11 愛とは何か、あなたは知らない
東大路三条にある古い写真館を改造したジャズ・バー。カウンター奥にはわたしの背よりも高い棚が並んでいる。棚は約三十八センチ四方、五段九列の四十五升に区切られていて、全ての升にアナログ・レコードが隙間なく詰められていた。一升に九十枚は入るそうだから、ざっと計算しただけでも四千枚はあることになる。
一度マスターに〝売ったら幾ら位になるんですかねー〟と尋ねたことがある。
〝日本盤ばかりだから、あまり資産価値はないんですよ。やっぱりジャズのレコードはUSオリジナルじゃないとね〟
〝何が違うんですか?〟
〝音の鮮度が違います。昔は日本でプレスするためにアメリカからテープを輸入してたんです。オリジナルマスターテープなんて送ってくれないから、マスターからコピーのコピーの孫テープ、ひょっとしたらもっと何世代も後のコピーテープなんかが送られてくるんですよ。そうするとやっぱりUSオリジナル盤に比べて音質が劣化してるんですよね〟
〝まあ、確かにカセットテープって音あんまり良くないですもんね。お父さんの遺したラジカセで昔の音楽のテープ聴いてたら、音がもこもこしてたしなあ〟
〝ちょっと待って。企業がレコードをプレスするのにテープ幅三・八一ミリ、片側片チャンネルで〇・六二ミリ、秒速四・七六センチのカセットテープ送ってくるわけないでしょ〟
〝そうなの?〟
〝テープ幅四分の一インチ、約六・三五ミリ、秒速三十八センチの業務用オープンリールでしょうなあ〟
〝テープ幅が太くて秒速が早い方が、音が良いんだよ〟
〝へえー〟
〝明らかに興味なさそうだね〟
〝いえいえ。ふーん。じゃあ、できるだけ輸入盤を買えば良いってこと?〟
〝一概にそうとも言えないところもありましてもね。初版の盤、いわゆるオリジナル盤ですね、これを今買おうとすると物凄く高いんです。数万円とかね。
じゃあ、それ以降にプレスされた盤の場合は、輸入盤でも溝が細かったり、テープがコピーを重ねていたりして、音が悪くなっていきます。そうすると、色々とトラブルが多い輸入盤よりも、プレスの品質管理だけはしっかりしている日本盤を選ぶという選択の方が良い場合もあります〟
〝トラブルって何ですか〟
〝色々ありますよ。レコードは塩化ビニールが主材の樹脂なんですが、音溝が刻まれた金型、いわゆるスタンパーの間に樹脂の塊を入れ、熱と圧力を加えてプレスして作ります〟
〝たい焼きみたいに?〟
〝そうそう。それで、樹脂の質が悪かったり、均一にプレスされずにエクボ、つまり窪みができたり、逆に樹脂のカス、ホコリ、紙くずが一緒にプレスされて山ができたり、スタンパーから上手く剥がすための剥離剤の質が悪くて汚く剥がれて全体にノイズが付いたり、最悪の場合は元から反っていたり、真ん中の穴がセンターからずれていたり……。
日本でプレスした盤にはほぼそんなトラブルはありません。だから、外国の方でもトラブルのない日本盤の方を集めている方も多いですよ。僕もあまりパチパチいうレコードが好きじゃないので。お客さんも耳障りでしょ?〟
〝ふーん。じゃあ、CDをかければ良いのでは?〟
〝あのねぇ、店のコンセプトを真っ向から否定するようなこと言わないの〟
〝ははは。まあ、最近のミュージシャンはCDしか出してませんしねえ。でも、僕はレコードの方が好きなんですよ。なんかCDは音楽の何か大事な部分が小削げ落ちてるような感じがして。味もしゃしゃりもないというか。
ジャケットのデザインも画像が小さいのが前提のせいか安直で面白くないし。
だからUSオリジナル盤のレコードをみんな欲しがるんですけど、オリジナル盤は残ってる数が少なくて、何万、何十万する場合もあるし。高いお金だして買っても、傷が多かったりするし。それに僕は沢山聴きたいので。
そういう理由の妥協点で、きれいな盤を買ってたら日本盤が多くなった、というわけです。良い装置で鳴らしたら、それなりに良い音しますからね〟
