9 これがあんたの欲しかったチケットだ
〝深雪……
身も心も捧げた恋人に裏切られた時、どうすれば立ち直ることができるのか。
自分を裏切った親友達が落ちている良心の呵責という地獄から、どうすれば彼らを救い出すことができるのか。
「三人でいれば良い」という想いが別の形で成就する可能性はないのか〟
〝アリサ……
親友から最愛の恋人を奪って、深く傷つけてしまった自分には、愛する人との生活以外の幸せを得る権利はないと分かっている。
その親友から改めて一緒にいたいと言われた時、どうすれば偽善者としてではなく、親友を救うことができるのか。
恋敵に再び恋人を奪われるかもしれないという焦燥感が、親友に対する尊敬と親愛に昇華する可能性はないのか〟
〝晴臣……
身も心も捧げられた恋人を裏切った男が、どうすれば元恋人を救うことができるのか。
婚約までしていた彼女、そして未だに妻と同じくらい愛している彼女から改めて共にいたいと言われた時、自分の愛を貫くために必要な決意とは何か。
「三人でいれば良い」……。別れを告げた時、彼女はそう言った。混乱していると、自暴自棄だと思っていたその言葉を、成就させてあげる可能性はないのか〟
〝あゆみさん……
初めての親友に恋人ができた時、あなたは何を思って、泣いていたの?
〝姉さん……
初めての親友に、初めての恋人をNTRされたあなたは、どんな想いを抱いて泣いていたの?
姉さんとあゆみさんが、深雪エンドのアリサと深雪の喧嘩のように、本音をぶつけ合ってたら、二人はどうなっていたのだろう〟
* * * * *
コミケとは、正式名称をコミックマーケット(Comic Market)と言う、世界最大の同人誌即売会である。二〇一六年八月現在、開催回数は九十回となった。
近年はお盆の頃と年末、東京ビッグサイト(東京国際展示場)を三日間借り切って開催され、サークル参加者数は約三万四千スペース、一般参加者数は五十万人以上と予測される大規模イベントである。
ということで今日は八月十四日、コミケ三日目。東京ビッグサイトに歌奏美見参!
いやー、初めて夜行バスに乗ったけど、割と快適だった。
ただ参戦を決めたのが遅かったせいか、バスの席が狭くてねー。尾骶骨が多少痛む。
えっ、席が狭く感じたのはお前の尻がデカイからだ? うるさいわっ。
……などと一人ツッコミとお尻ナデナデをしつつ、キャリーバッグをゴロゴロと響かせて、りんかい線国際展示場駅を降りて集合ポイントへ向かう。
白いノースリーブの膝丈キャミソールの上に、少し透けた袖は七部丈、裾は膝下までのゆったりしたレースのワンピースを重ねて、今日の装いの見た目は涼しい。
しかし曇りがちかつ早朝とはいえ、気温はどんどん上がり、コンクリートの建造物と舗装に囲まれた待機列やサークル入口周辺は既に茹だるような暑さなの。そんな環境の中で静かに並ぶ人達の表情は過酷な戦いに挑まんとする戦士のそれである。
初っ端から売り子としてスイスイ入ってしまって申し訳ない気持ちになる。
「はい、これがチケットね」
午前八時、AKさんとはやぐら橋を超えたエントランスプラザで待ち合わせた。
彼は胸にNEW YORKと書いた黒いTシャツとジーンズというシンプルな装い。
……結構マッチョだなー。
「おおお、これがサクチケ……」
「そう。これがあんたの欲しかったチケットだ」
「サクチケ」つまりサークルチケット(出展サークル専用通行証)は、一つのサークルに三枚配布されるらしい。偽造防止を防ぐためか印刷が細かくて銀の箔押しがラメってる。転売する人がいると聞いてヤフオクで調べてみたら一枚二万円から四万円で転売されていて、びっくりした。
「これって、転売して良いものなの?」
「良い訳ないだろ。準備会にバレたら今後は参加禁止になるぞ」
「そりゃそうよね。でも、分かんないでしょ?」
「よく見てたら分かる。コピー用紙一枚に何が言いたいのか分からんことをテキトーに書いて出展した胡散臭いサークルとか、理由もなく欠席してるサークルとかが怪しい。準備会は結構シビアに見てる。でもイタチごっこになってるのが現実だ」
「ところでそこまでしてサクチケを買う人は何のために買うわけ?」
