帳簿のズレ/喫水の嘘
俺は歴史オタクとして、数字が大好きだった。
前世の狭い自室。 俺は過去の徴税記録や貿易統計を眺めては、「この時期のイギリスの関税政策はクソだな」なんて毒づいていた。
数字は嘘をつかない。 根気よく突き合わせれば、隠された「意図」は必ず腐敗した澱のように浮かび上がってくる。
(……そして今、俺の目の前にあるこの分厚い帳簿。これは下水のような悪臭を放っている)
「おい、いつまでそこを眺めているんだ。トマ師がお呼びだぞ」
背後から声をかけられ、俺は慌てて羊皮紙から目を上げた。 そこに立っていたのは、海関の若手吏員、陳だ。
上昇志向はあるが、実務に挟まれて常に機嫌の悪そうな男。 俺は宣教師助手の特権を活かし、通関手続きの「手伝い」という名目で、港務署の控え帳簿にアクセスしていた。
マカオの港は、朝から騒がしい。 帆縄が風に弾かれるキンという高い音。 石畳を叩く荷車のゴトゴトという重い振動。
市場の喧騒の中、秤の錘が皿を叩く。 ――カン。 この街の生命線である「取引」の開始を告げる音だ。
「……陳さん。このオランダ船の積み荷、少し気になりまして」
俺は控え帳簿の一行を指差した。 陳は鼻で笑い、麻縄の粉っぽさが漂う空気の中で肩をすくめた。
「オランダの野郎どもが数字をごまかすのはいつものことだ。銀をいくらか握らされれば、俺たちは重さを少しばかり見逃す。それがこの港の『潤滑油』だよ」
潤滑油。 史実では、その言葉がこの国の土台を溶かした。
俺は昨夜、一分間の微起動でAIが示したヒートマップを思い出す。 スマホの画面上で赤く燃えていた「予兆」は、まさにこの―― 一見すれば単なる端数のごまかしに過ぎない「喫水の嘘」を起点にしていた。
(スマホの資料にある。この時期の非正規貿易の黙認が、官僚の組織的腐敗を決定づけた。今、陳が笑って見逃しているこの数トンの不整合。これが数十年後、船倉を埋め尽くす毒――アヘンの道筋になるんだ)
「陳さん。これ、ただのごまかしじゃありませんよ」
「……あ?」
「船の沈み具合(喫水)に対して、申告重量が二割も軽い。もしこれが銀の密輸だとしたら、あんたが受け取った『潤滑油』じゃ、到底足りない額の損失が、上にある『本来の取り分』から消えてることになります」
陳の目が、不機嫌なものから鋭い警戒の色へと変わった。 官吏にとって、上の顔色と自分の取り分ほど大事なものはない。
「……何が言いたい」
「この港には、ルールがありません。あるのはその場しのぎの『加減』だけだ。だから下っ端のあんたがリスクを負って、上の人間だけが甘い汁を吸う構造になっている」
俺は、懐に隠した唐紙の束を意識した。 昨夜、前腕の激痛に耐えながら、AIの推論を基に書き写した「則例」の断片だ。
「俺に考えがあります。陳さん、あんたの出世と、この港の『本当の数字』を守るための、新しい手順です」
俺は不敵に笑って見せた。
「夜の闇で船が軽くなる魔法を、終わらせる方法ですよ」
陳は黙って俺を見つめていた。
市場では、また秤の錘がカンと鳴った。 それは、昨日までとは違う、新しい秩序が刻まれる音のように聞こえた。
前世で逃げ続けた「責任」という名の重い荷。 それを今、自ら担ごうとしている。
速さは救わなかったが、この地味な数字の積み重ねなら。 この海の先にある地獄を、きっと押し留められる。




