に、人はこんなにもあっさりと逝き、残ったものは空虚を味わうのかと葬式で知った。ろくな死に方をしないと言ったくせに、とても穏やかな寝顔だった。
晩年は、眠るためだけに俺の家へとやってきて、朝早くに自身の屋敷へと向かうばあちゃんと会うには出向くしかない。死に近づいていた時、俺はばあちゃんとほとんど会えていなかった。
当時は、会わなくなったばあちゃんが死んでショックを受けていることが意外だったりもする。最後の方は何かと理由をつけて俺に会ってくれなかったのだ。
「お前に女ができた。ばばあに会う暇があるなら女が浮気しないか見張っておくといい」
たまに会った時、そんなことを口走ったものだ。俺は怒るよりも先に呆れてしまうことが多かった。その当時、まだ彼女なんて出来たわけでもなかったからだ。
まぁ、別に孫が好きじゃなかったと公言していた変人だ。ただまぁ、葬式にやってきた親戚は俺の頭を大きくなったと叩きながら言ってくれた。
「口ではなんだかんだと言いながら孫の事を自慢する人だった」
素直じゃない人だ。
遺影を見て、改めてばあちゃんが死んだのだと実感した。もっといい写真を使えばよかったのに、仏頂面のいつもの祖母だ。俺の母ちゃんは義母さんらしいと笑っていた。父は婆ちゃんと折り合いが悪かったから特に何も言っていなかった。一緒に住んでいながら、年に顔を合わせるのは右手で事足りる回数だったのだ。通夜と葬儀だけでまた父は家からいなくなった。
あまり日常では嗅ぐことのなかった線香の匂いに戸惑いを感じ、せめて地獄には落ちないように手を合わせておいた。もちろん、心の中では無理だろうなぁと苦笑した。
あの人なら地獄があるのなら別にそこでもいいと言うだろう。おそらく、爺さんは地獄にいるだろうから会いに行くという理由だ。
そんなばあちゃんが俺に言っていた言葉を思い出す。女や友達ではない、影食いのことだ。
あのばあちゃんのことだ、近しい人にしか話していないことがあるのだろう。一度、親戚の誰かが訪ねてきたとき、俺に金を握らせて三時間ほど出ていくように言ってきたのだ。あのときは金に目を眩んだが、今にして思えば人払いをしたのはあの時だけだった。その日以降、ばあちゃんは朝早くに起きて、屋敷で一日を過ごすようになったのだ。
記憶をたどり、比較的ばあちゃんと親交のあった親戚を探した。当然、ご高齢の方が多く、親戚の中には亡くなっている方も少なくは無かった。それでも何とかばあちゃんの従兄弟を見つけることに成功した。
「お久しぶりです」
「おお、けいちゃんか。おおきくなったなぁ」
しわだらけの顔にさらにしわを増やして笑う柔和な老人だった。頭髪は少ない。光が当たればそれだけ闇を照らすような頭だ。それでも部分的に髪の毛が頭にしがみついているように見えた。
「今は何年生だい?」
「羽津学園の二年生になりました」
「そうかいそうかい」
感慨深げに茶をすすり、目を閉じられた。
「最後にあったのはもう五年も前かな。子供が大きくなるのは早いもんだ……それで、何か用事かな?」
「はい。ちょっと、聞きたいことがあって」
「俺にかい? けいちゃんの顔見るとあまりいい話じゃなさそうだねぇ」
笑っていたが、目は笑っていなかった。このおじいさんは脱ぐと体にやたらと傷がついているのを俺は知っている。子供の時にそれを訊ねると転んだんだよと言っていたがそんなことはないだろう。
何かに切り付けられなければ、あんな傷はつきそうになかった。
「よく、ばあちゃんが言っていたことなんですけどね……」
影食いの言葉を出すと眉をひそめてみせる。
「……けいちゃん、それは口にしちゃ駄目だ」
「駄目?」
「ああ。口にすると来ちまう。俺らがまだ若い頃はそうだったよ」
しわだらけだが、ごつい手で俺の肩を軽くたたく。視線は優しいものの、どこかいさめるように言うのだ。
「最近の若い子は信じていないかもしれないが……言葉ってのは力があるんだ。お前さんが影食いを探せば探すほど、それらに近づいちまうんだよ。ただでさえ志津子は厄介ごとをしょい込んでいたからな」
「厄介ごと?」
「そう、嫌われ者になった原因さ……いけねぇ、こんなことを言うと黄泉がえっちまうよ。はは、冗談だけどさ」
辺りを見渡した後、おじいさんは俺の手に何かを握らせた。
軽くざらつく表面の布に、中には何か四角いものが入っているようだ。
「何ですか、これ?」
「お守りだよ。怖いものを怖いと思えるようになるもの。昔だったら曰くありの代物さ」
渡した時の視線はなんだか悲しげだった。
渡されたものがなんなのか、想像もつかない。一度ゆっくりと息を吸って、吐いてみた。
「ただ、昔みたいな時代じゃないのも確かだ。事情が変わっているかもしれないなぁ」
「どういう事ですか?」
「よくわからないものを、志津子は持っていた。とても、昔の話だ。今、どうなってしまったのか知らないがね。当時、それを知っている連中もほとんど死に絶えているから大丈夫だとは思うんだが」
今はもう時効だろうと言った。何より、その宝物はすでに婆ちゃんが失くしてしまったらしい。
「詳しく教えてもらう事は?」
「そうしたいのはやまやまなんだがね、俺が死んだらあっちでどやされちまうよ。悪いね」
結局教えてはくれなかった。湾曲的で、今一つわかり辛い。
「……けいちゃんが探せば世界は広がる。今日、俺に聞いてきたみたいに行動を起こせば何かに引っ掛かるものさ。案外、その失くしたものっていうのはすぐに見つかるかもしれない」
そのまなざしは稀に見せる婆ちゃんに似ている気がした。
「だが、俺はあまり広めない方がいいと思う。そういうものに、厄介ごとはつきものだから、巻き込まれるのさ。志津子みたいにならないでくれよ。そもそもどうして、知りたいんだ?」
「理由はただ何となく。ばあちゃんが言い残していたからです」
「ただ知りたいだけなら問題はないのかもしれないな……うーむ、どのみち教えてはやれないけどな」
確かに何かを受け取ったはずなのに、俺の手の中には何も無かった。
それから数週間、俺は何かを期待していた。こんなにもおぜん立てされているのなら何かが起きると期待もするだろう。
しかし、結局何かが起きることはなかった。俺の関心は時間が経つごとに薄れて行って、気づけばそういう事もあったなぁと思うだけになってしまった。
学園を卒業する頃には、ばあちゃんとの思い出も殆ど風化してしまった。