Scene 15
Scene 15
新宿中央署刑事課、強行犯係幸村班の朝は、一応、いつもどおりだった。
真山は、相変わらず朝刊チェックに励み、本橋はパソコンに向かっている。
川本も同じく、ノートパソコンのモニタに目を落としていた。
と、川本が席を立った。
大股でプリンタの方へと歩いていく。
せっかちにも、用紙の排出口に手を伸ばしながら、川本は印刷済みの紙が出てくるのを待っていた。
そして、混じり合って出てくる伊織の書類と自分のとを、プリンタの脇に立ったままで、仕分けをする。
眉間に皺を寄せながら、手にした紙一枚一枚に目を走らせていた川本が、突然、伊織に声をかける。
「おい、伊織。お前馬鹿か? 一日付より前のは、前の書式で作るんだよ、後付け決裁じゃないと金下りねえだろ? この件は。何年警官やってるんだ」
川本は、つかつかと机の方に戻ってくると、手にした紙を、乱暴に伊織の机の上に置いた。
伊織が、無言で川本を見上げる。
伊織ならともかく、あからさまに不機嫌な様子の川本はめずらしく、さすがの真山も驚いて朝刊から目を上げ、本橋に耳打ちをする。
川本自身、自分がイラついていることに、すでに気付いていた。
静かに自席につくと、書類を手に何事かを考え込み始める。
と、ふたたび、川本が席から立ち上がった。
真山も本橋も、思わず視線を上げる。
「どこ行く気?」
パソコンのキーボードに目を落としたまま、伊織が口にする。
「……いちいち訊くな」
と言い置いてコートを手にすると、川本は大股でドアへと向かった。
伊織もすかさず立ち上がり、その背中を追う。
川本と伊織が刑事課の鉄扉を出ようとした瞬間、課長席から厭味たらしい声が飛んだ。
「幸村さん! 先月の西新宿の強盗傷害事件。まだ、私の方に復命書が出ていない様なんですが?」
梶谷を完全に無視して、伊織はドアを閉めた。
*
川本がエレベータの下ボタンを連打して、小さく舌打ちをする。
だが、すぐに踵を返すと、ハーフコートの裾を翻し、階段を駆け下り始めた。
ひと気のない階段の、がらんとした縦長の空間に足音が響く。
地下一階まで降りてきた川本が、鉄扉を押し開け、廊下へと出た。そして、猛然と車両庫に向かって歩いて行く。
その後を、伊織が小走りで追っていた。
と、駐車場への扉の前に人影が見えた。
……手には、プリンとビニール袋。
警備課の北条だった。
佇む北条を無言で押しのけ、川本が扉に手をかける。
北条は川本に視線を向けることなく、廊下の奥をまっすぐ見つめたまま、口を開いた。
「……生安課が押収したパソコンをサルベージして川本さんが見つけた……あの児童買春ツアーのメモ。一連の日時と便名で、乗客名簿を調べてみましたよ、生原の……国際人権人道室長の名前があるかどうか」
一瞬、川本の動きが止まる。
伊織が川本の背中に追いつき、脇にいる北条に視線を向けた。
北条は、伊織とも視線を合わせぬまま、こう続ける。
「名前、ありましたよ。九九年の暮れ、バンコク行きに。当時、生原は外務省総理秘書官補でした」
「そいつはどうも、ご親切に」
川本が淡々と応じると、北条が、濃い眉をキュと顰めた。
「もう、いいじゃん? 伊織、川本さん。生原のタイ渡航が証明できても、ガキを買ったかどうかを探るなんて無理。そもそも、十年以上前の児童買春なんか、もうとっくに公訴時効になっちまってるんだ」
川本は無言で扉を大きく引き開けた。
その腕の下をくぐり抜け、伊織が車両庫へと出て行く。
北条が、声を荒げた。
「おい、伊織。生原に例の『指輪』でも付きつけるつもりかよ? やめとけ、んなことじゃ、どうにもならねえって、何も吐くもんか。どのみち、根岸は死んでる。タイ人の不審死だって、本庁が持って行っちまってんだ。何か解ったところで、先々、どうしようもねぇだろ?!」
廊下の向こうを通りがかった園山が、北条の大声を聞き付け、近づいてくる。
「何、どした? かわもっちゃん?」
川本が、園山の方を振り返る。
「園山、念のため言っとくが。根岸の件で、児童ポルノの件で、お前の縄張りを荒すつもりなんか、俺にはこれっぽっちもない。だがな、『コロシ』の方は、まぎれもなく刑事課のヤマだ」
そして、北条と園山を取り残していくかのように、川本が扉を閉めた。
園山が目の前で閉まった扉を、ふたたび押し開ける。
