Scene 16
Scene 16
川本が左にハンドルを切り、車は議事堂前の坂を滑り下りていく。
霞が関の北端、外務本省の建物が見えた。
いかにも外注業者といった風情の、頼りなげな衛視の前を、半ば強引に通り過ぎ、玄関付近の空きスペースで、ブルーバードは止まる。
川本の黒いハーフコートの裾が翻る。その後ろを伊織が小走りに追いかけた。
受付を素通りして行く川本の後に続く伊織が、係員に手早くバッジを開いて見せる。
川本はさっさとエレベータの乗り込むと、すぐに閉ボタンを押した。
閉りかけるドアの隙間に、伊織が滑り入る。
川本と伊織は四階でエレベータを降りた。
ホールの壁の案内版を見ている伊織を置き去りにして、川本はさっさと歩き出した。
廊下の右手に「人権人道課」の札が現われる。
先に川本、そして伊織が入室する。
と、入口近くの席に座る係員が、怪訝な顔で二人を見上げた。
川本は胸ポケットからバッジを出すと、低く言った。
「国際組織犯罪対策室長に面会したい」
案内のため立ち上がろうとした係員を手で押しとどめ、川本はさっさと部屋の奥へと歩みを進める。
そして、奥にある国際組織犯罪対策室のドアを開けた。
窓を背に席に座っていた生原が、突然の来客に驚いて、目を見開いた。
「新宿中央署の幸村です」
伊織がバッジを開く。川本も低く続けた。
「川本です」
生原は一瞬、無礼な訪問者に対する軽蔑を露骨に表情にあらわにしたものの、すぐに柔和で紳士めいた微笑みを浮かべた。
サーモンピンクのホワイトカラードシャツに複雑な柄のネクタイという難しいコーディネイトを品良く纏めた生原は、慇懃無礼に、脱いでいたジャケットをわざわざ、はおりなおす。
そして、前を合せながら椅子から立ち上がり、丁寧に口を開いた。
「さて、どんな御用でしょう」
そして、部屋の真ん中ほどにしつらえられた小さなソファーセットの方へと歩み寄り、腰掛ける。それから、川本と伊織にも、着席を促した。
生原の手が、さりげなく膝に置かれ、その袖口から、すぐにそれと知れる高級時計がちらり覗く。
川本と伊織は、立ったまま、生原を見下していた。
「根岸武夫をご存知ですね?」
なんの前置きもなく、川本が口火を切った。
しかし、生原は笑みを浮かべたまま、穏やかに応じる。
「さあ? そのお名前の方、ぱっとは思い当たりませんね」
「……先月、この部屋の直通に、彼から電話があったはずなんですけど? 根岸の携帯の発信履歴に残ってまして」
伊織が続ける。
だが、生原はまた、静かにこうかわした。
「ここの直通番号は公開されてますので、方々から電話は掛かってきますよ。交換台を通っていれば、あまりにも妙な電話は止めてもらえるんですがね……」
「『妙な電話』がかかってきたんですか? 根岸から」
川本が言葉じりを捉えると、生原がムッとした。
「……色んな電話が掛るのでいちいち覚えていない、という意味です」
生原の言葉を無視し、伊織が続ける。
「根岸武夫は、一昨日死体で発見されました。境川の河川敷で」
「それは。お気の毒に。でも、それが?」
何が何だか判らないといった表情で、生原は応じた。
川本が、胸ポケットに手を入れる。
「一九九九年の暮れに、タイの旅行を?」
生原は、わずかに顔を曇らせたが、すぐに気取った表情に戻って言った。
「さあ……そんな十年以上も前のこと。仕事柄あちこち参りますしね。行ったかもしれません。必要とあれば調べますが?」
「それには及びません。行ってたってことは、もうこちらで調べましたんで」
伊織は、完璧なシェービングがほどこされた生原の口元を、はたと睨む。
川本がポケットから指輪を取り出そうとしたその瞬間。
部屋の外がざわついた。
ぞんざいに、扉がノックがされる。
だが、生原がそれに応じるより前に、ドアは開けられた。
四、五人の背広姿の男たちが、次々と部屋へ入ってくる。
「生原室長、失礼しますよ。おや……御来客中で?」
男のひとりが言った。
「警視庁捜査一課です……」
生原の左脇に回った男が続ける。
「生原義男さん、根岸武夫殺人容疑及び児童ポルノ規制法違反容疑で、東京地裁より逮捕状が出ています」
生原は目を見開き、くちびるをわなつかせる。
男たちが、生原を抱え上げるようにして、ソファーから立たせた。
手錠はかけないまま、刑事たちが生原を取り囲むようにして、部屋を出て行く。
そして、生原の部屋には、伊織と川本だけが取り残された。
*
外務省の駐車場に停めた車の中で、川本は運転席に乗り込んだきり、身じろぎもしなかった。
しばしの沈黙の後、助手席に座る伊織が、深い溜息をつく。
川本は、相変わらず押し黙っていた。
エンジンを掛ける様子も、キーを取り出す様子すらもない。
伊織は助手席のシートを後へとスライドさせた。
そして、両足をダッシュボードの上に乗せる。
そのシートの下にケバいマッチ箱が落ちていた。
川本が、それに目を留める。伊織も、川本の視線の先にある物に気がついた。
