Scene 10
Scene 10
モスグリーンの絨毯が敷き詰められた部屋。
焦茶の大きなデスクに、地味なスーツを纏った男が座っていた。
壁には、額入りの書。
デスクの脇には、紫地に白抜きの旭日章旗と日の丸が置かれている。
と、振動音が、静かな部屋に響き渡った。
男はスーツの内ポケットから携帯を取り出し、おもむろに耳にあてがう。
――もしもし、田原さんか? ヤツの部屋に警察が捜索に入ってる。一体、どうなってるんだ?!
通話相手が、一気に巻くし立てた。
だが、スーツの男は、ごく冷静に言葉を返す。
「あんな一所轄の動向までは、直ぐ、把握できませんでね。しかし、特に問題ないでしょう……それより、例の件は、どうしました?」
――ああ、始末させた。指示通り、隣県で。
「そうですか……では、あなたの方は、これで一旦、引いて下さい」
こう言うと、スーツの男、田原は、椅子の背に、その細身の身体をゆったりと預けた。
――だが、田原さん、『確たる証拠』の方はどうするんだ? こちらの手には入っていないんだ」
通話相手の声が、また、焦りに引きつり始める。
田原は、ごく小さく溜息を洩らしてから続けた。
「それだって、ハッタリかもしれませんよ? いいですか、万が一、何らかの『証拠』とやらが存在したとしても、タイ人の件は、こちらで掌握しているんです。問題ありませんから」
*
昼下がりの新宿中央署刑事課。
幸村班の島には、秩序なき秩序が存在する。
本橋が密かに試験問題集を開き、内職に精を出していると、幸村班長の不意打ちが飛んだ。
「へえ、モトピー。受けるんだ? 昇進試験」
「……ですけど、なにか?」
ややビビりながらも、本橋は開きなおる。
「ちょーっと早いんじゃない? あたしはまだまだ、鍛えたりないな、モトピーを」
「もう十分、苦労させてもらったっす」
席を立ち、伊織が素早く、本橋の背後に回る。
「あ。そこ、問三。それ、回答『証を得て、人を求む』だから」
「ち、ちょっと、邪魔しないで下さいよお」
本橋は慌てて問題集を閉じ、「真山さぁん」と、隣に助けを求める。
しかし、鋭意、読書続行中の真山は、「オレは知らねえなぁ……受けた事ないから」と生返事。本から目も上げない。
すると幸村班へ、人影が近づいてきた。
その人物は、濃紺のつなぎ黒の短靴という身なりには、いささか不似合いな執事風の物腰で、隣の井筒班員たちの視線を一身に受けながら、滑り寄ってくる。
「ご歓談中、失礼致します」
バトラー山崎の呼びかけに、川本が、慌てて席から立ち上った。
「鈴木さん……わざわざどうも。連絡もらえれば、こっちの方が足運んだのに」
「いえいえ、川本さん。差しでがましいかとは存じましたが、気になる事が判明いたしまして、急ぎこちらからお伺いした次第です」
静かに首を振って、バトラーが続けた。
「実は、タイ人留学生転落死の現場に残された履物痕が、根岸武夫死亡時着用の物と『一応』一致いたしました」
「一応?」
本に目を落としたまま、真山がぽつりと、一声上げる。
「はい。同一メーカー、同一品番、同一サイズの靴痕でございました」
バトラー山崎が応じた。
「あのぉ……その『根岸』って、神奈川県警から、今朝、死体一式、届いたヤツっすよね? あの自殺っぽい」
おずおずと本橋が口を挟む。
「昨日、川本が園山さんと、その根岸ん家に、家宅捜索入ったんだよね」
言って伊織が、川本を、ちらと見やった。
「そこで、この指輪とチェーンを発見なさったと」
すかさずバトラーが、ビニールの小袋を取り出す。
「こちら『あずきチェーン』と呼ばれるものでございます。幅、三ミリ強といったところでございましょうか。川本さんのお訊ねのとおり、皮膚片の付着がございまして、採取可能でございました」
「いやそもそも、何で川本さんが生安課のガサ入れなんかにですねぇ」
右手を突き出しながら、本橋が突っ込みを入れる。「つか、なんすか? それ」
