最初の勝利(データ無双)
「ふざけるな! こんな紙切れ一枚で、我らの商売を縛るつもりか!」
マカオの埠頭、潮風に混じって怒号が飛ぶ。 詰め寄ってきたのは、この界隈を牛耳る公行(商人組合)の重鎮、張だ。
彼の背後には、人足たちが積み上げた茶葉と絹の山がある。 これまでは「適当な賄賂」で重さをごまかし、関税を逃れてきた。それが彼らにとっての「正義」だった。
「これは紙切れじゃない。この港の、新しい『生存戦略』だ」
俺は震える指先を隠し、陳の横で静かに言い放った。
陳は、俺が渡した『則例』を掲げ、冷徹な役人の顔を作っている。 周囲には、何事かと商船の乗組員や野次馬が集まってきた。
キン――。 帆縄が風に弾かれ、マスト金具が鳴る。 緊迫した空気が、一気に熱を帯びる。
「則例だと? 若造が。俺たちがどれだけこの港に銀を落としていると思っている!」
張が俺の胸ぐらを掴もうとした瞬間、俺はAIの解析結果を書き写した唐紙を、彼の鼻先に突きつけた。
「張さん。あんたの船、『祥龍号』。昨夜、積載量の三割を海上で小舟に移し替えたな? 喫水の変化と、ここ数週間の風向き、潮位のデータがすべて、あんたの不自然な動きを証明している」
張の動きが、凍りついたように止まった。 石畳を荷車の輪が噛み、ゴトゴトと響く音さえも、今は彼の動揺を煽るBGMに聞こえる。
「……な、何をデタラメを!」
「デタラメかどうか、今すぐその船倉を開けてみればわかる。……もし、俺の計算通りの『空隙』があれば、あんたは密輸の罪で全財産を没収される。……だが」
俺は一歩踏み込み、声を低くした。
「今ここで、この新しい『則例』に署名し、適正な『安全保証料』を払うなら、過去の数字には目をつむるよう、陳さんに話をつけてある」
「……っ」
張の額から、大粒の汗が滴り落ちた。 前世の俺は、画面越しに「論理の勝利」を眺めるだけだった。 だが今、目の前にあるのは、一人の人間の人生を左右する、剥き出しの「知の暴力」だ。
麻縄の粉っぽさと、張り詰めた沈黙。 やがて、張は力なく膝をつき、陳の持つ筆を震える手で取った。
「……わかった。この『ルール』に従おう」
周囲から、どよめきが上がる。 特定の有力者の横暴が、名もなき助手の持ってきた「数字」に屈した瞬間だった。
「……おい、本当にやったな」
陳が、小声で俺に囁いた。その目は、驚愕と、そして拭いきれない「恐怖」に揺れていた。
「言っただろ、陳。ルールを握る者が、勝者だ」
俺は、漆で汚れた自分の手を見つめた。 手回し発電機で焼けた前腕が、微かに熱を持っている。
これは、たった一隻の勝利に過ぎない。 だが、この小さな「一歩」が、アヘンの煙に巻かれるはずだった未来を、確実に、物理的に書き換えたのだ。
俺は空を仰いだ。 1700年の高い空に、見えない歴史の歯車が、激しく軋みながら回り始める音が聞こえた気がした。