「企業ブースのグッズとか、有名サークルの出展品を確実に手に入れるために、サクチケで早めに入って並ぶためだろうな」
「ふぇぇ、熱心なファンなんだね」
「中にはそういう奴もいるかもしれないけど、殆どはそうじゃないと思う。グッズや出展品を大量に漁って、転売する転売ヤーが多い。だから、さっき言った怪しいサークル含めて、転売ヤーは相当入り込んでる」
「なんか昔コンサートとか野球場にいたヤクザ屋さんみたい?」
「ダフ屋な。それとあんまり変わらん。というか、そいつらより始末が悪い。
チケットを高額転売する奴も、グッズや作品を高額転売する奴も、コミケの『同人誌を中心としてすべての表現者を受け入れ、継続することを目的とした表現の可能性を広げるための「場」である』という精神に反している唾棄すべきゴミであり、俺達表現者の敵だ」
おおお……。きっぱりと言い切ったわね。ちょっと凛々しいかもしれない。
などと話しながら、わたし達は東館への通路を歩く。結構距離あるんだね。
ブリッジを超えたらそこは大きな会場が左右に六つ並ぶ……東地区のガレリアだ。
「俺達は東の5だぞ」
エスカレーター降りて左に曲がり、東地区内に入る。
「ふぇぇ、大きいねー」
九十メートルカケル九十メートルのホール、東地区4から6の三つをぶち抜いた会場に整然と並ぶ机の列は本当に壮観……。
「まあ、この広さの会場にすし詰めの出展者と参加者が来るんだからな。凄いよ」
「ふぇぇ……」
「その、さっきから連発してる『ふぇぇ』何?」
「いや最近アマゾンのプライムビデオで『涼宮ハルヒの憂鬱』見てたらみくるちゃんのが感染しちゃった」
「歌奏美さん、やっぱり結構毒されやすいよ、あんた」
「ふぇっ? そうかしら」
あれ、AKさんになら言われても気にならない。やっぱり〝志を同じくするイカれた仲間〟だからかなー。
「気を付けないとリアルで界隈のボキャブラリーが出ちゃうぞ。
さて、とっとと設営しようか」
どうもわたし達は一番乗りみたいだ。
「新作は……、ちゃんと来てるな」
AKさんのスペースの下にはダンボール箱が一つ置かれている。開封すると中には包装紙で丁寧に包まれた彼の新作が入っていた。
「今回はどんな作品なの?」
「簡単に言うと第二章の千姫ルートアフターだな。そろそろ結婚を視野に入れた二人の元にアリサが帰ってきて引っ掻き回すスラップスティックだ」
「へぇ、アリサが引っ掻き回すのかー」
「あの自称不良の純情っ娘が話引っ掻き回す程ウイットがあるかよ。千姫が争って足掻いて引っ掻き回してどうにもにならない混沌に陥って勝手に晴臣との別れを決意するっていう自暴自爆でバカな話を書いてみた」
泉橋千姫……、第二章三人娘の一人で天才的女優兼天才的脚本家。学園祭でのアリサ、深雪、晴臣三人のライブに魅せられて、三人の友情と恋愛模様を妄想して、芝居の脚本のネタにしようとして、大学で晴臣に近づいた芝居バカ。近づいて友情と疑似恋愛の間で晴臣を引っ掻き回してたら、自分は絶対に舞台の下では恋に本気にならないと豪語してたくせに晴臣に魅せられてしまったミイラ取り。
あのルートも凄く良いんだよね。千姫は深雪にも違う人物として近づき、人となりと感情を真似て盗もうとする。でも深雪は真実を分かっていて接近を許し、自分では深雪を救えないと思い込んでいる晴臣を最後千姫に託すんだけど……、全部演技してるのよね。本心を隠して。晴臣との別れの作業を済ました後で「上手く演じられたかな……」って呟く深雪には泣かされた。突っ張って演技で対抗して晴臣を奪われるなんて……、本当に深雪という女はややこしい。
「難しい事に挑戦したわねー」
「まあ、誰も書いてないネタだからな。やり甲斐はあった。じゃあ、はい一冊」
「えっと、一冊千円だっけ」
「これは売り子さんへの謹呈」
「ふぇぇ、ありがとうー」
「帰ってから読んでくれよな。目の前で読まれると恥ずかしい」
新作をパラパラとめくって出来を確認したら、スペースを整える。長机の半分の箇所を確認して、その境目まで水色の布を敷く。
「布を敷いた方が丁寧な感じするし、作品が木目と擦れないし、足元は隠せるしで、絶対に良いんだよ」
