はじめまして、こんにちは。
折りたたみの椅子に腰掛けて、ガスバーナーコンロで湯を沸かす。
マグカップの上にドリップバッグコーヒーを置き、その上からゆっくりとお湯を注ぐ。砕かれた豆が温かく湿って、暗黒色の上品さがふんわりと広がった。
ちょっと大人な香りを楽しんでから、一口。
「コーヒーってさ」
:うん
:はい
:どうしましたか
「苦いね」
:そうだね
:そこに気がつくとは
:さすがですお嬢
:また一つ世界の謎が解き明かされてしまった
:ミルクと砂糖入れなー?
そうしよう……。
試しにと買ってみたけれど、思った以上の苦い味わいに面食らう。コーヒーフレッシュと砂糖を入れたらちょっとはマシになったが、あんまり好きな味ではなかった。
残りは今度、カレーに入れようかな。いつかの時、真堂さんがそうしたら美味しいって言ってたし。
それで。この少女は一体なんなのだろう。
魔物の死骸が魔石化して、元の美しさを取り戻した神殿にて。床に敷いた寝袋の上に、例の少女が眠っていた。
身にまとうのはオフホワイトのドレスワンピース。銀の髪は美しく流れ、顔立ちは彫刻のように美しく整っている。
そして何より、背中に生えた白く大きな翼。それも相まって、彼女にはまるで天使のような神聖さがあった。
「戻った。今、どういう状況だ」
「あ。えと」
耳につけたインカムにざざっとノイズが走って、真堂さんの声がした。
えっと、どうやって説明しようかな。
「なんか……。一人、助けました」
「助けた? そんな場所でか?」
「えと……」
:探索していたら神殿めいた場所についたんです、真堂さん。
:そこに魔物に襲われた少女がいたので、現場判断で救助しました。
:発見当時は極度の興奮状態にあり、お嬢にも剣を向けていましたが、今は落ち着いて眠っています。
:特記事項として、少女は未知の言語を操りました。またご覧の通り、背中には翼があります。
:リスナーで手分けして調べましたが、彼女に関する既知の情報は発見されていません。少なくとも探索者ではないでしょう。
:こちら一連の流れをまとめたクリップ群です。必要でしたらご参照ください。
リスナーたちの長文コメントがだーっと流れる。ややあって、真堂さんは苦笑交じりに答えた。
「……報告感謝する。相変わらずすごいな、君のところのリスナーは」
「そう、ですか?」
:えへへ
:褒められたぞ俺ら
:やったぁ
:がんばってよかったね
:どうってことねえよ
頼んだわけじゃないんだけどなぁ……。
頼まれもせず、見返りも求めず、自分から進んで協力してくれる。そんなリスナーという生き物のことは、今日も今日とてよくわからなかった。
「それで、その少女は何者なんだ。探索者ではないという話だったが」
「わかりません。見たこと、ないです」
「こう言ってはなんだが、魔物という線はないか? ルリリスという前例もあるだろう」
たしかに今回のケースはルリリスの時とよく似ている。外見上は人間に見えても、ルリリスは確かに魔物だった。
羽があるこの子も、人間っぽくないと言えばそうなんだけど。
「違うと、思います。この子に、回復魔法、使えたので」
首をふる。魔物説を明確に否定する根拠が、私にはあった。
「回復魔法って、えと。人間にしか、使えませんから」
:あー、そういやそうだっけ?
:魔物には回復魔法使えないって、ルリリスが言ってたような
:魔力から生まれてきた魔物と、生命力から生まれてきた人間とじゃ、根本的に体の作りが違うとかなんとか
:その辺難しくてよくわかんにゃい
我ながらつたない説明だったけれど、リスナーたちが補足してくれた。
「そうか……。探索者ではなく、魔物でもない。となると――」
その時。寝袋に寝そべっていた少女が。もぞもぞと動き出した。
ゆっくりと体を起こすと、美しい銀の髪がさらりと流れる。大きなあくびを一つ。翼と体をうんと伸ばして、まだ眠そうに目を擦る。
それから数度のまばたき。ぼんやりとしているのか、とろんとした目をしていた。
「あ。えと」
「…………!?」
声を掛けると、彼女は一拍遅れてびくんと体を跳ねさせた。
「**!? ****!?」
やはり聞き慣れない言葉を口走って、翼を持つ少女は大きく飛び退った。
警戒心をむき出しにしつつ、少女は周囲に素早く目を走らせる。きょろきょろと周りを見渡すその仕草は、何かを探しているようだ。
えっと……。この状況で、探すものっていうと。
「これ?」
取り上げていた銀の剣を、彼女に差し出す。
迷宮で武器がないのは心細いだろう。私だって、寝て起きたらまず真っ先に武器を探す。
「……***?」
困惑気味に少女はそれを受け取った。
少女は剣をすらりと抜く。銀色に輝く刀身を確かめてから、不思議そうに私に向けた。
「……?」
「……?」
急に剣を向けたりして、この子は一体何をしているんだろう。
切っ先を向けられてはいるけれど、特に殺気は感じない。意図を読み取れず、私は首を傾げる。
奇遇にも、彼女は彼女で首を傾げていた。
:え、あの、お嬢?
