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コイルと漆(乾き待ちの苛立ち)

歴史なんてものは、後から振り返れば一行の記述に過ぎない。


『1700年、マカオにて通商制度の萌芽が見られた』――。


だが、その一行を書き換えるための現実は、驚くほどベタついていて、遅くて、不自由だ。


(……クソ、まだ乾かないのか。この湿気、どうにかならないのか)


俺は物置小屋の奥で、鉄心に巻き付けた銅線を睨みつけていた。 被覆のために塗りたくったうるしは、指先に触れるとぬるりと不快な抵抗を返す。


漆が固まるには、皮肉にも高い温度と、溺れるような湿気が必要だ。 現代なら数時間で済む工程が、ここでは一日、二日と、俺の焦りを削り取るように過ぎていく。


キン――。 帆縄が風に弾かれ、マスト金具が鳴る。


時計の針のようなその音が、俺の耳を打つ。 マカオの港は、今日も活気に満ちている。


石畳を荷車の輪が噛み、ゴトゴトと響くたびに、俺の胸はざわついた。 俺が止めるべき「未来の荷」が、いまも検査をすり抜けて運び込まれているはずだ。


(スマホの資料にある『広州密貿易の常態化』。その数字は、今この瞬間も積み上がっている。一刻も早くAIを起動して、チェンに渡すための具体的なルールを弾き出さなきゃいけないのに)


焦れば焦るほど、漆は乾かない。


前世の俺は、常に「速さ」を求めていた。 知りたい情報は検索一秒。欲しいものは翌日配送。 待ち時間という名の「空白」を、俺は最も忌み嫌っていた。


だが、この1700年の世界は、俺に強制的に「遅さ」を突きつけてくる。


「……はぁ。歴史オタクのくせに、時間の重さを分かってなかったな」


俺は、麻縄の粉っぽさが漂う物置の床に座り込んだ。


ふと、窓の外に目をやる。 一人の少女が、薬草を干しているのが見えた。


女薬種商の娘――ランだ。


彼女の手つきは驚くほど迷いがなく、そして緩やかだった。 生薬の土と、潮の匂い。 彼女が扱う時間は、俺が求めていた「効率」とは全く別の原理で動いているように見えた。


「……あんた、そんなに怖い顔して何を待ってるの?」


いつの間にか、蘭がこちらを覗き込んでいた。


「……乾くのを待ってるんだ。これが固まらないと、何も始まらない」


「ふーん。漆なら、急いでも無駄よ。あの子はあの子の都合で固まるんだから」


蘭はあっけらかんと言って、また薬草の整理に戻っていった。


(速さは自分を救わなかった。……なら、この『乾き待ち』の時間さえも、必要なコストなのかもしれないな)


俺は再び、まだ眠っている漆の表面を見つめた。 指先を汚し、前腕を痙攣させ、ただ漆が固まるのを待つ。


この地味で、退屈で、苛立たしい空白。 これこそが、巨大な歴史の歯車を狂わせるための「溜め」になる。


「焦るなよ、俺。世界を止めるための道具が、一晩でできるわけないだろ」


俺は自分に言い聞かせ、重い筆を取った。 電力が通るまでの間、AIの助けなしで、自力で帳簿の数字を整理しておくために。


漆はまだぬるりと光っている。 だが、俺の中の焦りは、ほんの少しだけ、この潮風に溶けて消えていった。

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