折り目も整えたら、ダンボールから新作を出して真ん中へ、キャリーケースから旧作を取り出して横に置く。A4カラーのお品書きはスタンドにつけて立てる。
「まあ、こんなもんかな。釣り銭はここね」
あーこれ、「ヨックモック」っていう有名なお菓子屋さんの空き箱だ。
「一応、千円札十枚、五百円十枚入ってるけど、両替は絶対断ってくれ。それと旧作の薄い方は一冊五百円なので、間違えないこと」
「合点承知の助」
「古いわっ」
交互に表側に出てスペースの写真を撮り、Twitterに呟く。
「周囲の人の顔を写さないように気を付けて。みんな身バレするの怖いからね」
そうこうしてるうちに左側にうしがらさん、右側にモラベーさんとめんかたさんがやってきた。隣同士のサークルとは、新作を交換するのが礼儀らしい。わたしも両方から新作をいただいてしまった。
モラベーさんのサークルの新作も、AKさんの新作も、表紙が本当に可愛い。
両方、レーテさんっていうイラストレーターさんだなー。本当に華やかで爽やかで、それでいて仄かな色香の漂う良い絵を描くなー。ちゃんと女の子なの。デフォルメの行き過ぎてない、しっかりと存在感のある女の子なのよね。
「モラベーさんとAKさんの新作のイラストの絵師さん、凄く素敵ですね」
「良いだろ。レーテさんは十八禁男性向けオリジナル漫画を描いてる変態なんだけど、エロく無いイラストも華やかで可愛くて素敵なんだ」
「じゅ、十八禁男性向け? ふぇぇ」
こんな可愛いイラストで十八禁なのかー。どんな男性なのかな。
うしがらさんの新作のイラストも素敵だった。淡い色使いがわたしの趣味に合う。
「素敵でしょ。謙虚な方なので、口説き落とすの大変だったんです」
テキストの方は、ニューヨーク滞在中の、ある日のアリサと晴臣のイチャイチャ話(全年齢対象)らしい。ちなみにニューヨークには昔、新婚旅行で行ったそうだ。
……だいぶ前だろうけど、設定大丈夫なのかなー。
「リサねこさんは、進捗如何ですか?」
おおっ、これは締切間際の同人作家が言われると死ぬ呪詛ではないかっ。
まだだ、まだ終わらんよ!って「実はまだ、全然手を着けていません」
「再開はまだですか……。楽しみにお待ちしています」
「すみません」
「いえいえ、ご無理なさらず」
などと周囲のスノメロ島の方々と交流していたら十時を迎えた。
ピンポンパンポン、チャイムがなると、出展者全員が拍手する。
おおおおおー、これは興奮するわね。
「お待たせしました。ただいまから、コミックマーケット、九十、三日目を、開催します!」
おー、これが噂に聞いた「良い声の開会アナウンス」かー。滾るなー。
あっ、壁際のサークルさんにみんな突進してるなー。
「おー、走ったらダメだぞー」
「そうなの?」
「誰か転けたら大惨事だろ。特にオタクは日頃身体動かしてないからなー」
「成る程ねー」
「さて、我々スノメロ島のサークルが一番注意しなければならない時間帯は何時か知ってるか?」
「知らない」
「開始直後だ」
「なんで?」
「先生が来るからだ」
「えっ……?」
「先生は自分の関わった作品の二次創作を必ず買いに来られる。っと、来たぞ」
先生……、『Snow Melody』の脚本家、角打一枡先生。
うわー、めっちゃ渋くてかっこいいおじさまだー。
背が高くて、肩幅が広く、姿勢が良い。きっちりアイロンを当てた襟付きの白いシャツに濃紺の細身のチノパンと濃茶の皮のデッキシューズ。髪を後ろに撫で付けて目には黒縁メガネ。神経質そうな薄い唇。
ちょっと好みかもしれない。
なんか仕事がバリバリできそうな銀行マンのオフみたいな格好で、隙のない佇まいだ。このちょっと神経質そうな人が、あんなに人の感情を揺さぶって、抉ってそして温める文章を書くのか……。
その人が、スノメロ島を端から訪れて、新刊を買っていく。そして二言三言交わしていく。
お隣のうしがらさんもなんか緊張してる。
「めっちゃ緊張するんだけど」
「何回か会えば慣れる」
そして遂に来た。
「新刊ありますか?」
「はい、あります。こちら、一冊千円です」
慣れるって……、AKさん、あなたもめっちゃ緊張してるじゃない。
「今回は、『Snow Melody』の千姫エンドアフターのドタバタを書いてみました」