〝俺も本当はレコード集めたいんだけど、奥さんが家で音楽聴くの許してくれないからねえ。この店で聴くのが一番良いんだよなあ〟
……というような会話をしたなあ、来始めの頃に。何故だか、それを思い出した。
そういえば最近思ったのだ。
こういう趣味もある意味〝オタク〟と呼べるのではないかと。
概して男の方が偏屈な収集癖のある人間が多い。〝オタク〟つまり、一つのジャンルにのめり込む男達は昔から存在したのだ。
何に執着しているのか、その違いに過ぎないんだと。
桑原さんも学生時代は沢山CDを集めてたらしいけど、今は持っていないらしい。
だから彼は、やっぱりオタクじゃないんだよね。「単なるサブカル好き」なんだよ。
〝サブカル好きの、何でも知ってる、ちょい悪男。
お酒が強くて、優しくて、女の気持ちの良い所をよく知ってる遊び人〟
かららん。店のドアに吊ってあるカウベルが鳴り、そんな彼がやってきた。
「ごめん、待たせたね」
「ううん。大丈夫」
「どうしたの? 何時もなら少し怒るのに」
「そうだっけ?」
「うん」
「ねえ。今日はちょっと良い発泡系飲みませんか? わたしが奢るので」
「おごってくれなくても良いけど、飲もうか。マスター、スパークリングワインの一番良いのって、何がありましたっけ」
「ドンペリの白、二〇〇四年ならあります。二万円頂戴しますけど、良いですか?」
「良いですけど、その値段、卸値とあまり変わらないんじゃないですか?」
「伝手があるので安く仕入れてます。それに桑原さん、お馴染みさんですから」
「ありがとうございます。えっと、カウンターで良いの?」
「いつもの席が良いです」
マスターに断わり、わたし達は店の隅の二人席へ移動した。二人がいつも座る席。
仕事の話、音楽の話、秘密の旅行の話、そして睦言まで交わした席。
プシュ。マスターは小さな可愛い音を立てただけで、上手く栓を抜いた。
マスターの拘りのグラスは、バカラのドンペリ用シャンパンフルート。
グラスに白のドンペリが注がれ、小さな泡が上品に浮かんでくる。
「じゃあ、乾杯」
「……はい」
そういって、わたし達はグラスを合わさず、目の前に掲げた。
ワイングラスは乱暴にぶつけると割れてしまう。特にバカラのように繊細で薄いグラスは。
瞬間に、彼はわたしの目を見つめた。まるで探りをいれるように。
わたしは視線を落とした。
「美味いね」
「美味しいです」
レコードが替わった。Duke Jordanの「Flight To Denmark」のA面。彼の大好きなレコードで一曲目に「No Problem」、邦題「危険な関係のブルース」が入っている。危険な関係なのに問題ないってどう言う意味だろうって訊いたら、「危険な関係」っていう不倫物の映画のテーマソングらしい。選曲が意味深だなー。
「……何か、良いことがあったの?」
「いえ、そういうわけではないです」
「最近、あんまり一緒に遊んでなかったから、ご家族のことで何かトラブルでもあったんじゃないかって、ちょっと心配してたんだよ」
「すみません。弟の件で、色々あって……」
ああ、やっぱり言うの、戸惑ってる。前なら絶対、話していたのに。
「そうなの。なかなか落ち着かないね。仕方ないことだけど」
「はい」
「ねえ。また、温泉でも行かない? うちのがこの前、『最近、出張が少なくなったのね』とか言いだしてさ。『いや、夏は結構あるんだよ』とか言っちゃったんだ」
「そうなんですね」
「うん。関東は湯河原、伊香保、鬼怒川、伊豆、小田原、東北は松島、遠刈田、中国は周防大島、湯原、九州は嬉野、湯布院……。色々行ったよね」
「はい」
そう、色んな温泉に行った。わたしが予約して、彼が宿代の大半と飲食代を出してくれた。小田原に行った時は、一緒の出張帰りに新宿から小田急のロマンスカーの先頭、展望席にどうしても乗りたくて予約したんだけど、ホームで他県の知り合いを見つけて隠れて乗るの大変だったな……。