:なんで剣返したの……?
:さっきまで戦ってた相手ですよね?
:斬りかかられたらどうしようとか考えないんですか
あ、そっか。そういう可能性もあったのか。
でもまあ、その時は避けたらいいんじゃないかな……?
相変わらず困惑した顔で少女は剣を鞘に収める。それから不思議な言葉で話し始めた。
「*******。*********、*********。*********?」
なに言ってんだろうこの子……。
なにかしら意思伝達を試みているということはわかるけど、なにを言っているかは全然わからない。
耳慣れない言語が流暢に並べられて、そのすべてが私の耳を右から左へと流れていった。
「あ、あの。その、えっと」
「*******?」
「し、真堂さん……!」
どうしたらいいかわからなくて、私は真堂さんに助けを求めた。
「……驚いた。迷宮という空間は、本当に未知の世界なのだな」
「いやあの、驚いてないで。どうしたら、いいか、教えてください……!」
「********。************」
インカムで真堂さんと通信している間も、少女はお構いなしに喋り続けている。
きっといろいろ気になることがあるのだろう。私だって同じだ。
問題は、それを伝える手段がないということで。
「異文化交流の基本は模倣だ。郷に入っては郷に従えと言うだろう。仕草を真似して、相手の文化に敬意を払っていることと、相互理解の意思があることを示してみろ」
「え、あ、はい。わかり、ました」
ま、真似すればいいんだね。わかった。
相手の仕草を観察してみると、不思議そうに小首を傾げて、少女はゆっくりと翼を動かしていた。
大きく広げた翼を前後にゆっくり。飛び上がるほどの力はないけれど、ゆるやかに風が生まれている。
とりあえず、えと。これとか真似してみよっかな……?
:お、お嬢……?
:なんで両手をぱたぱたしてるんですか……?
:そこはほら、真似してるんじゃないかな
:小学生かな?
腕を広げてぱたぱたとやってみる。ちょうど鳥が羽ばたくように。
我ながら間抜けな絵面というか、なんというか。
……やってみて思ったんだけど。これはちょっと、違ったかもしれない。
「……*****?」
少女は不思議そうに私の仕草を観察する。
それから彼女も、両腕を広げてぱたぱたとやりはじめた。
:草
:お前もやるんかい
:小学生が増えたぞ
:なんなんですかねこの儀式
模倣されてしまった。こんな妙ちきりんな仕草を。
いやまあ、意図はなんとなくわかるんだけど……。
「なるほど、向こうにも相互理解の意思があるらしい。思っていたのとは少し違うが、一歩前進だ」
「プラス思考、ですね……」
「探求とは前進を積み重ねていくものだからな」
:いいこと言うね真堂さん
:小学生二人が両手をぱたぱたしてるだけなんだよね
:この絵面にそこまでポジティブなこと言えるのは才能だよ
:異種族とのファーストコンタクトがこんなんでいいんですか
:友好関係の構築には成功してるからいいんじゃない……?
……まあいいや。とにかく、得られるものがあったなら良しとしよう。
私はぱたぱたをやめて、カセットコンロの前に引き返す。そして、予備のマグカップにドリップバッグコーヒーを置いて、お湯を注いだ。
「飲む?」
マグカップを差し出す。温かな湯気を放つそれを、彼女は不思議そうに受け取った。
私は私で自分のコーヒーを飲む。
飲み物であること、毒ではないこと。それを示すと、少女は私にならってコーヒーを一口飲んだ。
「****」
一言呟いて、彼女は顔をしかめる。
相変わらず耳慣れない音の響きだけど、この言葉だけは意味がわかった。
たぶん、苦いって言ったんだ。