「AKさんって、君か……」
「はい?」
「冬コミの時の、座談会本……、お隣が出してた」
「はい」
「あれ君のコメント、辛辣だったよな。途中でぶん投げようかと思った」
「あは、あはははは」
おいおい、AKさん、何その苦笑……。
「今後ともお手柔らかに」
「あの、先生、初めまして、わたし、リサねこと申します」
「初めまして」
「お会いできて嬉しいです!」
「あなたも、何か書いてるの?」
「まだお見せできるものはありませんが、いずれ必ず」
「頑張って」
そういうと先生は、そのモラベーさんのスペースに横歩きする。
はー、なかなか凄みのあるお方だった。
「ねえ、そんな辛辣な発言載せてたんだ?」
「いやー、新作の推理展開にちょっと強引なところがあるというか、そりゃちょっと無理筋でしょう、みたいな?」
「読んでるんだ?」
「読んでるみたいだよ」
わたしとAKさんは座り込んでひそひそ話をした。
「いやー、あれはなんか目がマジだったなー」
角打先生が去った後、モラベーさん、めんかたさんがAKさんに話しかけた。
「こっちは意識させてなんぼの世界。ふっ。勝ったな」
「勝ったな。ガハハハ」
「ガハハハ」
などと男三人寄り合って楽しんでいる。こういうところはやっぱりなんか正統派のオタクっぽい感じがするわ。
そうこうしてるうちに一時間くらい過ぎて、徐々にスペースを訪れて新刊を買ってくれる人が来た。参加者の多くは壁際の大手サークルやその他有名サークルでお目当てのものを買ってから、島中を訪れるらしい。
だから島中は正午前後からが忙しくなる。
AKさんは関東にも知り合いが多くいて時々参加者と談笑している。
ところで何故わたしがスペースを訪れる人を「参加者」と呼んでいるのかというと、コミケには「お客さん」はいないからだ。出展する人も、買いに来る人も、みんな参加者で、会場を設営してくれた人、後片付けをしてくれる人、会場誘導をしてくれる人、その他スタッフ全員含めて、ここにいる全ての人が参加者で主人公だからだ。
しかしみんな企業ブースのデカイ紙袋を肩にかけつつ、戦利品(購入した作品)をエコバッグ等に詰め込んで大変だなー。サークルで出た方が買い物の拠点が確保できて便利とかいう本末転倒な輩が出てくるのも分かる。共感はできないけれど。
女性の参加者も数人買っていく。女性ファンもいるというのは本当だったんだ。
あの物語に抉られた女は、わたしだけじゃなかったんだね。
「ということで、俺、ちょっと買い物に行ってきたいんだけど、留守番頼めるか?」
「OK牧場」
「古いわっ」
「まあ三日目は男性向けの日だし? 頑張って? ねっとりと? 選んできてね♡」
「?マークと♡マークうざい」
「ゆっくりで良いよー」と言って若干赤面のAKさんを送り出す。
ということでお留守番を任された訳だが、両隣にはお留守番のめんかたさん、うしがらさんもいるので全く不安はない。
あ、テタンジェさんだ……。今日はハーフパンツか。でも上品に見えるよな。
この人も大概ガタイが良いなー。モテるだろうなー、これは。
「お留守番ですか?」
「はい。あの……、先日はお見苦しい所をお見せして、申し訳ありませんでした」
「何のことでしたか?」と言って彼は爽やかに笑う。「新刊五冊下さい」
「一冊せ……、五冊ですか?」
「パリ二人、ニューヨーク、北京、大阪の友達に頼まれてるので」
グローバルかよ。「流石ですねー。うふふ。五千円です」
テタンジェさんに言わせると海の西側では中国語版『Snow Melody』が流通しているらしい。そしてファンがめっちゃ多いそうだ。……海賊版みたいだけど。
などと話してると、明るい茶髪ツインテールのドールみたいな可愛い女の人がスペースを訪れた。小柄でスリムで、クリムゾンレッドのゴシックロリータのワンピースとフリルのついたニーソがくっそ似合ってる。厚底ゴシックブーツも良い感じ。
ふぇぇ、超絶可愛いなー。わたしには絶対に着れない服だぁー。
「えっと、AKはいないみたいね」
「レーテさん、AKさんは男性向け島に行きましたよ」とめんかたさんが言った。
えっ、……この人がレーテさん? えっ? えっ? ええっ!