舌打ちをしながら、伊織がマッチ箱を拾う。
「なに、川本。またキャバクラ? しかし、よくそんな暇が……」
伊織は、手に取ったマッチ箱に、何かしら違和感があることに気付いた。
内箱を引き抜いて、中身をぶちまけると、箱を分解し始める。
川本は面食らいながらも、伊織の手元を凝視していた。
と、内箱の中から、小さく折畳まれた薄い紙が出てきた。
ラインプリンターのプリントアウトの一部分のようなものだった。
伊織が、その紙を開く。
飛行機の搭乗記録のようにも見えた。数名の日本人の名前がローマ字で印字されている。
伊織が呆れたように声を上げた。
「ったく。ニコちゃんだね、この紙? なに、この意味不明に手の込んだ真似」
と、伊織が息をのんだ。
「……ヨシナガ?」
伊織の手にした紙を覗き込み、川本も顔をこわばらせる。
「イクヨシ・ヨシナガ ……って。与党幹事長の吉永行善かよ」
「ほか、同行者は……生原と、ケンイチ・タバル……ノボル・タテノ? 何だ、このメンツは」
川本の眉間にさらに深く皺がよる。
「……『田原顕一』って、なんだよ、まさか、サツ庁の次長じゃねえだろうな」
「立野? 政治家? だっけ」
伊織の問いかけに、川本が鼻を鳴らす。
「名の知れた衆議院議員だろうが、それに現職の内閣官房副長官」
そして、ふと考え込んでから、川本が続けた。
「たしか……立野は、もともと吉永幹事長の父親の秘書だったな」
「ああ? それは知ってる、吉永行徳でしょ。戦後政界の超大物」
伊織の答えを無視すると、川本は低く唸った。
「……馬鹿なヤツだな、根岸も。強請るなら相手を選べっていうんだ。吉永幹事長だぜ? 次期総理を狙ってるような相手にとっちゃ。時効だろうがなんだろうが、こんなネタ。それこそ致命的なんだ」
「一介のポルノ屋がひとりで相手にするには、ちょっと『ネタがデカ過ぎ』だね」
伊織がこう応じた後、再び車内に沈黙が流れる。
「マッチ……か」
川本が、ふと苦笑する。
伊織がダッシュボードから、ゆっくりと足を下ろした。
「『読んだら燃やせ』ってこと? まったく、ニコちゃんも迂遠だなぁ……」
川本が、床に散らばるマッチを一本拾う。
考え込むように、それをしばし眺め、そして、ゆっくりと擦った。
伊織が、川本に紙を渡す。
「それにしてもさ、これって『生原ひとりが割を食った』って結末なの? いきなり一課さんが乗り込んできて幕切れなんて。なんだかさ……あっという間の『火消し』だったよね」
川本が灰皿を開け、炎に包まれていく紙を放りこんだ。
「……随分と『早手回し』にな」
煙を逃がそうと、伊織がサイドウィンドウを下ろす。
「そう、だよ……だって、園山さんが根岸と生原の関係に気付いて、まだ二日も経ってないのに!」
川本は、黙ったまま、音を立てて灰皿を閉めた。
*
田原警視監がソファに腰掛け、携帯を耳に当てていた。
「そうか、逮捕したな……ああ、生原君本人も、今後の成り行きは察してるだろう」
通話を切った田原に、奥の机の前に腰かけていた男が声をかける。
「無事、片付きそうですか?」
田原は無言で頷いた。
「まさかとは思いますが。ヤケになって、あの『タイ旅行』の件を口外したりしたりしないでしょうね……生原さんは?」
机の上に肘をつき、顎の下で指を組みながら、男がさらに訊ねた。
その襟元には、金の菊花の徽章が光っている。台座はエンジがかった紫のビロード張りだった。
田原が、重く口を開いた。
「……彼だって。これ以上、傷口を広げてもしかたないと思っているはずですよ。それにあの件は、どうせ時効を過ぎたの話。追及したところで警察では、どうしようもないことです」
不安そうに、再度口を開こうとした男の言葉を遮るようにして、田原は続ける。
「……生原君が、『その手のポルノ』を手広くコレクションしていたこと自体は、事実です。それが、今回明るみに出てしまっただけのこと。彼の大量のコレクションの
中にあっては、たとえ、その中に一点、買った覚えのないディスクが紛れ込んでいようがいまいが……そんなことは、彼の罪にも、刑にも影響を与えない程度の瑣末な問題です」
「分かりましたよ、田原さん。ともかく、生原さんの先々のことは、こちらで誠意を持って対応させていただきますから。ほとぼりが覚めた頃に、行く先をご用意いたしますし。ともかく吉永先生の今後に、よからぬ影響があっては困りますのでね。今回は、諸々『いたしかたなかった』ということで……」
男の言葉を聞きながら、田原は黙ってソファーから立ちあがった。
「では、後のことも、よろしくお願いいたします、田原次長。長官対応等々、何かと大変でしょうが」
うってかわって、男は堅苦しい口調で、去りゆく田原の背中へと声をかける。
だが田原は、ただ会釈のみで、それに応じた。
ふと、田原が笑みを浮かべる。
そして、俯くと低く、こう呟いた。
「今回亡くなったお二人には、いずれあの世でお詫びするとしましょうかね……」