イカロスの翼
天つ風という魔法の本質は、絶対優位な空間の創造だ。
三次元空間の全方位から荒れ狂う、嵐という異界の顕現。重力すらもそよ風のようにかき消してしまう、莫大な運動エネルギーの大嵐。
この暴風の中では、距離の制約は意味をなさない。飛びたいという意思さえあれば、風はどこまでも連れて行ってくれる。
嵐を纏い、嵐を飛ぶ。瞬きにも満たない速度で、天使の前に立つ。
降り注ぐ極光なんてものは、もう何の障害にもならなかった。ただ、避けて通ればいいだけだ。
それを可能とする速さが、私にはある。
速く、速く、どこまでも速く。
嵐が生んだ無法なる自由。その中では、速さこそが唯一絶対の法となる。
:いっけえええええええええええええええ!!
:うおおおおおおおおおおおおお
:決めろ……! 押し切れ……!
:勝てんの!? これ勝てんの!?
:っていうか今どうなってんの!?
:速すぎてなにがなんだかわかんねえ!
嵐の中で、嵐のように剣が交わされる。
天つ風を纏った私の剣技に、しかし天使は食らいついた。銀の剣を振るって打ち合いに応じ、時には攻撃を見切り、隙をついて斬り返してくる。
火花のように剣が爆ぜる。一秒のうちに数百回と剣が合わさって、何重もの金属音が機銃のように放たれる。
誤算があった。いい意味でも、悪い意味でも。
天つ風の持続時間はたった九秒。その九秒で決めきれなければ、勝機はない。
しかし天使は、神風を得た私を相手に互角に打ち合っている。最大最速の風魔法を持ってしても決定打に至らないのは、手痛い誤算だ。
いい誤算は、この状態の私と戦える相手が存在したこと。
はっきり言って状況は悪い。だけどもう、そんなことはどうでもいい。
己の全力をぶつけてなお切り崩せない好敵手の存在に、魂がかつてなく高揚する。
もっと。もっとだ。もっともっと、戦いたい。
もっと私は、速くなれる。
もっと私は、強くなれる――!
「いやはや、正直驚いた」
白髪の少年は、感嘆したように言葉を漏らす。
そこにいるようで、どこにもいない少年だ。限界を振り切って加速した知覚の片隅で、私は非合理的に彼を認識していた。
「まさか人の身でここまでやるとはね……。なかなかいないよ、英雄に食らいつく人間なんて」
正直言って、いい気分はしなかった。
邪魔をしないでくれ。私と天使の戦いに。
だって今、こんなにも楽しいんだから。
「だけどね。あくまでこれは、善意から言わせてもらうんだけど」
加速する戦いの中で、互いの剣が熱を帯びる。
私が握る超硬度チタンブレードと、天使が振るう銀の剣。実力は互角でも、物質としての強度には大きな違いがあった。
甲高い金属音とともに、赤熱した銀の剣が砕け散る。
瞬間、天使に生まれた、大きな隙。
今なら勝てる。今なら殺れる。
細い首を刎ねれば、この戦いは決着だ。
だから私は、彼女の首に、剣を。
「本当に、それでいいのかな?」
……剣を?
違う。
剣じゃない。
殺すな。
間違えるな。
殺すな。
私は救助者だ。
殺すな。
殺すな。
私は、助ける、ために。
「……っ!」
理性が体にブレーキをかける。とっさに私は、自分の剣を投げ捨てた。
悪手の中でも最低の部類。自殺にも等しい戦闘放棄。
だけど、そうでもしないと、本当に殺しそうだったんだ。
九秒が過ぎ、天つ風が消失する。戦域を支配していた神風が、その場から霧散する。
世界に重力が戻るその瞬間に、両手で天使を抱きしめる。そのまま私は、彼女もろとも真っ逆さまに落下した。
「******……?」
地面に押し倒された天使は、無機質な瞳で私を見上げていた。
剣を捨て、戦いを捨てた私の行動は、きっと彼女には理解できないだろう。
私だってわからない。
なんだ今のは。なんだ、今の衝動は。
私は今、本気で、この子を。
「……もう、やめよう」
荒く息を吐きながら、ぶるぶると拳を握りしめる。
剣じゃダメだ。あんなものは役に立たない。
これ以上、力をぶつけたって、なんにもならないんだ。
「帰ろうよ……!」
だから私は、精一杯に声を張った。
その言葉が、届かないと知っていても。
:お嬢……
:え、どうなったの?
:勝ったってこと……?
:いや、これは……
:そっか、戦ったって、勝ちも負けもないんだ……
天使は私を押しのけて、再び空へと飛び上がる。
私にはもう、彼女を止める術はない。そんな力も、そんな魔力も残っていない。
空に舞い上がった天使は、うなだれる私を無機質な目で見下ろして。
「……******」
そして彼女は、太陽機械に向かって飛ぶ。
たとえ灼熱が身を焦がし、白い翼を焼こうとも。
生贄になるつもりだ。
彼女は、そのためにここに来たのだから。
「私、は……」
太陽機械の中心にある球体に溶け込むように、天使の姿は消えていった。
それを機に、太陽機械を取り巻くリングの動きが鈍くなる。赤熱する太陽機械から放たれる熱が、ゆるやかに弱まっていく。
抑制が始まったのだ。天使の血を消費しながら。
命を貪る邪悪な光景に、心はさざなみを立てるけれど、体はもう動かない。
「どうすれば、よかったのかな……」
どうすればよかったのだろう。
どうすれば、あの子を助けられたのだろう。
力ばかりを求めてきた。そうすれば命を救えると信じて。
剣技を磨いた。速さを突き詰めた。シリンダーを改良した。
魔力核を取り込んだ。撫斬首落を手にした。
だけど今、そんなものは何の役にも立たなかった。
だったら、私は。
私は。
私は……。
「……らしくないじゃ、ないですか」
その時。
聞こえてきた声に、耳を疑った。
「間一髪、ってとこ、ですかね。だけど……間に合った」
息を切らしながら、その人は笑みを浮かべる。
いつもの彼女からは想像もつかない、ぎらぎらとした強い笑み。
「なん、で……?」
「なんでも何も、そんなの決まってるでしょう」
灼熱が支配する領域に、彼女は臆することなく足を踏み入れる。
「助けに来ましたよ、白石さん」
逆境をねじ伏せるように。
絶望に挑みかかるように。
蒼灯すずは、不敵に笑った。