レーテさんって、女性だったの……。こんな綺麗な……。
「出来上がり一冊もらいにきたんだけど、行き違いだな。電話してみるか」
そう言って彼女はスマホを取り出す。スマホケースはゴスってないようだ。
「ちょっと、あたしの方から行くってDMしたでしょ。
は? ああそう。まあ、仕方ないか。あたしの新作はもらってくれた?
んー。じゃあ良いそれで。
ところで、あんたん所のスペースにいるものごっつい美人は誰?
ああ……、そうなんだ? ふーん」
そういうとレーテさんは通話を切り、わたしを見上げてにやーっと笑った。
いやあの、そんな可愛い顔でにやられると怖いんですけど。
「リサねこ姉さん、初めまして。レーテです」
おい、AKさんに出してた低音と違って、珠を転がすような猫撫で声じゃねーか。
「初めまして、リサねこです」
「ふむふむ。なーるほど。なかなかけしからんワガママボディの美人さんですなー」
「け、けしからん?」
「けしくりからんですなー」と言って彼女はまたも、にやーっと笑う。
「いや、単に太ってるだけですから」
「いやいやそんなことはない。確かにAKの言う通りのリアル冬夜アリサ。デルモみたいに出るとこ出て引っ込むべきとこ引っ込んだ美人さんの極みかよっですなー」
「いやいやいや、AKさんにそんな風に言われたことないんで」
「いやいやいやいや、これは良いもの見せてもらいましたぞ」
「いやいやいやいやいや、レーテさんこそゴシックロリータが超絶お似合いで天使のように可愛いです」怖いけど。
「いやいやいやいやいやいや……」「いやいやいやいやいやいやいや……」
などと、やいやい言い合っていると周囲がドン引きしてた。
「しかしこんな美人さんを放ったらかして〝男性向けの薄い本〟を買いに行くとは、AKも情けない奴よのう」
「はあ、僕もそう思います」と言ってめんかたさんがヤレヤレしている。
何が情けないのだろう? 不明だが突っ込まないでおいた。
「まあ、リアル充実でさえも需要のある作品であることが、十八禁の醍醐味だけどね。ところでリサねこ姉さんも終わってから関東勢の大納涼会に参加するのでしょう?」
「はい」
「ではまた、あとで」
そう言ってレーテさんは他のスペースに寄って新刊買ってから帰っていった。
「ふぇぇ、綺麗で可愛いのに底の知れない恐ろしい人だなぁ」
「まあ……、変態ですから」
AKさんとの電話での馴れた感じの喋り方……、二人は付き合ってるのかな?
などという感慨を持つ間も無く、段々忙しくなってきた。
わたしをリサねこと知って話しかけてくれる人達とのお喋りもそこそこに、新作を売っていく。百冊売るの大変だとか言ってたくせに、結構な勢い。
あと二十五冊だよ、という所でやっとAKさんが帰ってきた。
……結構な量、買ったみたいだな。
「なんだよそのジト目は。あっ、凄い勢いで売れてるな」
「売り子さんのおかげですよ」と、めんかたさんが言った。
「リサねこ姉さん、リアルでもめっちゃ仕事できるでしょ」
「そんなことないです。人付き合い苦手なんで」
これは本当。職場でも孤独だし。義務感で仕事を次から次へこなしてるだけ。
「リサねこさんも買い物に行ってこいよ。だいぶ空いてきたし、ぶらぶら見てるだけでも楽しいから」
「じゃあ、そうさせてもらおうかな」
「三日目の配置図、これ貸してやる。スリがいるから、財布の管理は厳重に。それと、水飲んでいけ。それから人混みが多い場所には突貫するなよ。触られるぞ」
「アイアイサー」
「だから古いって……。そんなの何処で勉強したの?」
「この前ブック○フで文庫本漁ってたら『【難解】死語辞典』っていうの売ってて」
「買ったのかよ。というか、そういうの好きなの?」
「割と好き」
「じゃあ、評論・情報のスペースに行くと楽しいと思うぞ」
ということで放牧された。
午後一時、壁サーでは既に新作を売り終えて撤収の準備を始めてるところが多い。
お誕生日席の人気サークルや、その他にも「新刊完売しました」の表示が目立つ。
そうかと思えばチラシと椅子が手付かずに乗っている机もちらほらある。リサねこのフォロワーさんの中には落選して泣いてた人がいたから複雑な心境になる。
男性向けの島々はハードルが高いのでスルーして、評論・情報の島へ向かう。
何これ……、めっちゃ楽しいやん! というか、何でもありなのっ⁉︎
明治のチョコ特集、愛宕神社登山記、お酒ともなか研究、高専ロボコン、サイゼリヤ研究、グラフィックデザイン、味の素その他調味料研究、IPS細胞による同性間のこども作り考察、東大性欲研究会、回転すし店ツナマヨ軍艦巻き食べ比べ、メイド喫茶レビュー、名古屋城本丸御殿、秋葉原住宅事情、ブラジャー調査本、ラノベのマーケティング分析……。もう楽しすぎて全部買いたくなって死ぬかと思った。
とりま(とりあえず)東大性欲とメイド喫茶レビューとブラ本だけ買った。
帰りに配置図にチェックしてあったレーテさんの所に寄ったけど完売したらしく撤収済みだった。……わわわ、もう三時前になってる!