宮城の温泉ツアーは途中で御釜によって、刈田嶺神社の奥宮と里宮の両方で御朱印をもらうのにレンタカーが渋滞に巻き込まれて大変だった。
御釜、つまり蔵王連峰の真ん中にある火口湖「五色沼」は車でしか行けない場所だったから、桑原さんにはしんどい思いさせた。その代り、夜はいっぱいリクエストにお応えして顎と腰がヘロヘロになったけれど。
……でも楽しかった。本当に楽しかった。
「そうですね」
「いや……、『そうですね』じゃなくて……、なんで泣いてるの?」
「…………」
ああ、だめだ。何故、泣いてしまったんだ。でも、今言うしかないんだろうな。
わたしはシャンパングラスを手に取り、残りを一気に飲んだ。
そして泣きながら作り笑いをして、彼の目を見ながら、彼に告げた。
「桑原さん、……わたしと、……わたしと別れてください」
「歌奏美……」
彼は驚いた目をしてわたしを見た。そして俯き、シャンパングラスをとって残りを呷った。グラスを机に置いた手が少し震えてる。
「本気……、なんだよね?」
「…………」
「僕、なんか怒らせるようなこと、したかな」
「いいえ」
「僕のこと、嫌いになった? 他に好きな人でも?」
わたしは首を横に振る。
「格好悪いかもしれないけど……、理由を聞いても良いかな」
「わたしは……、あなたのことが好きです」
「……なら、なんで?」
「わたしが、あなたの一番じゃないから」
「それは……」と言うと彼は黙った。
付き合う前から分かっていただろう? と言いたかったのかもしれない。でも、彼は黙っていた。
「僕と奥さんは、もうそんなに愛し合ってはいないよ」
「そうなんですね」
「君と一緒の時の方が楽しいし、その……身体の相性だって良いじゃない?」
「そうですね」
「それだけじゃ、ダメなの?」
初めて見た、彼のすがりつくような目。
はぁー。わたしは深いため息を吐き、ワインクーラーからドンペリを抜いて、彼のグラスに注いだ。
彼はグラスを持たない。ワインの場合、注がれる時にグラスを持ってはいけない。
注ぎ終わると彼はわたしの手からドンペリを受け取り、わたしのグラスに注ぐ。
ワインを自ら手酌してはいけない。
彼がドンペリをクーラーに静かに戻すと、氷がからりと上品な音を立てた。
二人はグラスのステムを持って、グラスを合わさず、軽く会釈する。
こういう豆知識も彼が教えてくれたことだ。
わたしの中は、彼の注いでくれた知識と愛で満たされている。でも足りないんだ。
「一昨年の夏、二人で飲んでる所を誰かに見つかって、噂立てられたでしょ」
「ああ、部長に小言言われたやつね」
「あの時ね、二人は付き合ってるのか、って訊かれて、あなたはきっぱり否定したじゃない」
「当然だろ」
「わたしね、本当は認めてよ、って思ってた」
「歌奏美……」
「僕達は愛し合ってます。いけませんか? って言って欲しかったの」
今度は、わたしが彼の目を見つめた。まるで詰問するように。
虚を突かれたように彼の目が驚き、……一瞬下を見てから、右に泳いだ。
「……それは、無理だな」と、見つめ返すこともなく、彼は言った。
ダメじゃない。わたしの決意をひっくり返す、最後のチャンスだったのに。
「そう……、よね。ごめんなさい」
そう言って、わたしは作り笑いを返した。
当然だ。不倫が原因で離婚した場合、元配偶者だけでなく不倫相手にも慰謝料は請求できる。おまけにわたし達の職場での評価は地に落ちる。
当然だ。分かってる。
「ごめん」と言って彼はグラスを掲げ、半分くらいまで呷った。
そして軽く眉間にしわを寄せた。
わたしはこの顔が嫌いだった。仕事の後、飲みにいく約束をしていたのに奥さんから電話がかかって帰らなきゃいけない時。平日に盛り上がってラブホに行った後、退室時間が迫った時。たまの土日のデートの夕方、お出かけの後、駅前で別れる時。
彼は何時も、少し困ったように眉間にしわを寄せ、わたしから目を反らして「ごめん」と言って踵を返した。だから嫌いだった。
