英雄
お金を支払う。情熱を燃やす。時間を費やす。
願いのために、人はどこまで捧げられるのだろう。
血を流す。情を捨てる。命を捧げる。
願いのために、人はどこまで捧げることを許されるのだろう。
彼女には譲れない願いがあった。彼女には守りたいものがあった。
それが何かはわからないけれど、それが天使にとってどれほど大切なものなのかは、よくわかる。
絶対に。
絶対に、絶対に、絶対に。
絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に。
絶対に、失うわけにはいかなかったのだ。
だから彼女は、捧げてしまった。
たった一つの願いのために、人としての在り方を。
:なんだ、あれ……
:天使ちゃん、なのか……?
見た目に大きな変化はない。ただ、髪と瞳の色が変わっただけだ。
だけど、その存在の根底は、明らかに違っていた。
こうして相対している私にも、今の彼女が何なのか、判断がつかない。
それが人なのか。魔物なのか。生物であるかどうかすらも、定かではない。
神か悪魔か。あるいはそれに準ずるものか。
彼女が成り果てた英雄とは、そういうものだった。
「……真堂さん」
インカムに呼びかけても、返事はない。
それでも私は言葉を続ける。
「これ、死ぬかも、しれません」
絶対的な力を前に、かつてないほど身の毛がよだつ。
死線をくぐってきたことならこれまでだって何度もあった。だけどこれは、わけが違う。
『忘れられた魔女』リリスよりも、『異星侵略種』呪禍よりも、『大海の覇者』大海龍よりも。
これまで見てきたどんな魔物も、今の天使には遠く及ばない。
あれはもう、生物としての枠組みを完全に外れてしまっている。
「なので」
それでも。
「そうなったら、ごめんなさい」
諦めるなんて選択肢は、最初からないのだ。
剣を握り直し、余計な考えをまとめて頭から切り捨てる。
あの子を助けるにはどうすればいいか。ただ、それだけを考えていた。
:なんなんだあの力……
:ドローンの計器がとんでもねえ魔力量を検出してるけど
:完全体呪禍より多いぞこの魔力量
:さすがになんかのバグだよな……?
納得感はあった。天使が放つ力には、それだけの圧がある。
魔力量だけで考えるなら、恐ろしいほどの差があった。天使の魔力量をバケツだとするならば、私の魔力量なんてコップについた水滴のようなものだ。
だけど、魔力量だけが勝敗を決めるとは限らない。
再び宙へと浮き上がった天使は、微笑みを浮かべて私を見下ろしていた。
優しい微笑に反して、瞳は昆虫のように無機質だ。一切の感情を放たない瞳には、凪いだ心がそのままに映し出されている。
アルカイック・スマイル。
まるで彼女は、天使のように。
「********」
微笑を浮かべたまま、空に手をかざして。
「*************」
その手のひらに、極光を握りしめ。
「***」
振り下ろした。
:!?
:え、ちょっと、は?
:おいおいおいおいなんだこれ
:レーザー兵器かよ
七色に輝く極光の柱が、ドーム内にいくつもあらわれる。
ドーム内に降り注ぐ極太のレーザー群。莫大なエネルギーが光となって、触れるものすべてを焼き尽くす。
輝きに満ちた死。荘厳で神聖な殺戮。
神威にも似たそれに、束の間目を奪われて。
「……っ!」
風走りを使って、空を翔ける。
どんなに激しい攻撃だろうと、当たらなければ意味はない。守りを捨てて早さをとった私にできる、唯一絶対の防御手段だ。
だけど、いくら速くても風は風だ。
光の速度には……。
「な、めん、なっ!」
さらなる加速。空を滑って、降り注ぐ極光の柱をすり抜ける。
何が光だ。何が光速だ。知るかそんなもの。
いくら光が速くても、それを操るのは人の意志だ。反応を振り切る速度で飛べば、避けられないことはない。
攻撃予測、反射神経、それから運。持てるものを総動員して、死を纏う光と踊る。
「***」
天使は短く呟いて、指揮者のように指を振る。
たったそれだけの仕草で、放たれる極光の数が倍に増えた。
:おい増えたぞ!?
:この光の柱増えんの!?
:ズルじゃない!?
更に苛烈になった極光。体中が危険信号を上げながら、紙一重で攻撃をすり抜ける。
すると天使は、もう一度呟いて指を振った。
「***」
極光がさらに増える。
足りないから足した、とでも言うくらいに簡単に。
:ま、まだ増えんのか……
:やってること無茶苦茶過ぎる
:次元が違う……
:もうやりたい放題じゃん
それを成し遂げた天使は汗一つかいていない。不気味なくらいに静かなアルカイックスマイルを浮かべたまま、空に漂っている。
こんな苛烈な攻撃も、今の彼女にとっては児戯に等しいのかもしれない。
ドーム内にひしめく極光の間を、運に身を任せですり抜ける。
長期戦は不利だ。いつまでも避けられるわけじゃない。時間をかければ、いつかは必ず捕まってしまう。
だったら……!
「…………っ!」
残り少ない魔力で風巡りを展開して、私は自分から極光に飛び込んだ。
極光に籠められた凄まじいエネルギーを、嵐の防壁で受け止める。しかし、風属性最大の防御魔法の力を持ってしても、破壊の光を止めきることはできない。
食い止められたのは一秒か二秒。滝のように降り注ぐ極光は、すぐに嵐の防壁を突き破ってしまった。
だけど。一秒も止められたなら、十分だ。
「……あああああああああああああっ!」
体のあちこちを焼きながら、光を突き抜けて天使に迫る。
被弾覚悟の超速攻。最短最速で距離を詰めた私は、得物を――。
天使は。
ただ、私に、手をかざした。
衝撃が走る。体が吹き飛ぶ。隔壁に叩きつけられて、地に堕ちる。
反撃を食らった、ということは理解した。だけど、なぜ。
いくら英雄の力があったとしても、私の速度は天使を上回っている。反応させる余地なんて与えなかったはずだ。
……だとしたら、答えは一つ。
読まれていたんだ。この速攻すらも。
「……強い、じゃん」
:マジか……
:ちょっとこれ強すぎない……?
:こんなヤケクソな力持っておきながら、駆け引きまでしてくんのかよ
:いくらなんでも化け物すぎる
座り込んで、空に坐す天使を見上げる。
正直に言うと、他に打つ手がなかった。
奇襲はもう通じない。対空特攻がある風降ろしだって、あの魔力量の前では吹き飛ばされて終わりだろう。
「だけど」
だから、切り札を使うしかなかった。
殺す相手にしか使わないと決めていた、必殺の切り札を。
「まだ、終わらない」
手に握るナイフから、凄まじい魔力が溢れ出す。
これはルリリスに作ってもらった魔抜きナイフ。
相手の魔力を奪い取り、中に収めたシリンダーへと供給する、特殊なナイフだ。
:!?
:魔抜きナイフ!?
:お嬢……まさか……!
:やりやがった! まだあるぞこれ!
「飛ぶよ」
ナイフに収められた純白のシリンダーが、豊富な魔力供給を受けて唸りを上げる。
恐るべきは英雄の力だ。ほんの一瞬突き刺しただけなのに、十分すぎるほどの魔力量を供給してくれた。
「天つ風」
風が吹き込む。重力が消える。
風属性最上位魔法、天つ風。
吹きすさぶ神風が、重力という呪いから世界を解き放った。