「ごめんなさい! 遅くなりました!」スペースに戻ったら三時過ぎてた。
「時間、幾らあっても足らないだろ?」
「足らないわ!」
そう叫ぶと、周囲のみんながにっこりと笑った。
「ありがとうAKさん、わたしをコミケに連れてきてくれて」
そう言うと、周囲のみんながニマニマと笑った。
「う、うん。良かったな。さあ、うちも幸いなことに新刊・既刊共に完売したから、撤収しようか」
敷き布を簡単にはたいて畳む。椅子を折り畳んで机の上に重ねる。
周りはみんな、関東勢の大納涼会に行くみたい。「また後で」と声をかけてモラベーさん、めんかたさん達と一緒に帰る。
段ボールを外の回収場所でスタッフさんに渡して「ありがとうございました」と礼を言う。外でずっと作業してくれてる方々には、本当に頭が下がる。
午後三時半、外はまだまだ暑い。来た時より少しだけ重くなったキャリーバッグを転がす。AKさんのキャリーバッグは売れた分と相殺しても帰りの方が重そうだな。
お宝を抱えた参加者、早めに撤収してる出展者のキャリーバッグやキャリーカートのゴロゴロ音が沢山響いてめっちゃ騒々しい。
「今年の夏コミは過ごしやすかったですねー」とモラベーさんが言った。
「えっ、これで?」
「ずっと曇ってたからな」
「うん、天国でしたよ。酷い時は救急車のサイレンがよく聞こえますからねえ」
「そーなのかー」
「まあ、身内に事故がなくて良かったですね」
そんなことや、今日の戦利品のことを話しながら、わたし達はりんかい線快速で新宿まで向かった。今日は京都勢で新宿に宿泊なのだ。
* * * * *
「デンツクデンツクデンツクデンツク、あっきはっばらー」
「喧しいわっ、って、観たのかよ『俺妹』?」
「当然でしょ? だって夏コミ回あったじゃない? 予習も兼ねて?(ドヤッ)」
「歌奏美さんって、確かに毒されやすいですよね」
関東勢主催の『Snow Melody』大納涼会の会場はあっきはっばらー、つまり秋葉、秋葉原である。いやー、一度ここで言ってみたかったんだよね。
まあ、わたしは五更瑠璃ちゃん、黒猫派だけど? それがなにか?
