幕間 怪物と善人
「三鷹くん。あの子は化けたよ」
日本赤療字社本社、役員室にて。
重厚な机の前で、初老の男は淀みなく語る。
「これまでも兆候はあったけれど、今ははっきりと変質したね。これからも彼女を制御したいなら、できるだけ早く手を打ったほうがいい」
日本赤療字社事業局長、重國王義。
重國は淡々と言葉を並べる。一定のトーンで紡がれる言葉には、ほんの少しの感情もにじまない。
率直に言って、三鷹はこの男を苦手としていた。
「僕の言ってること、わかる?」
「……いえ。よくわかりませんが」
「だろうね」
三鷹の返答に落胆した素振りはない。興味がなかったのか。あるいは、予想通りだったのだろうか。
「無理もない。こういうのは、こちら側じゃないと中々気付けないだろう」
「こちら側、と言うのは?」
「人は時として人を外す。あまりにも強烈な意識を抱いた時に、本来ならばできるはずがない選択をできるようになってしまう」
独り言のように彼は言う。
「これでも僕も、怪物なんて呼ばれているからね。こういったものには鼻が利くんだ」
日療の怪物。
時として、この男はそう呼ばれることがある。
「まあ、いいさ。そっちはついでだ。三鷹くん、今日は君に話がある」
「真堂ではなく、私にですか?」
「彼は優秀だが真面目すぎる。こういう話を聞かせるべきじゃない」
厄介事か、あるいは表に出すべきではない話か。
三鷹は表も裏も使い分けられる側の人間だ。つまりこれは、そういった話なのだろう。
「手短に行こう。君たち、独立する気はないか」
「……は? 独立、ですか?」
「日本赤療字社本体から独立し、迷宮事業部を日療外部の組織として再構築する。これについてどう思う」
一瞬、息が止まった。
予想外の提案ではある。ただし、驚いたのは内容ではない。
「まさか、局長からそれを提案されるとは思っていませんでした」
「すでに検討済みか」
「そうですね。効率を突き詰めれば、無視できない選択肢でしょう」
可能性として考えたことはある。しかしそれは、日療に反旗を翻す選択だ。
どれほど穏便に進めたとしても禍根は残る。そんな選択を、よりにもよって事業局長本人から提案されるとは思っていなかった。
「よろしい。では、君の見解を述べよ」
重國は腕を組む。その瞳には何の感情もない。
「ようやくと言うべきですが、我々の活動は軌道に乗り始めました。安定的な資金源を確保し、独立した業務遂行能力も獲得しつつあります。今の我々ならば、日療本体からの支援がなくとも活動を続けることができるでしょう」
「独立した場合、どういったメリットがある」
「最大のメリットは行動の自由です。日療の大看板を背負う以上、我々の活動範囲はどうしても慈善活動に限定されます。仮に探索者事務所という形で組織を再編すれば、収益を念頭に置いた活動にも手が出せます」
「具体的にはどういった活動だ」
「探索者のプロデュース及び、有償での救助依頼です。救助専門の探索者を積極的に育成しつつ、配信者としてもプロデュースします。それと並行して、業務として救助依頼を受注することで、戦力面・資金面ともにさらなる組織拡大が見込めます」
質問に答えつつも、三鷹は薄ら寒いものを感じていた。
メリットはある。それも、特大のメリットだ。
現在迷宮事業部が抱えている目下の課題は、大規模な迷宮災害にも対応可能な戦力の確保だ。
CUREシステムを稼働させたことで本格的な救助活動に乗り出せるようにはなったが、あれは浅く広く助けるための仕組みだ。六層魔物に代表される、深刻な迷宮災害に対応できるようなものではない。
組織として六層魔物に対抗するには、今の迷宮事業部では力不足だ。
そして、仮に独立を成功させれば、組織は迅速に力をつけることができる。
「では、デメリットはなんだ」
「道義を外れます」
だが、当然ながらデメリットもある。そちらも特大だ。
「これは致命的な方針転換です。悪しざまに言えば、我々は人命救助をショービジネスとして扱うことになる。たとえそれが組織拡大のためであったとしても、私たちの在り方は変わってしまうでしょう」
「金とは力だ。道義だなんだと言ったところで、力がなければ何も成し遂げられない。理想など、力を得てから叶えるものだよ」
「わかっています。道徳なき経済は罪悪であり、経済なき道徳は寝言である。ですが……」
三鷹自身も迷っている。
今の迷宮事業部が力不足なのは事実だ。道徳にこだわって、大切な何かを取りこぼすようでは元も子もない。
しかし、本当にそれでいいのだろうか。
「……それでも私は、綺麗事ってやつは、捨てたものじゃないと思うんです」
迷いながらの選択だ。正解かどうかなんて、三鷹にもわからない。
「善と悪の境界が曖昧になって、何かを為すことがこんなにも難しい世の中だから、誰かが正義を掲げなければならない。人助けなんて大義名分を立てたからには、私たちにはそれをやりぬく責務があるはずです」
「正義のことなんて、君にわかるの?」
「わかりませんよ。正義とは答えではなく、考え続けることでしょう」
「お利口さんだね、君は」