仕方がないって思っていたから。妻のいる人を好きになったわたしが悪いから。
わたしは彼にとって、二番目以下だから。
だからこの顔をさせないように、せめて惨めな気持ちで一人にならないように、作り笑いをして見送った。
でも、もう最後だと思うと、何か懐かしく思えた。
もう、変えられない、わたしの気持ちは。もう、帰れない。あなたの胸には。
「わたしはね、自分のことが好きじゃなかった。
でもね、弟が死んで、あいつのスマホとパソコンの中身を見て、あいつが書いた文章を読んで、あいつがわたしのことを大事に考えていてくれたことを知ったの。
こんなに姉弟愛のなかったわたしのことを、あいつは愛していてくれた。
だから、わたしは今、自分を大切にしたいと考えています」
「そう、なんだ」
そう、なんです。だから、わたしもドンペリを呷って、最後通告を突きつける。
「わたしがあなたと別れるもう一つの理由は、不倫をするような男は、わたしの好きな男じゃないって、思ったから。尊敬できる男じゃないって、思ったから」
「…………」
「わたしが愛していれば良いって思ってた。でもね、やっぱり法律に反してる関係を続けるのは、弟の本当の気持ちを知った今、とっても辛いんです。
わたしは晴臣のように、理屈の通った考え方の中で悩みたい。
全身全霊かけて愛したい。愛されたい。そのために自信を持って悩みたいの。
だからもう、二番目で満足してるようじゃ、だめなの。
なのにわたしは、周りにあなたとの関係がばれたって良いと思うくらい好きだった癖に、あなたに奥さんと別れて欲しいとは思っていなかった。
わたしは、あなたを自分の物にできないなら死んだ方がましだ、とまで思ってはいなかったと気づいたの。
それは、わたしがわたしに自信を持っていなかったから。愛される自信を持っていなかったからなの」
「……僕の気持ちでは、足らなかったの?」
わたしは首を横に振る。
「あなたがわたしを愛してくれているのは知っています。でも、あなたは今、『僕の愛では』とは言ってくれなかった」
「それは……」と言うと、彼は口篭った。
「何故なの?」
「『愛してる』と言っても、君は今まで喜ばなかったから。眉間に軽くしわを寄せて、困ったように作り笑いをするから、誤魔化してきたんだ」
なんだ……。やっぱりそうだったんだ。わたしって、ほんとダメだった。
またレコードが替わった。今度はJohn Coltraneの『Ballad』のA面。これも彼が大好きなレコード。マスターの選曲は作為的かな。泣きたいのに、苦笑したい気持ちが、それを抑えてる。
ほんと、音楽って怖い。晴臣とアリサと深雪が翻弄されるはずだ。
「ごめんなさい」
「…………」
「わたしは、前のようなわたしには戻れない。弟の愛と、『Snow Melody』を知った今、わたしを一番に愛してくれる人としか、付き合えません。
……例え二人の人を同時に愛したとしても、悩んで悩んで悩み抜いて、一人だけを選ぶ人、わたしだけを選ぶ人としか、お付き合いできません。
だから……、わたしと別れてください」
彼は何も言わなかった。ただ無言で大きく、そして力なく頷いた。
わたしはクーラーからドンペリを抜いて瓶を拭き、彼のグラスに注ぐ。
注ぎ終わったのを見て、彼はわたしから瓶を受け取り、注ぎ返す。
わたしはグラスを目の前に掲げ、彼を見つめた。
でも彼はわたしを見ようとはしない。
「乾杯しましょ? わたし達がただの仕事仲間に戻るお祝いに。ね、お願い」
「……君は、強いな」と言いながら、彼はグラスのステムを持つ。
わたしはただ、作り笑いをして、彼のグラスにわたしのグラスを合わせた。
優しく、静かに、軽く。
本当はワイングラスを合わせちゃいけないわけじゃない。
でも、高級なワイングラスは強くないから。叩きつけたら粉々に割れてしまう。
