ヒロインの静けさレポ
「ねえ、聞こえる? 港の音が変わったのよ」
女薬種商の彼女が、生薬の香りが染み付いた手で、街の様子を記した紙を差し出してきた。 広州の夜。かつては密輸船の接岸を知らせる不吉な口笛や、闇荷役の荒々しい罵声が絶えなかった路地に、いまは深い静寂が満ちている。
「夜が静かだとね、産み月の女がしっかり眠れるの。産婆の顔に、皺が一つ減ったわ」
彼女のレポートには、数字には表れない「体温」が宿っていた。 則例が浸透し、夜間入出港が禁じられたことで、路地から暴力の気配が消えたのだ。アヘンで手が震えていた桶職人が、いまは輸出用の封緘作業で、昼の光の下、誇らしげに紐を結んでいるという。
「あなたの則例が紙から路地へ降りたとき、最初に変わったのは音だった。静けさは、どんな薬より効くのよ」
俺は彼女の言葉を聞きながら、漆の匂いが立ち込める作業場でスマホを起動した。 小水車が回す5Vの電力。ノイズ混じりの画面には、第二部の成果がグラフとなって踊っている。
夜間違反率は地に落ち、正規の関税収は右肩上がりだ。 「期待値」という刃で密輸の根を断ち、名簿の公開で「信用」を可視化した。 史実ではアヘン戦争へと突き進んでいた壊滅へのカウントダウンが、この1700年のマカオで、地味で強固な「秩序の鼓動」へと書き換えられている。
だが、画面の端に、見慣れないノイズが走った。
「……? AI、このラグは何だ」
推論エンジンが、歴史の「剥離」を検知している。 俺が歴史を白紙に戻し、平和な「永い余白」を作り出すほど、未来の産物であるAIは、この世界との接点を失っていく。
〈現在の状況:史実との乖離率 12%〉 〈予測:軍需加速の停滞による“未来”の不透明化〉
「速さを止めることは、お前の存在意義を消すことなのか……?」
俺の独白に、AIは答えない。ただ、揺れる光の中で、次の標的――海を越えてやってくる巨大な「構造の暴力」、英東インド会社の影をヒートマップに映し出すだけだ。
石畳を荷車の輪が噛み、ゴトと脛に響いた。 路地には安らかな寝息が満ちている。 俺は、自分の快適な未来を削り、この静かな夜を守ることを、改めて自分に刻みつけた。




