今日の七瀬
吾輩は七瀬である。
名前は杏。日本赤療字社所属の、探索者兼迷宮救命士だ。
吾輩の朝はそこそこ早い。
起床は朝六時。ベッドの誘惑からなんとか抜け出し、寝ぼけ眼をこすりながらランニングウェアに袖を通す。
軽く柔軟をしてからランニングに出かける。朝の運動のつもりだが、走っていると近所のご老人にやたらと声をかけられるので、満足に走りきれた試しはない。
七時。シャワーを浴びて、空きっ腹にプロテインを流し込む。一汗かいた体はなおも空腹を訴えるが、ここは我慢だ。
人前に出られる程度に身支度を整えたら、買い物袋を手に早々に家を出る。
七時半。迷宮に行く前に近所のスーパーで買い出しをする。
このあたりは随分と都会だ。うちの地元ではこんな朝からやっているスーパーなんてなかった。
人混みは好きじゃないけど、こういうところは便利でいい。
八時。卵やらハムやらロールパンを詰め込んだ袋を手に、探索者協会を訪れる。
馴染みの職員さんと当たり障りのない挨拶をしつつ、迷宮入場申請に署名をする。この申請は念書を兼ねていて、つまりはお前死ぬ覚悟できてんのかってやつだけど、この辺りは慣れたものだ。
八時十分。協会のロッカーで、探索用の装備を身につける。
服を着替えて、鞘をベルトに差し込み、シリンダーの入ったカバンを装備する。最後に白衣をまとえば完成だ。
片腕で着替えていると大抵誰かが手伝おうとしてくれるが、いつも笑って断っている。これくらい一人でやれなきゃ、探索者なんてやってられない。
八時二十分。転移陣を通って、迷宮二層の日療キャンプに陣取る。
朝一の迷宮は人気もなく静謐な森の空気に満ちている。それを胸いっぱいに吸い込んでから、カセットコンロに火をつけた。
フライパンに薄く油をしいて、卵を二つ割り落とす。目玉焼きにするつもりだったけど、二個目がうまく割れなかったのでスクランブルエッグに変更だ。
別のコンロでお湯を沸かし、オーブンレンジでロールパンをじっくり炙る。レタスは水洗いしてちぎるだけ。簡単だけど、こんなもんでも野菜は野菜だ。
「おはよーございまーす……」
八時三十分。朝食が仕上がってきたところで、眠そうな顔がやってきた。
こいつの名前は山田林檎。ひょんな縁から知り合った、友人であり同僚だ。
「おはよう。飯、できてるよ」
「ありがとうママ……」
「誰がママだ」
眠そうな顔の山田にリンゴジュースのパックを投げ渡す。こいつはこれがないと調子が出ないらしい。わがままなやつだった。
「皿。運んで」
「はーい……」
大抵のことは片手でできるようになったけど、物を運ぶのは左腕一本だとさすがに不便だ。なので、こういう時は大人しく山田を頼ることにしている。
テーブルに皿を並べて、山田の向かいの席に座る。
ロールパンにスクランブルエッグ。それからフリーズドライのコーンポタージュと、生ハムとレタスのサラダ。
以前はもっと適当なものを食べていたんだけど、こいつに飯を食わせるようになってから、ちょっとだけマシなものを作るようになっていた。
「七瀬さんって、お料理、好きってわけじゃないですよね」
「お前な」
もそもそとパンをかじっておきながらこの言い草である。どついたろかと思った。
「だって、気になるじゃないですか。料理好きでもないのに、なんで朝ご飯作ってくれるのかなって」
「お前が飯抜いて迷宮に来るからだろ」
「そうでしたっけ?」
「探索者は体が資本。食わなきゃ倒れるぞ」
この女、山田林檎は頭も生活もちゃらんぽらんだ。この前なんか、飯も食わずに迷宮に訪れて、うっかり魔物に負けかけたのだ。
それ以来こいつへの信用値がごっそり減った私は、こうして飯を食わせているのであった。わざわざ好きでもない料理までして。
「……私、結婚するなら七瀬さんがいいです」
「寝言言ってないでさっさと食え」
「ありがたや……」
山田は神妙な顔でパンをかじる。まだ少し眠そうだった。
八時五十分。朝食を済まして、皿洗いは山田に任せる。水も電気も使い放題なのは、さすがの日療テントといったところか。
その間に配信の準備をして、朝の九時。
#28-EX 平常運転【七瀬杏】
「やるぞ」
:おはよう七瀬
:早いって
:平日朝九時から配信されても困りますよ七瀬さん
:今日も仕事しながら見るかー
それじゃ、今日も一日がんばろう。
*****
「花岸出勤しました。おはようございまーす」
朝十時。耳につけているインカムに、出勤報告が入ってくる。
繋いでいるのは救助者用の共有無線だ。朝のこの時間帯は、出勤してきた救助協力者たちの挨拶で飛び交っている。
「花岸さんおはよー」
「おはようござーす」
「おざーっす」
「ちゃー」
「やー」
有象無象の挨拶の中、私も挨拶を返しておく。なんてことのないコミュニケーションだけど、こういうのは結構気分がいいことを最近知った。
しかしながら、このゆるさは一体何なのだろう。「おざーっす」はまだわかるけれど、「ちゃー」と「やー」は挨拶なのだろうか。
「ななちーいるー?」
誰かが誰かを呼び出している。救助要請がない時は、こんな感じに使われるくらいにはゆるい無線だ。
しかし、いい天気だな今日も。急ぎの仕事もないし、ちょっと近場で散歩でもしてこようか。
「七瀬さん、七瀬さん」
「んー?」
「呼ばれてますよ。無線で」
「……へ?」
ぽけーっとあくびをしてたら、テントにいた山田にせっつかれた。
慌てて無線のマイクをオンにする。
「え、ごめん。呼んだ?」
「呼んだ呼んだ。ななちーに報告があってさ」
「ななちー?」
私を呼んだのは、さっき出勤してきたばかりの花岸さんだ。
花岸さんは明るくて元気な女の子だ。その場にいるだけで、ぱっと空気が明るくなるような、そんな人。
ただ、その。仕事以外で話したことはないし、あだ名で呼び合うほどの仲でもなかったような……?
