羅針盤の磁石
俺は、自分の身体が嫌いだった。
前世では、キーボードを叩く指以外に価値を見出せず、重い本を運ぶだけで息を切らしていた。 そんなもやしっ子が、1700年のマカオで「発電機」を作ろうとしている。 笑い話にもならない。
(……だが、この世界にはAmazonも秋葉原もない。磁石が欲しければ、文字通り『削り出す』しかないんだ)
物置小屋の隅。 俺は師であるトマ宣教師から借りた、古い羅針盤を分解していた。
方位を示す磁針。 これが、未来を呼び出すための「心臓部」になる。
「何をしているんだい、助手?」
トマ師の穏やかな声が頭上から降ってきた。 彼は天文学の権威だが、この平和なマカオが「資本」という歯車に噛みつぶされようとしている現実には、あまりにも無頓着だ。
「師。この磁針を使って、少し『実験』をしたいんです。星を見るための、新しい道具の準備ですよ」
嘘ではない。 AIを起動させることは、未来という暗天を観測することと同じだ。
トマ師が去った後、俺は「知の道具箱」を慎重に取り出した。 画面は消えている。 だが、その黒い表面には、俺が前世で書き溜めた『もし清が海を選んだら』という自作ノートの記憶が刻まれている。
(スマホの資料にはこうある。磁気誘導の基本と、漆による絶縁。災害時の備えとして工作動画を保存していた自分を、初めて褒めてやりたい)
漆はまだ眠っていて、指先にぬるりと抵抗する。 俺はこの「ぬめり」を鉄心に塗り、銅線を巻いていく。
一巻き、二巻き。
腕がすぐに重くなる。 前世の不摂生が、三世紀を越えて俺を呪っていた。
キン――。 帆縄が突風に弾かれ、教会のマスト金具が鳴る。
その音は、まるで俺の作業を急かしているようだった。 マカオの港には、着々と欧州からの「資本」という名の波が押し寄せている。 史実では、この1700年前後、東インド会社の貸借対照表は急激に外征へと傾斜し始めるのだ。
「……ぐ、っ。歴史を変えるなんて……こんなに肩が凝る仕事だったのかよ」
漆の匂いが鼻につき、麻縄の粉っぽさが喉を焼く。 だが、俺の目の前には、陳から手渡された「本当の喫水データ」がある。
これを解析し、則例という形に結晶化させる。 そのためには、何としても安定した電力が要る。
ゴトゴト――。 石畳を荷車の輪が噛み、日常の音が響く。
その音の裏側で、俺はただ一人、磁石と銅線を相手に格闘を続けていた。 前世の俺が最も苦手とした、「地道な継続」という名の戦い。
(速さは俺を見捨てた。だけど、この一巻き一巻きの積み重ねが、いつかあのアヘンの地獄を止める楔になる)
磁針を組み込んだ回転体が、微かに震える。
漆の乾きを待つ。表面は半日、芯まで一日。 俺の、そしてこの世界の「電力」が生まれるまで、あと少し。