こんなお題目は聞き飽きているのだろう。重國は眉一つ動かさない。
「それで、その綺麗事ってやつは、君たちの力になってくれるわけ?」
この男を納得させるには、これではだめだ。
現実的なプラン。説得力のある具体案。それがなければ、重國は矛を収めない。
「はい。今は無理でも、いつかはきっと」
そんなプランはない。少なくとも、今はまだ。
あるのは、あてのない性善説と、不確定な理想論だけだった。
「力なくして理想はない、それはたしかに事実です。ですが、理想に伴う力だってあるはずです。掲げ続けた正義には、きっと誰かが力を貸してくれる」
「それは、ずいぶんと他力本願な力だね」
「そうかもしれませんね。でも、一人で解決するよりいいと思いますよ」
詭弁は彼には通じない。
嘘も隠し事も、この男には簡単に見抜かれる。だったら、本音で殴るしかない。
「局長。私は私で、英雄ってやつが嫌いなんです」
英雄。献身。自己犠牲。
どれも、この組織では忌避される言葉だ。
「だって、世界にはこんなにもたくさん人がいるのに。たった一人で何もかもを救おうなんて、傲慢だって思いません?」
真堂や重國が英雄を嫌うのは、自己犠牲を避けるための戒めだ。その点、三鷹が英雄を嫌う理由は少し違う。
たくさんの人が生きるこの世界を、一人で変えてしまおうなんて間違っている。
属人的で、再現性に欠けた解決策だ。そんなことがやりたくて、日療に籍を置いたつもりはない。
「なるほど、ね」
沈黙の後、重國は口を開く。
「三鷹くん。君は僕と同類だと思っていたけれど、少し違うみたいだ」
「そうですね。私は、あなたほどは割り切れない」
「君は甘い。そして非力だ。それではすぐに行き詰まる」
「……そうかもしれません」
「だけど、今のは良い答えだった」
見落としてしまうほど些細に、重國は表情を緩める。
「君は思ったよりも善人だね。打算もできるが、人を信じて頼ることもできる。その甘さは、きっと大きな武器になるだろう」
「え、ええと……?」
突然の手のひら返しに戸惑う。一切構わず、重國は続けた。
「一つ忠告をやろう。これからも正義を掲げるなら覚えておくといい。手段を選ばなくなった人間は、手段を選ぶ人間をいとも簡単に振り落とすよ」
わかるようでわからない忠告だ。
悪貨は良貨を駆逐するということだろうか。しかし、重國の言葉には、それだけではない含みがあるような気がして。
「気をつけたまえ。今のあの子は、君たちが思っているようなものではないかもしれないぞ」
「……ご忠告、感謝いたします」
「まあ、そのうちわかるよ」
その場しのぎの言葉すら簡単に見透かされる。
しっかりと釘を刺された気分だった。やはりこの男は苦手だ。彼と話していると、自分が子どもであるような気がしてくるから。
「呼びつけて悪かったね。話は以上だ。下がってくれて構わない」
「はい。それでは、失礼いたします」
ひとまず、怪物は納得したらしい。せめて内心の安堵は見透かされないように、三鷹は頭を下げた。
そのまま部屋を辞そうとした時、重國は思い出したように付け加えた。
「あ、そうだ。もう一個あった」
まだ何かあるのか。苦笑を隠しつつ、三鷹は振り向く。
「三鷹くん。真堂くんと君、部長に向いてるのはどっちだと思う?」
「……は?」
迷宮事業部の部長は、今のところ事業局長の重國が兼任で担っている。
と言っても、ほとんど名義貸しのような状態だ。実際の業務は三鷹と真堂をはじめとした少数の職員で回していて、重國の仕事は報告書を読むことくらいだ。
「え、ええと。人望のある真堂の方が、向いているんじゃないでしょうか……?」
「そうかな。僕は君のほうが向いてると思うけど。君、人動かすの得意でしょ?」
「そういう面では、私の方が得意ではありますが」
あまりにも予想外すぎて、思ったことをそのまま言ってしまう。
その答えが意味するところに気づいた時には、後の祭り。
「じゃ、明日からよろしくね」
「よ、よろしく、というのは……?」
「君、部長。本決まりは次の人事まで待ってもらうけど、内々ではそういうことにしてくれて構わないよ」
「え、ちょっと、は? ご冗談でしょう?」
「僕は冗談を言わない」
それはそうだけど。この男が冗談を言っているところなんて、まったく想像がつかないけれど。
お願いだから、今だけは冗談であってほしかった。
「ね、年齢が、見合いません。私はまだ、二十――」
「それに見合うだけの実績はあると思うけどね」
それにしたって無茶苦茶だ。急に部長なんてやらされても、一体何をどうすればいい。
途方に暮れる三鷹に、重國は相変わらずの無表情で畳み掛けた。
「予定よりも大分早いが、いい頃合いだろう。新興の部署は卒業だ。三鷹くん、これからは君たちの組織を作ってみたまえ」
「わ、私が、ですか?」
「いいや、君たちでだ。まあ、困ったら相談においで。話くらいは聞いてあげるから」
突然に降り掛かってきたプレッシャーに、きりきりと胃が痛む。
これ、出世のように見えて、ただ放り出されただけなのでは。
そう察しはついたけれど、口に出したところで無駄であることも、同じく察しがついていた。