わたし達の想いのように。だから、わたし達は甘酸っぱくて、ほろ苦くて、濃厚かつ繊細な泡を立てる想いを内に秘めて、優しく、静かに、軽く触れあう。
「今まで、ありがとうございました」
そしてわたしは、ぐっと一気に、ドンペリを呷った。
曲は二曲目が終わりそうだ。「You Don′t Know What Love Is」、「愛とは何か、あなたは知らない」が。
マスター自慢の、USオリジナル盤。
わたしは知らなかった。これからちゃんと知ることができるのだろうか。
わたしだけのオリジナルの愛を。
* * * * *
「お疲れさん。どう、だった」
「ちゃんと、できたわ」
「そうか」
別れの乾杯の後、わたしは支払いをして店を出ようとして桑原さんに止められた。
そして「最後くらい格好つけさせろ」と言われ、支払いを任せてしまった。
そして寂しそうな彼の背中を見ながら扉を閉じて、この店まで来たのだ。
目の前には最近できた友達が座っている。口の悪い、男友達が。
「何か飲むか?」
「……ハイボール飲みたい。濃いのが良い」というと、友達は大声で店員を呼んだ。
「すみませーん、ハイボール濃いめ一つ」
「はいよー」
ここはいつもの普通の居酒屋。ただ安くて美味しくて元気が良い、若者が多い店。
音楽はなくてテレビの付けっ放し。さっきとは真逆の、いつもの店。
「結構、泣いたみたいだな」と男友達は言った。「目、真っ赤じゃないか」
「そりゃ泣いたけど……。別れたすぐ後で別の男に会ってるって、最悪じゃない?」
「……別に良いだろう。俺達はただのオタク仲間なんだから」
「ごめんね。変なことに付き合わせちゃったね」
「謝るな。……俺があんたに突きつけたことだから。最後まで、見守る責任はある」
「ありがとう」
「……だから、そんなこと言わなくて良いって」
「お待ちっ」目の前にハイボールが置かれた。
「乾杯」と男友達のAKさんがグラスを掲げ、わたしは自分のグラスをぶつけた。
「乾杯。……わたしの失恋に」
ここのハイボールは美味しい。ガツンとして、目が覚める。
「俺が言うことじゃないけど、いや、俺が言うのは卑怯な話なんだが、……別れても良かったのか」
「……別れたくなかった。別れたくなかったよ。
でも、わたしは宙ぶらりんの気持ちのままで、あの話の続きを書くことはできないと思う。
あの人は全てを捨ててでもわたしを選ぶとは言ってくれなかった。
わたしは、他人からどう言われようと、わたしを選ぶと言って欲しかった。
例えそれが、嘘であったとしても」
「嘘でつなぎとめられてしまうのはダメだろう?」
「そうかもしれないね。でも、わたしはそれでも良かった。
例え何時かは破綻する関係であっても、そう言って欲しかった。
でも、彼は絶対にそう言ってくれなかった」
「…………」
「彼ね、結婚するまで、千枚近くジャズのCDを持ってたんだって。
でも結婚する時に、奥さんから邪魔だから捨てて欲しいと言われたそうよ」
「それは……、酷いな」
「で、彼はその時、あっさりと全部売り払ってしまった」
「それも酷いな……。でも、今時大した値段で売れなかっただろうな」
「そう言ってた。結局、それだけの価値しかないものを趣味にしてたのか、ともね」
「それは違うだろう。好きだから持ってたんだろう?」
「ふふふ。えっと、最近ね。リサねこのタイムラインを見ながら思ってたの。
クラスタのみんなは、推しのタペストリーとかグッズが出ると頑張ってイベントに行って一生懸命並んで買うでしょ。コミケで沢山薄い本を買う人達もいる。
わたし最初は、縁日で無駄遣いする類のバカバカしいことかもと思ってたのね。
でも、その感想は全くの間違いだったと、今は思ってる。
オタクの人達は、モノじゃなくて、〝想い〟を集めているんだなって」
「確かにな。何時か冷めてしまうかもしれないとか、そんなこと考えてないよな」
「そう思うとね、最初は気持ち悪くて仕方なかった弟のオタク部屋が、物凄く愛おしく感じられるようになったのよ」
「…………」