川本がスリヤの顔写真取り出し、首の辺りを指し示した。
真山が、手にしていた本を机に置く。
「なるほど、そのチェーンが、ビルから落ちたタイ人の物じゃないかと思ったわけだな、川本は。まあ、確かに、タイ人の首にはごく細い索条痕類似の鬱血があったが」
「え?」
本橋が、思わず真山の方を向いた。
真山は、ポケットから手帳を取り出して、ページを捲った。
「剖検でも監察医が言ってだろうが」
本橋が、真山の手帳を覗き込む。
「うわ、真山さん。すっげ細かくメモってるし、つうか、そんなに細かい記録持ってるなら、報告書作ってる時、オレに教えてくださいよ」
「訊かれりゃ見せてやったさ」
真山が、パタリと手帳を閉じた。
「え? ちょっと待ってくださいよ、じゃあ、その『根岸』とかってヤツが、タイ人のスリヤを殺して、それで自殺したってことっすか? 町田で?」
本橋が、一同を見まわす。
「まあ、根岸の遺書は、あることはあったがな……」
川本が呟く。
「でも、何か偽造くさいと、川本は思っている」と、伊織が続ける。
「と、鈴木さんだって思ってる」
川本がバトラーを見る。
そしてバトラー山崎が、ひとつ頷いた。
一同はしばし押し黙る。
「そういえば、鈴木さん」と、静寂を破ったのは川本だった。
「下足痕が『一応』一致って?」
すると即座に、バトラーが応じる。
「根岸が着用していたブーツの踵は、大層片べりしておりまして。特に左の外側が。しかし、タイ人転落現場の履物痕は、あれ程の片べりした靴で歩いたにしては、全体的に鮮明過ぎるのでございますよ」
その時、伊織の脳裏に、ふとスリヤのバイト先の弁当屋での光景がよぎった。
――店の横、塀との隙間。
雑草と雑多ながらくた、割れたプランター。
ぬかるみに、足跡……。
「川本さんからお預かりした、このあずきチェーン。確かに、そのタイ人の写真の物と酷似しておりますね。おそらく、この切れたチェーンをこちらの指輪……」
バトラー山崎は、ビニールの小袋に入った大振りのリングを掲げて見せる。
「……に通し、首に下げていたのでしょう。指輪の内側にも、チェーンでついたと思われる、細い摩耗痕を確認できておりますし。さて、如何しましょう。川本さん、幸村さん。こちらのチェーン、本当にタイ人の物であるかは、科捜研の方にDNA鑑定を依頼しないことには。ああ、あと根岸の遺書、インクの件はもう少々、お時間頂戴します」
そこで幸村班に、新たな人影が近づいてきた。
「幸村さん、川本さん。ちょっと、よろしいですか」
慇懃無礼に厭味と皮肉をトッピングしたその口調は、まごうことなく梶谷刑事課長のものだった。
伊織と川本は、それぞれにまるで明後日の方角を眺めつつ、いかにも嫌々といった様子で、課長の後につき従う。
不意に、伊織が立ち止まった。
そして振り返ると、「あ、すいません。山崎さん、チェーンの皮膚片、鑑定の方依頼してもらっていいですかね?」と言い置く。
部屋から出て行く梶谷、伊織、川本の背中を見送りながら、本橋がそっと真山に耳打ちをした。
「ところで……ウチの班長、ノンキャリ史上では、最年少の警部補昇進だったって噂。ホントなんすか、真山さん?」
いつの間にか読書を再開していた真山は、本から顔も上げぬまま、「そういや、そんなだったな」と応じる。
本橋が「うそ……マジ」と目を瞠る。
そんな本橋を一瞥して、真山がふわりと微笑んだ。
「だから、警部補からは、一向に出世しないだろう? あの『嬢ちゃん』は」
*
伊織と川本を引き連れて、梶谷は五階へと上がっていく。
そして、応接室の前で立ち止まると、ノックはせず、中へと声を掛けた。
「両名、連れてまいりました」
返事を待たず、梶谷は、すぐさまドアを開けると、まず、自分が先に入る。
その後に、伊織、川本が続いた。
室内には、男が一人。
窓際に佇み、ブラインド越しに外を眺めていた。
ほどほどにスタイリッシュな銀縁眼鏡をかけ、そこそこのハンサム。
