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期待値という刃(制度の数理)

「……期待、値?」


チェンが、聞き慣れない言葉を口の中で転がした。


マカオの埠頭、潮風に混じって麻縄の粉っぽさが鼻を突く。 俺は、昨夜スマホの「一分」で得た解析結果を、一枚の唐紙に叩きつけた。


「そうだ。賭場の丁半博打と同じだよ。陳、お前が今のまま『特定の商人の荷を見逃す』ことで得られる賄賂の額……。それに対し、もし不祥事が発覚して官位を剥奪される『確率』を掛け合わせてみろ」


俺は地面に、棒切れで数字を書き込んだ。 AIが弾き出した、清朝官僚の汚職摘発サイクルと生存率の相関グラフ。それをこの時代の「銀」の単位に直したものだ。


「……計算するまでもない。お前が今受け取っている銀は、将来の『首の値段』に見合っていない。つまり、その商人はお前を安く買い叩いている。……舐められてるんだよ、陳」


陳の頬がピクリと動いた。 プライドの高い彼にとって、「舐められている」という事実は、どんな道徳的説得よりも効く。


キン――。 帆縄が風に弾かれ、マスト金具が鳴る。 それは、利害が噛み合う合図のようにも聞こえた。


「今のやり方は、リスクが不透明すぎる。だから俺は、この『則例ルール』を提案する。……全船舶から『安全保証料』という名目で、一律に少額の銀を取る。その代わり、手順を守る船は臨検を簡略化し、停泊時間を半分にする」


「……待て。そんな勝手な徴収、上が許すはずが――」


「上の取りマージンは今の倍になる。お前の手元に残る額も、だ。……なぜなら、『賄賂』という不安定な収入を、『制度』という確実なシステムに置き換えるからだ」


石畳を荷車の輪が噛み、ゴトゴトと響く。 その日常の騒音さえも、俺の頭の中では「キャッシュフロー」として並び替えられていく。


前世の俺は、液晶越しに他人の破滅をシミュレーションして楽しむ、嫌な性格のオタクだった。 だが今、その冷徹な視線が、この街の「腐敗の連鎖」を断ち切るための刃になる。


「ルールを握る者が、最も利益を得る。……それが、三百年後の常識だ」


俺は唐紙を陳に押し付けた。 紙に染みた墨の匂いが、未来を塗り替えるための「血」のように感じられた。


「陳、お前はただの役人で終わりたいか? それとも、このマカオの『新しい神様ルールメーカー』になりたいか?」


陳は黙って、地面に書かれた残酷な数字の羅列を見つめていた。 やがて彼は、吐き捨てるように笑った。


「……お前、本当に宣教師の助手か? 悪魔の秘書の間違いじゃないのか」


「光栄だよ。……さあ、仕事デバッグの時間だ」


俺たちは、西欧の大型船が並ぶ埠頭へと歩き出した。 歴史の歯車に、現代の知略という名のくさびを打ち込むために。

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