Scene 2
Scene 2
早朝、耳障りなアラーム音が鳴り響く。
築三、四十年は経とうかという団地。
間取りは、古くさい2DKだ。
家賃は破格の官舎ではあったが、いまどき、この間取りと築年数の古さ。
風呂場の設備はバランス釜といったありさまでは、入居希望者も少ない。
世帯用に作られたものとはいえ、最近では、一定年齢以上の単身者の入居も認められていた。
時刻は六時四十五分。
目覚まし時計のアラーム音は、まだ鳴り続けている。
その室内は、片付いているとは言い難いありさまだったが、さしたる荷物もないせいか、なんとか見苦しくないくらいの状態が保たれていた。
ダイニングテーブルの上には、古いノートパソコンにマシンの部品、その脇に応用物理学関係の専門書が積まれている。
アラーム音から逃れようとでもいうのか、頭から毛布を引っ被っていた川本和彰は、ついに腕を伸ばしてベッドサイドの目覚まし時計を引き寄せた。
忌々しげに舌打ちして、アラームを止める。
そして、時計を元の場所に戻すと、再び毛布を頭まで引き上げた。
川本が二、三回、寝息を立てたところで、今度は、時計の隣の携帯が鳴り出した。
バイブレーター音と呼出し音が同時に響き、点滅しながら、携帯がサイドテーブルの上でくるくると回る。
再度舌打ちをし、川本は、毛布を頭までかぶったまま、携帯に手を伸ばす。
そして着信表示も見ずに、「……はい」と一言、掠れ声で応じた。
「あ? かーわーもーとー?」
素っ頓狂な女の声が響く。
「……うるさい、俺は非番だ。じゃあな」
低い掠れ声のまま、川本はすぐさま話を終わらせる。しかし、通話相手はまるで意に介さない。
「うん、で。川本、あのさあ」
「頼むから、休みの日ぐらいゆっくり寝かてくれ、伊織。急ぐ起案なら『モトピー』にでもやらせとけ……」
目を閉じ顔を顰めたまま、川本はイライラと続ける。
「違う違う、文書じゃなくて。人がね、死んでるの」
川本は目を開けると、毛布をはね除け、飛び起きた。
*
古い雑居ビルと住宅が混在している新宿のある一角に、黄色の立禁テープが張り巡らされている。
機捜、制服、私服の警官に鑑識係員などが入り乱れ、朝の静けさの中、奇妙なごたつきを見せていた。そろそろ、通勤通学の人影も目に付き出す時刻とはいえ、現場にはまだ、野次馬はいない。
少し離れたところに、一台のタクシーが停まった。
長い手脚を折り曲げるようにして、中から、男が降りてくる。
黒のステンカラーのハーフコート。ごくごくありきたりな合物の背広に白シャツとネクタイ姿だ。
周囲の人間より頭ひとつ分くらい背が高い以外は、特にどうという特徴もない、やや痩せ形の四十がらみの男だった。
男は手にしたタクシーのつり銭を使い、通りがかりの自販機で、コーヒーを買う。
無糖ブラックと激甘ミルク入り。
二本の缶コーヒーをコートの両ポケットに突っ込みながら、男は、大股でテープの方へと近づいて行った。
立番をしている若い制服警官に、胸ポケットから取り出したバッジを形ばかり見せ、男はテープを持ち上げる。
一瞬迷いはしたものの、警官は男を制止した。
止められた背の高い男は不機嫌そうに振り返ったが、いま一度バッジ取り出すと、丁寧に開いて警官に提示する。
「お疲れ様です」
立番の警官が、慌てて敬礼をした。
男の方も「お疲れさん」と挨拶を返すと、テープをくぐり、中へと入って行く。
そして、すれ違う捜査員と会釈を交わしながら、前方にある青いビニールシートの方へと、真っ直ぐに向った。
シートの脇には、トレンチコートにジーンズ姿の女が立っている。
化粧っ気のない顔。伸びかけたショートヘア。胸だけは、無駄にデカい。
歳は、もうそれほど若くはない。
だが、「じゃあ、いくつくらいに見えるか」と問われたなら、なんとも答えようのない感じの女だった。
美人といえば、美人なのかも知れない。
しかし、男は、いまさらその女の容姿の美醜を、客観的に判断できなかった。
というか、しようとも思わない。
それがどれほど面倒くさい女か、もはや男は、知りすぎるほどに知っていたからだ。
すると、トレンチコートの女は、近づいて来る男に気づき、振り返った。
「かーわーもーとー、遅い!」
不満たらたらの口調で言いながら、女が歩み寄ってくる。
テレビのマンガのキャラクターかと思うような声。
初めて聞く人間は、ぎょっとするかもしれないが、それが地声なのだからしょうがない。
「わたしとモトピー、ぶっちぎりの一番乗りだったんだよ、機捜より早かった」
「で、状況は? 伊織」
川本は、女の言葉を完全に無視して訊ねた。
「検視まだなんだけどね。転落死っぽい」
『伊織』と呼ばれた女が応じる。
靴カバーと手袋をつけながら、川本が「どこから?」と訊く。
「あそこ」
手にしたペンで伊織が指し示した先は、五階建てのビルの屋上だった。
『警視庁』と黄色のロゴの入った紺のつなぎを着た鑑識の背中が、見え隠れしている。
川本は、その屋上を一瞥すると、屈んでビニールシートを捲った。
横たわっているのは、東南アジア系の青年だった。頭部や鼻孔から出血している。
その傍に、二十代半ば過ぎとおぼしき刑事がやってきた。
細身のスーツに身を包んだ、全体的にこぎれいな感じの、『今どきの若者』だ。
川本が、そちらを向いて問いかける。
「本橋、身元は分ったのか?」
若い刑事は、手帳を開きながら答えた。
「はい。外国人登録証、所持してたんで。タイ人です。名前はス、スリヤ・チャイル、チャ、チャル」
川本は立ち上がると、眉をひそめて本橋の手帳をのぞき込む。
「『スリヤ・チャイルンルアン』ね。まだハタチそこそこか、気の毒に。目撃者は?」
「いや、それが。機捜とこのあたり当たってみたんですけど。六時前くらいの中途半端な時間だったんで……そもそも人自体が、あんま居なくて」
本橋がくだくだと言い訳めいたセリフを吐いていると、検視官の一行が到着した。
川本たちは、しばし場を譲る。
川本がコートのポケットに手を入れ、歩きながら伊織の方を振り返った。
無言で、缶コーヒーを一本放る。
無糖ブラックの方だ。
そして、自分は激甘ミルク入りの方のプルトップを開け、缶に口をつけた。