やや濃い目の顔立ち、中肉中背、伊織よりも数歳、若そうにも見えるが、醸し出すムードは、そこはかとなく尊大な感じだった。
梶谷が、ふたたび口を開く。
「管理官、幸村と川本です」
そして、伊織と川本に向かって、
「こちら、本庁の瀬戸口管理官だ」と付け加えた。
瀬戸口は、梶谷の言葉に、愛想良く頷いてみせると、ソファーを指し示し、歯切れよく「掛けましょう」と発した。
だが伊織も川本も、その場から、ぴくりとも動かなかった。
梶谷はといえば、できることならすぐにでも、ここから退げ出したいとでもいった風に、ドアの傍に立ったままだ。
瀬戸口は涼しげに微笑しながら、ひとりソファーに腰を下ろす。
「タイ人留学生の転落死。こちらで引き取らせて頂きました」
「知っています」
単刀直入な瀬戸口の切り出しに、川本も即答で応じる。
「おや。しかし、お二方には、まだ色々とお調べ頂いてたようですが?」
瀬戸口はふたたび、クールな微笑みを口の端に浮かべた。
鏡の前で特訓済み、といった類の表情だった。
スリヤのアパートの外で、自分たちの様子を伺っていた人影……。
その時の映像を、伊織は頭に思い浮かべる。
「わたしたちはともかく。本庁さんは、まだ全く捜査に着手してらっしゃらないでしょ?」
「そんなことはありませんよ」
瀬戸口は、しらじらしくも、伊織に切り返した。
「そうなんですか? ウチの鑑識からの諸々の移送もまだなのに?」
伊織も負けじと、やり返す。
すると、梶谷が小声で口を挟んだ。
「あの、わたくしは、この辺で失礼させて……」
「刑事課長。すぐ、済みますので」
すかさず瀬戸口に制され、梶谷は慌てて口をつぐむ。
「正直に申し上げましょう、幸村警部補、川本巡査部長」
両手の指を顎の下で組みながら、瀬戸口は勿体ぶるように言った。
「何故、我々が本件を引き取ったか。それは取扱いに『慎重』を要する事件だからです」
「……『慎重』ね」
川本がぽつりと洩らす。
瀬戸口は、それを無視して続けた。
「ですから、これ以上そちらで捜査を続けられるのは、はっきり申し上げて、不具合なんです。ここの所轄は、事件も多い。色々とお忙しいでしょう? この件については、こちらに御一任頂きたい。これは『お願い』です」
「聞いた? 川本、『お願い』だってさ?」
伊織が、川本を見上げて言う。
そして、小声だが、聞こえよがしに、「『強要』の間違いじゃない?」と付け足した。
伊織の皮肉を完全に無視し、瀬戸口は、ゆっくりと立ち上がった。
「お二方には、この点、ご理解頂けたと信じていますよ」
瀬戸口は、梶谷の前を素通りして、部屋を後にした。
ドアが閉まった途端、梶谷が、伊織と川本を睨みつける。
「確認しておきますがね。幸村さん、川本さん。今の会話、わたしは一切、関知しないということで。管理官とあなた方の間だけの話で、わたしには何の関係もありませんから。いいですね」
早口でまくし立てると、梶谷もまた、そそくさと応接室から出て行った。
「なに? あれ」
伊織は、両肩をすくめて見せる。
「どうやら……『お願い』でも『強要』でもなく、『恫喝』の間違いだったようだな」
川本が呟いた。
「それにしたって……『俊平くん』もさ、いやぁな男に育っちゃったよねぇ」
これ見よがしに、伊織が嘆息する。
「俊平くんにはさぁ、新人の頃。わたしたち、イイ教育してあげたはずなのにねえ」
そして、伊織はジーンズのポケットから携帯を取り出して、耳に当てた。
「あ? もしもしモトピー。ちょっと真山さんとあんたに、頼みたい事あるんだ。うん、もう一度、スリヤがバイト先の弁当屋を出て、柏木ビルから落ちるまでの足取り、追ってくれる? うん、うん判ってるよ、井筒班が一度調べたってのは。だから、今度は根岸の写真も持ってさ、根岸を見た人がいないか。うん。じゃ」
伊織は電話を閉じ、ふたたび川本を見上げる。
「『売られた喧嘩』ってさぁ?」
「『買う』だろ……普通」
川本が伊織を見下ろし、そこで、ふたりの目と目が合った。