そして、駐車場を進んでいく川本と伊織の後ろ姿を目で追った。
車のドアをたたきつける音が、二回。地下に響き渡る。
エンジン音。
そして、かすかにタイヤが鳴った。
濃紺のブルーバードが園山と北条の前を通り過ぎ、表へと出て行く。
そのテールランプに向かって、北条が吐き棄てるように言った。
「そもそもなあ、本庁に所轄のヤマを横取りさせるような真似……外務省のたかが『課付き室長』ごときにできる芸当な訳ねぇだろうが! まったく」
事情をいま一つつかめない園山が、間の抜けた顔で北条を見やっている。
「……知らねえぞ、伊織。労力に見合わねぇって。教えてやっただろうが」
腹立ち収まらぬといった感じでこう洩らすと、北条は園山を置き去りにするようにして、その場を離れた。
*
旭日章旗と日の丸を背に、田原警視監が受話器を手にしている。
「……では、準備は出来ていますね? 瀬戸口管理官」
相手の答えを聞いて頷くと、田原は人差し指でフックを押さえ、通話を切った。
そして、ゆっくりと指を上げ、プッシュボタンを押し始める。
*
子供用のベッドほどはありそうな机。
凝ったペン立てにトレイ、その横に、ウォール・ストリート・ジャーナル紙。
そして、まるでドラマに出てくるアメリカ人の机のごとく、様々な種類の写真立てが並んでいる。
中でも、他に比べてひときわ大きい、重厚な銀細工のフォトフレームには、かなり色褪せた、古いカラー写真が入っていた。
黒のガウンを纏い角帽とタッセルで正装した青年が写っている。
卒業証書を持つ右薬指には、ブルーの石の凝ったリングが嵌められていた。
机上の電話が鳴る。
「……ああ、立野君か」
電話を取った初老の男が言う。立野と呼ばれた通話相手が応じた。
「たったいま、次長から連絡がありました……『踏み切る』とのことです」
男は右手で銀細工の写真立てを持ち上げ、しばし口をつぐむ。写真を持ち上げる手の薬指に、今、指輪はない。
「……よろしかったでしょうか」
立野が言う。『伺い』というよりは、『確認』の色の方が濃い口調だった。
「君たちに任せる」
フォトフレームを机に戻すと、男は立野にこう答えた。
*
川本の運転する濃紺のブルーバードが、新宿通りを、ただまっすぐ東へと進む。
目の前に上智のチャペルの十字架が、ちらり見え始めた。
助手席に座ったきり黙り込んでいた伊織が、ぽつりと口を開く。
「ねえ、辞表って……規定の書式とかあんの?」
「さあな」
面倒そうに、川本が応じた。
サイドウインドー越しに四ツ谷駅を眺め、伊織がまた言った。
「一回くらいは書いたこと、あるんでしょ?」
「……んなもの、書いてどうする」
川本の言葉には答えず、伊織はこう続けた。
「この件。何でニコちゃんが、あんなにわたしたちに手を引かせたがってるか……ってさぁ」
川本は、アクセルを緩め、右折車を通しながら言った。
「……いたんだろうな」
再度アクセルを踏みこんでから、川本は続ける。
「根岸の斡旋したタイ行きで。生原には同行者がいたんだろう、それも、おそらくかなりのポジションにいる誰か……」
半蔵門の丁字路に行きあたり、赤信号で止まる。
昼休みにはまだ早いというのに、皇居ランナーが幾人か、道を渡ってお堀端へと駆け出す姿がもうあった。
伊織が、ふたたび口を開く。
「もちろん、生原がホイホイ自供するとは思わないよ。でも、万が一にもさ。ヤケ起こして『巨悪』の方も道連れにしてくれたりしないかね? そう言うのなんだっけ『死なばもろとも』だよね……これ、あってるでしょ?」
あってるな、珍しく、と呟き、川本が軽く笑う。
そして、「まあ、その前に、俺たちがクビになるかもだが」と呟いた。
「そうそう、だから、その前に『辞表』って言いたかったわけ。警視庁を『懲戒免職』じゃ、後の人生、なにかと大変だよ?」
伊織の言葉に、川本がわざとらしく顔をしかめて見せる。
だが、そこには、先刻までのひどい不機嫌さはなかった。
「ねえ、川本。わたしらが辞表出すとしたら、誰あて? 柳瀬さん? それとも、まさか俊平くんじゃ……」
少し考えてから、川本が口を開く。
「……梶谷だろうな。一応、直属の上役だ」
「えー? それはなんか、嫌だなぁ、かなーり嫌な感じ」
伊織が、肩をすくめて顔を顰める。
「……だな」
ぽつり、川本も呟き、小さく鼻で嗤った。