「やるんなら電気街口の方でやれよな。こっちは昭和通口だから、逆だぞ」
「ふぇぇぇぇぇ」
他の京都勢三人の冷ややかな視線攻撃を浴びながら、お店に移動する。燻製、肉、チーズとワインを安く美味しく楽しめる店だそうだ。二階にあるからキャリーは宿に置いてきた。貸切で参加者数七十人って凄い。それだけファンがいるんだなー。
年齢層は二十代、わたしより少し若い世代が多いかな。幹事のみきさんは大学を卒業したばかりらしい。弟と……、詩音と同じ歳なのか……。それでこれだけの人数の人が参加できるオフ会を企画できるって本当に凄い。名札もあるの。
あいつも、生きて他のファンの人達とちゃんと交流することができたら、もっと楽しい人生を送れたのだろうか。
女性も十人以上いる。お姉さま風の美人さん、ゆるふわ系の天使さまみたいな可愛い人、ボーイッシュでかっこいい系の娘……。うん、ゴスってる茶髪ツインテールの怖可愛いお姉様まで、兎に角みんな可愛い良い女なんだよね。
桑原さん、まだまだ『Snow Melody』はオワコンにならないよ。
「何涙目になってんの」
何故かわたしの横を確保しているAKさんに見られてしまった。
「うん、詩音を参加させてやりたかったなーって」
「そうだな。俺も秋葉原で、彼と飲みたかった」
「ありがとう」
「こちらこそ売り子さんありがとうございました。さあ、飲もうぜ」
「皆さん、グラスは揃いましたか? それでは『Snow Melody』ファンによる大納涼会を始めます。乾杯!」
「かんぱーい」
ああ……、本当に楽しいなー。
…………。
そんなふうに考えていた時期がわたしにもありました。
今、ちょっと修羅場っています。
いや序盤は良かったんだよ。可愛い子ちゃん達に突貫して女の子から見た『Snow Melody』の恋愛観とか色々お話をお伺いしてふむふむしたり、関東勢の若い相互フォロワーの男の子達にも一通りご挨拶して「リサねこさん本当にリアルアリサですねー」とか言われてテレテレしたりしてさ。
ついついお酒が進んじゃったの。
でもテタンジェさんに話しかけられてグローバルなオタク文化の情報に触れて、いやー本当に良い男ですねーカッコ良いですねーと賞賛してたらAKさんに「オフ会でナンパすんな」と言われてちょっとムカッとしたんだよ。
「ナンパしてない。というか、それってワケあり女に対する偏見?」
「そうじゃない。危なっかしい振る舞いは避けろと言っている」
「AKはリサねこちゃんが心配で仕方ないのよねー」
ワイングラス三つと赤ワインのボトル一つ持ったレーテさんがやってきた。わたしとAKさんとテタンジェさんとレーテさんでテーブル一つ独占する。
「心配されなくてもわたしの方がAKさんより一つお姉さんですから」
「年上だって言うならもう少し自分を省みろよ。関西勢で初参加のあんたみたいな目立つ女が愛想振り撒き過ぎるのも考えものだぞ。それにちょっとペース上げすぎ」
「目立ってないよ。良いじゃない楽しいんだから。レーテさんそのワインください」
「目立ってるよ。それに、幾ら酒が強いって言っても飲みすぎだって。最初の生ビールをハイボールに代えてから六杯は飲んでるだろ」
「えっ、そんなに飲んでたんですか」
「よく見てたねー。じゃあ、このワインは注げませんなー」
「水飲ませますわ。うちの売り子が関東で粗相したら困るんで」
「大丈夫大丈夫」
「酔っ払いが言う大丈夫程当てにならないもんはないんだよ。水飲めよ」
「やだ。ワイン飲む。というか、AKさんはレーテさんと仲良くしてたら良いじゃない。わたしはテタンジェさんと仲良くするから」
「えっとリサねこさん、その……押し付けられても困ります。妻に怒られるので」
「えっ、テタンジェさん、奥さんいたんだ。……まあ、いても気にしないけど」
「いや僕が困ります。結婚するまでは色々ありましたが、僕は一生妻だけを愛すると固く決めていますので。それに、あなたを心配してる人がいるんですから」
「誰もわたしのことなんか心配しないですよ。本名の通りカスみたいな女ですから」
「自虐だねー。でもその自暴自棄で下方修正気味の考え方、直した方が良いなー」
「何故ですか」
「ちゃらい男が寄ってきちゃうじゃない。リサねこちゃんみたいな美人さんが自信なさげな態度でふらふらしてたら」
「…………」
誘蛾灯のような女だと、大学時代に言われたことがある。ただし、結局落ちて死んでたのはわたしの方だけど。
「リサねこさん、あんた、そんな風でちゃんと原稿の空白、全部埋められるのか?」
「書くわよ。だって、書かないといけないし」