「桑原さんは、本当に好きなもののためなら、他の想いの全部をなかったことにできる人なのよ。でも、わたしにはしてくれなかった」
「両方、本当に大切だったからこそ、歌奏美さんのことを二番目だと思い込もうとしていたのかもしれないぞ」
「そうね……、それはあり得る。でも、そうであったとしても我慢できなかった。
だってわたしは『Snow Melody』をプレイして、弟の書いた長いSSを読んで、あいつがわたしを愛していてくれたことを知った。
わたしは、わたしが、自分だけを愛して欲しいと思ってる、わがままで自己中心的で独占欲の強いバカな女だと知ってしまった。
だから、もう、誰かのものである人を、わたしを唯一と考えてくれない人を愛し続けるのは、無理になってしまった。
だって、はっきり分かってしまったんだもの。
嫉妬してた、ずっと嫉妬してたんだって。
わたしから初恋の相手を奪ったあゆみに、わたしの大好きな桑原さんの奥さんをやってるあの女に、そして、お母さんの愛を独占していた詩音に」
「そうか」
「めちゃめちゃ嫉妬してたのに、格好つけて押さえつけてたんだって」
「そうか」
「わたしなんか、どうせ誰にも愛されないって……、そんな価値なんかないって。
まるで高校時代のアリサのように……」
「そうか」
「わたしって、本当にばかだ……。ほんと、どうしようもない……」
「大丈夫だ。大体の奴は真面目に見えても何処かおかしいし、殆どばかだから。
だから、もう後悔はそれくらいにしておけよ」
「……ねえ、もうちょっと気の利いたこと言えないの?
アラサー女が失恋して泣きそうになってるっていうのに」
「言えるわけないだろ。こっちは魔法使いになりそうなアラサー男なんだぞ」
何言ってんのこいつ……。
また泣きそうになっていたわたしは、AKさんを睨んだ。
あれ……、なんで頬赤らめて恥ずかしそうにしてんの?
「えっと、今の文脈の何処に魔法使いが関係してくるの?」
「……知らないのか?」
「何を?」
「えっと……、男が恋愛経験もなく三十歳を超えると妖精が見えて魔法使いになるという、オタク界隈の都市伝説だよ」
「……ということは、玄人さん専門?」
「ねーよっ」
「……ということは、AKさんっ、童貞なのっ?」
「お前大声で言うなよっ。そうだよ、悪いかよっ。
だからこんな時に気の利いたこと言える訳ないだろっ」
「へぇー、そ、そうなのか。そうだったんだ。あは、あはは。
あはははは、あわわわーん、わーん、わーん……」
「この酔っ払いがっ。笑うのか泣くのかどっちかにしろっ」
「だって、だって……、わーん」
「こいつこんなにややこしい女だったのか……」
「悪いかよっ」
「悪いよっ。おまっ、めっちゃ注目集めちゃってるじゃねーか。俺が別れ話切り出した訳でもないのに……」
そういうとAKはわたしの隣に来て、少し皺ってるバンダナをわたしに渡した。
「これで口でも塞いどけ」
「鼻噛んでも良い?」
「それはやめて……」
「やめて欲しかったら……、ちょっと肩を、貸してくれない?」
「……良いぞ」
それからわたしはAKさんの肩に頭を乗せて、バンダナで目頭を押さえて、気持ちが落ち着くまで静かに泣いた。結局ちょっと鼻水も拭った。
AKさんの肩は筋肉ががっしりとしていて、ちょっと運動不足の桑原さんとは違う。
あー、大好きな男と別れたすぐ後に、悪友の男の肩に頭を乗せて泣いてるなんて、ほんと最悪の女……。知り合いには見られたくないな。
でも今は、この口の悪い童貞野郎が貸してくれる肩がありがたかった。
「ねえ、AKさん、わたし、もっと自分のことを好きになるよ」
「そうだな」
「そしてもっと、一生懸命、わがままな女になる」
「それは……、困ったな」
そういうとAKさんはやれやれと言った感じで、優しく苦笑した。
なにこの童貞野郎……、笑うとこんなに可愛いのか……。反則じゃないの。
次回12話は、2024年12月22日19時に更新予定です。