「ごめーん。この前の救助で、回復薬多めに使っちった。もしかしたら在庫あんまないかも?」
「ああ。それならさっき、補充しといたから大丈夫」
「さっすがななちー、やるねっ!」
「えっと、花岸さん。その、ななちーってなに?」
聞き返すと、つかの間の沈黙が流れる。
ややあって、テンション高めの無線が飛んできた。
「ななちー、愛してるぜっ!」
お、おう……。そうか。
:愛してるらしいぞななちー
:お前がそんな罪な女だとは知らなかったぞななちー
:ななちー、お前には山田という女がいるのに……
:ななちーの本命は白石さんだから
:俺らは?
:俺らは七瀬の財布だよ
:そんな……ひどいよ七瀬……
「だから、ななちーってなんなんだ……?」
リスナーを無視して、一人でぼやく。
なんか唐突にあだ名がついた。あの人陽キャすぎないか。
「良かったですね、ななちーさん」
「おい山田。お前それ定着させる気じゃないだろうな」
「無理ですよもう。諦めてください」
:それはそう
:諦めろ七瀬、あだ名ってのはそういうもんだ
:陽キャのノリに抗う術なんてないんや……
:まだ可愛くていいじゃん、俺のあだ名なんかスギ花粉だったぞ
:それギリギリ悪口じゃない?
:どんまい杉本
「……まあいいか」
少し考えて、諦めた。まあ、なんでもいいかなって。
「それより七瀬さん。三鷹さんの所信表明、見ました?」
「ああ、この前メールで届いてたやつ? 見たけど」
この度、我らが迷宮事業部のドンが変わったらしい。
とは言え、もとよりうちの事業部は三鷹さんが回していたようなものだ。現場の私にとっては、そこまで大きくは変わらないだろう。
「あれ、どう思いました?」
そんな感じだったので、三鷹さんの所信表明も適当に流し見しちゃったのだけど。
山田はあの表明が気になっているようだった。
「どうって……」
うろ覚えの記憶をなんとか引っ張り出す。流し見ながらに思ったことはあったような、なかったような。
「強いて言うなら、いい人すぎ?」
「いい人すぎ、とは?」
「私らのこと、気にしすぎかなって。無理しないでねーって内容だった気がするけど、別に無理した覚えとかあんまないし。そんなに気使わなくても大丈夫だよって思った」
「あー……。そっか、やっぱり。七瀬さんはそっち側ですもんね」
やけに含みのある言い方に、ちょっと引っかかる。
「なんだよ、そっち側って」
「あのですね、七瀬さん。あなたや白石さんのような人を見ていると、普通の人は心配になるんですよ」
「なにそれ。どういうこと?」
「わからなくていいです。いくら口で言ったって、いざそういう状況になってしまったら、意地でも止まらないのがあなた方ですから」
……なんだそれ? どういう意味だ?
「じゃあ山田。お前はどう思ったんだよ、あの所信表明」
「少なくとも一つ、不可能を可能にしなければならない。そう思いました」
むっとして聞き返すと、山田は至極真面目に答えた。
「三鷹さんの気持ち、わかる気がするんです。私は七瀬さんとも白石さんとも違うので。凡人には凡人なりに、見えるものってやつがあるんですよ」
「別に私は、自分が特別だなんて思ってない」
「そうでしょうね。きっと白石さんもそうでしょう。あなたたちにとって、それは普通のことですから」
驚きもせず、彼女は続ける。
「そして私は、三鷹さんとも違う。あの人は極めて優秀ですが一般人で、私は凡愚に尽きても探索者です。……だからいつか、三鷹さんに聞いてみたい」
いつになく真面目な顔で、誰にともなく山田は言う。
「六層魔物という災害に、日療はどうやって対抗する気なのでしょうね」