「義務感じゃ書けないよー。それに、義務感で書かれたもんなんか面白くないし」
「レーテさんはなんで描いてるんですか」
「自分の妄想が面白いからに決まってるじゃん。ていうか、あれだけの量の妄想をビッグバンさせてるリサねこちゃんがそれを訊くかな」
「……正直言うと、行き詰まってます」
というか、本当に全然手をつけていない。気持ちは焦っているけど、先に進めない。
書こうとすると、後ろめたい気持ちが立ち込めて、進めなくなるのだ。
何故って、結果的に詩音が残したテキストの空白部分は、わたしが今までの人生で蔑ろにしてきた問題そのものだから。
それはあまりにも個人的すぎて、誰に相談できるものでもない。
でも、わたしには今、その問題に立ち向かう勇気がないんだ。
打つかって余計に傷つくかもしれない。大切なものを失うかもしれない。
……だから今日は逃げてしまった。『Snow Melody』の話をしていても、踏み込んだ話はしなかった。参加者が多いから、知らない人ばっかりだから……、そんな言い訳ばっかり用意して、明るいリサねこ姉さんの仮面を被ろうとして空回った。
その結果が、このザマだ。
「……水、飲めよ」
「うん」
「リサねこちゃんが何に行き詰まってるかは分かんないけどさー、同人作家はさー、書くまで悶々と悩むより、書き終わってから悩んだ方が楽だよー。
だから血反吐出るまでまず書きなよ。
返り討ちにあうかもしれないけど、課題に切り込みなよ。
そうやって殺した課題の返り血と、あんたが流した血がぐっちゃぐっちゃに混ざった坩堝の中にあんたの欲しいものがあるかもしれないよー」
「レーテさんまた無茶なことを」
「それと共犯者を見つけなよー。リサねこちゃんはそっちの方が大事かもねー」
…………。
* * * * *
「起きてくれ。新宿に着いた。降りるぞ」
あれ……、大納涼会はいつ終わったのかしらん。
「この酔っ払いのお姉さんは困った人だな……」
そう言ってAKさんはわたしの手を取った。大晦日の新宿駅は人が多くて、わたしは上手く歩けない。そのままAKさんの手を握って、着いて行く。
彼はわたしを近くに寄せてわたしの盾になりつつ、構内をゆっくり進んでいく。
AKさんが予約してくれた宿は中央口から代々木方面に行った民宿で、便利な場所なのに破格の値段だった。その代わり畳敷きの和風の部屋でエレベーターがない。
「背負って」
「無茶言うな。その方が危ないわ。二階だから頑張れ」
「ねえ、モラベーさんとめんかたさんは?」
「二次会に行ったよ。カラオケだそうだ」
「……悪かったわね。酔っ払いの相手をさせて」
「うちの大事な売り子さんだからな」
ゆっくりと階段を上がり、部屋に着く。フロントで渡された鍵が上手く入らない。
「開けて」
「手間かかるなーあんた」
鍵を開けてもらい、中に入る。彼の手を掴んだまま布団の上に倒れこんだ。
「あーれー」
「…………」
「……手、出さないの?」
「試すようなことすんな。手出す訳ないだろ。俺の好みは茶髪ツインテールだぞ」
「レーテさんみたいな?」
「そうかな……。でも、全く相手にされてないからな」
「……ふーん。あんたって、鈍感だよね」
「何処がだよ」
「知ーらないよー」
はぁー、って大きなため息をついて、AKさんが布団の横に胡座をかいた。
「なあ歌奏美さん、もうちょっと自分を大事に扱えよ。見てて冷や冷やするわ」
「そう? そんなこと言ってくれた男はあんたが初めてだよ」
「碌なもんじゃねーな」
「だって、どうせわたしは名前通りのカスみたいな女だから」
「だから、そういうこと何度も言うなよ。あんたを愛していたり、好意を持ってくれてる人達にも失礼だろうが」
「そんな人はいないと思っていた。でも、詩音はわたしを愛してくれていたんだよ」
「リサねこさんが?」
「あの長いSSの空白部分には、所々、わたしへ宛てたんじゃないかな、と思える文章が挟まれてたの。わたしが家族に対して感じていたことや、恋愛について感じていたことを、推測した文章が。詩音がどういうつもりで書いたのかは分かんないけど、あいつはわたしを、アリサや深雪と重ねて見ていたのかもしれない」
「じゃああんた、自分に向けられていたリサねこさんの気持ちに向き合えよ。そして、もっと自分に向き合えよ。そうすれば、そんなに自分を粗雑に扱っちゃダメだってことが分かるだろーが」
「じゃあ、責任持ってわたしに付き合って」
「えっ、あの、そんなこと突然言われても……」
「わたしと付き合ってなんて言ってない。わたしに付き合って」
「へっ」
「わたしの過去の清算に付き合ってよ」
次回10話は、2024年12月21日19時に更新予定です。