こっちは楽しそうだね
#29 ふぁーすとこんたくと
通路を進んでいくと、段々と周囲が暑くなってきた。
道を進むほどに体がじんわりと汗ばんでくる。胸元のシャツをぱたぱたとさせながら、ドローンに備え付けられた温度計の数値をスマホで確かめる。
摂氏、五十三度だった。
「……えと、真堂さん」
「ああ、どうかしたか」
「ここ、なんか、暑いみたいです」
:え
:ほんとじゃん
:五十三度!?
:人が生きてられる環境じゃない
:お嬢が干物になっちまうよ
:元から干物みたいなもんだろ
:おうそれはどういう意味だ
正直私も驚いていた。体感だと、ちょっと暑いなくらいだったので。
「……なぜすぐに気づかないんだ、君は」
「すみません……」
「平気なのか? 行動に支障は?」
「問題ない、と思います。これくらいなら、大丈夫です」
:まあ、平気ならいいのか……?
:探索者って気温高くても大丈夫なの?
:魔力で体が強靭になるから、暑さ寒さに強くなるとは聞くけど
:ここまで極端なのはなかなかレアかも
:まあ、お嬢ならそういうこともあるか
:お嬢のことなんだと思ってる?
探索者が環境変化に強くなるってのは、たしかにそうなんだけど……。
少し前に、きぐるみを着て迷宮四層に訪れた時は、全身汗だくになったことを覚えている。あの時は耐えられないほどの暑さを感じていたはずだ。
だけど今は、この環境でもじんわりとしか暑さを感じない。
「…………」
魔力核を得たことで、私も適応してきたのだろうか。
この迷宮に生きる、魔物たちと同じように。
「*****?」
考え込んでいるうちに立ち止まっていたらしい。
そんな私の顔を、天使がひょこんと覗き込む。
:どうしたの? かな
:これは簡単
:素直な子だね
心配そうに見ている天使は、汗一つかいていない。
彼女は彼女で、暑さを感じていないようだった。
「えと……。暑く、ない?」
「*******?」
「あ、えと」
なんて伝えたらいいんだろう……。
とりあえず、スマホに映した温度計の数値を見せてみる。それを見ても、天使は不思議そうにしていた。
……ダメか。まあ、摂氏どころか数字だってわかんないもんね。
「……****?」
天使は私の周りをくるくる回る。
それから目の前で立ち止まったかと思うと、一歩ついっと近づいて。
「わ、わ、わ」
ぎゅっと、私に抱きついた。
「ひゃあああぁぁぁ……」
「*****。*******」
:!?
:て、天使さん!? 何してるんですか!?
:リスナーに餌を与えるのはやめてください! 捗ってしまいます!
:こんなのえっちすぎるよぉ……
:ただのハグだろ、お前らどうした?
彼女は私に抱きついたまま、翼を広げて私を包み込む。
白い翼がさわさわと体を覆う。その感触は心地よいんだけど、突然のことに頭はぐるぐるだし、心臓もどきどきと高鳴って体が火照って――。
……いや、火照ってはいない、ような。むしろ涼しくなったような……?
「********」
ややあって、天使は私から体を離す。
なんだか納得げな表情だ。いや、私はなにがなんだかわからないんだけど。
「あ、あの、えと」
「******」
天使の手には、いつの間にか小瓶が握られていた。
その小瓶には見覚えがある。さっき、毒を採取するのに使ったのと同じ小瓶だ。抱きついた時に、私の懐から拝借したらしい。
彼女はその小瓶の蓋を開け、それから銀の剣をすらりと抜いて、
「***」
ついっと、自分の腕を剣で浅く傷つけた。
:えっ
:ちょっと天使ちゃん!?
:なるほどね。お嬢の抱き心地を存分に堪能した天使は、もはや思い残すことはないと自害を決意するに至った……ってわけか
:どの辺りがなるほどなんですか
:本当に何言ってんのかわかんない
:誰かこいつの言葉も翻訳してくれる?
「え、え、えと」
「****」
傷口から漏れ出した天使の血は、彼女の指を伝って滴り落ちる。その雫を、天使は小瓶に詰めていた。
いっぱいになるまで血を集めると、天使は瓶の蓋を閉じて私に差し出す。わけもわからないまま、私は小瓶を受け取った。
それを手にした瞬間、体にまとわりつく暑さが、急速に霧散する。
……なんだこれ。ただの血じゃないぞ。
「白石くん。その血、スキャンしてみてくれ」
「え、はい」
言われるがまま、ドローンで血の小瓶をスキャンしてみる。
こうすれば、血液や体組織なんかの組成データが取得されるはずだ。
:んー?
:データだけ見せられてもなんとも
:我々も素人ゆえに
:ごめんお嬢、俺たちが天才生物学者じゃないばっかりに……
:いや待って、これ温度じゃない?
:お?
「……なるほどな。白石くん、今度は天使をスキャンしてくれ。サーモグラフィだけでいい」
「あ、はい。わかりました」
その時天使は、傷口を舐めて自分で止血していた。あれだと雑菌が入るかもしれないから、後でちゃんと手当てしておこう。
言われるがままドローンを操作して、サーモグラフィで天使を映す。
その結果を見て、私は思わず絶句した。
:え、なにこれ
:天使ちゃんめっちゃ熱くない!?
:体温二百度!?
:どうなってんねん
:なんだこれ、センサーバグった?
センサーではその数値が出ているけれど、私の体感ではそうじゃない。
天使の手を取り、もう一度触れてみる。天使の肌は少しひんやりとした感触がした。
とても、二百度とは思えなかった。
「理屈はわからんが、仮説は立つ。天使には熱を奪い取る能力があるんじゃないか」
「え、なんですか、それ」
「周囲の熱を一方的に吸収し、体内に蓄える能力だ。それを可能としているのが、その血なのかもしれない」
「ええ……?」
なんだその、熱力学に真っ向から挑みかかるような不思議生物は……。
だけど実際、血の小瓶をもらってから暑さが大きく和らいだ。過剰な暑さはこの血が吸収してくれている……ってことなのだろうか。
「*******」
天使は私の服の裾をくいくいと引っ張る。それから、二本の指と翼で行き先を示した。
:早く行こう、ってさ
:せっかちさんだ
:待ってるの飽きちゃったみたい
「あ、うん。えと」
考えを途中で切り上げる。たしかにこんな通路のど真ん中で考え込んでいたら、魔物に襲われたっておかしくない。
進むことに異論はないんだけど、その前に。
「あのね、えっと」
天使の顔を見る。彼女はきょとんと首を傾げていた。
「ありが、とう……じゃなくて」
天使の意図はわかった。私が暑がっていたから、血をわけてくれたんだ。
それについてのお礼を伝えたいんだけど、言葉じゃ伝わらないから、ええっと……。
:お嬢お嬢、お腹の前に手を置くんだと思う
:さっきのT字路でしてた動きかな
「あ、うん。それだ」
リスナーに言われた通り、両手を組んでお腹の前に置いてみる。
たぶん、これが、お礼のジェスチャーだった……はず。
「*****!」
それを見た天使は、ちょっと驚いた顔をして、にっこりと微笑んだ。
なんとなくわかる。これは、どういたしましてだ。
:おー
:コミュニケーション成立したぞ!
:成功です! 天使語解読、成功しました!
コミュニケーションは、正直かなり苦手なんだけど。
なんか、ちょっと、楽しいぞ。