剥離する歴史
「……消えた」
マカオの夜。上申書を欽差大臣の手に委ねた帰り道、俺は手回し発電機のハンドルを放した。慣性で回るコミュテータの火花が小さく爆ぜ、闇に沈む。
スマホの画面を見つめる。 そこには、俺が知っているはずの「1700年代」の年表とは似ても似つきつかない、未知のシミュレーション結果が表示されていた。
〈ログ:史実との相関性 12%以下に低下〉 〈警告:未定義語の連続発生〉 〈社会構造:『公行による独占』から『多港相互監査』へ完全移行〉
画面の端には、これまでのAIにはなかったノイズが走っている。 AIの辞書にない言葉が、街の音から溢れ出していた。 「公共」「監査」「標準」――それらは現代語だが、この時代の広州では、全く新しい手触りを持った「現象」として定着しつつある。
石畳を荷車の輪が噛み、ゴトと脛に響いた。 帆縄が風に弾かれ、キンとマストの金具が鳴る。 その音は、俺が一次史料で読んだ「腐敗と密輸に満ちたマカオ」の音ではない。規則正しく、抑制された、どこか機械的な――だが、静かで安全な街の鼓動だ。
「俺が書き換えたのは、ただの制度じゃない。歴史そのものの『速度』だったんだな」
暗い画面の中で、AIのカーソルが点滅する。 かつては「アヘン戦争」や「植民地化」という巨大なスパイクが予測されていた未来のグラフは、今や凪のような水平線へと収束していた。
生薬の土と潮の匂い。 漆の箱に収まったスマホは、今や異界の知恵を授ける神体ではなく、役目を終えつつある「旧世界の遺物」のように見えた。 俺は独り、誰も知らない「回避された地獄」に背を向け、路地を歩く。




