監査の印
「……おかしい。梁の爺さんが折れた後も、この『赤』が消えないのか」
俺は鉛蓄電池の端子が放つ、わずかな酸の匂いを嗅ぎながら、一分間の限定起動に入ったスマホの画面を凝視した。 公行(商人ギルド)が則例を飲み、表面上の癒着は消えた。だが、AIが描き出した「官吏リスクのヒートマップ」には、依然として特定の時間帯、特定の接岸ポイントに、血の滲むような赤色のスパイクが残っている。
「陳、この接岸第四区、最近の臨検時間はどうなっている?」 暗がりで、帳簿をめくっていた陳が眉を寄せた。 「ああ、そこか。そこは東インド会社(EIC)の指定席だ。則例通りにやってるはずだが……なぜか書類の不備が多くてな、いつも臨検が長引くんだ。連中、英語の解釈でいちいち粘りやがる」
「粘る……? いや、逆だ。時間を稼いでるんだ」
俺は、ノイズ混じりの画面に表示された「社会疲弊の代理指標」――銀の流出速度と兵士の欠勤率の相関グラフをなぞった。 官吏たちがEICの紳士的な「書類不備」に対応している間、その死角となる別の小舟で、何かが静かに運び込まれている。 梁が「国内の癒着」だったなら、これは「外圧による構造的麻痺」だ。
「書類の山で目を潰し、時間の迷宮で法を無効化する。……これが、株主の利益を守るための『正当な手続き』ってわけか」
石畳を荷車の輪が噛み、ゴトと脛に響いた。 外の埠頭では、EICの巨大な商船が、法に守られた「正義の顔」をして停泊している。その帆縄が海風に弾かれ、キンと冷たい音を立てた。
俺は震える手で、液晶に浮かぶ赤色のクラスターを唐紙にトレースした。 AIは答えを言わない。ただ、統計上の「異常」という形で、静かに警告を発し続けている。
「陳、則例をもう一段階、強化する。……『相互監査』だ」 「公行とのやつか?」 「いや。海関の吏員同士、そして――隣の港の吏員との突合だ。広州で通らなかった荷が、マカオで通る。その『差分』こそが、彼らの隠れ蓑だ」
生薬の土と潮の匂いが、朝の湿気に濃く混ざり始める。 俺が引いた新しい線は、もはや国内の腐敗だけを狙ったものではない。 「会社→金融→海軍」という、海を越えて押し寄せる巨大な暴力の歯車に、砂を放り込むためのものだ。
「速さは自分を救わなかったが……この『遅さ』こそが、彼らの計算を狂わせる唯一の楔になる」
スマホの画面がプツリと消え、部屋に深い闇が戻った。 だが、俺の手元には、トレースされた「敵の形」がはっきりと残っていた。




