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10/16

10 エロいキャットファイトを期待してたんだ?

 全然変わってないな……。店の名前は変わったみたいだけど。

 京都の夏は五山の送り火を過ぎれば大体終わる。でも今日の日中はまだ暑かった。

 銀閣寺近く、ヴォーリズ建築風の古い洋館を改装したカフェにわたしはいた。

 高校生の頃は知らなかったけど、今なら分かる。キッチンカウンター横の壁に置いてある、このでっかいテーブルみたいなスピーカー、JBLのパラゴンだ。とにかく鳴らすのが難しいスピーカーだって、ジャズ・バーのマスターが言ってたなー。

 アンプはトライオードの真空管アンプかぁ。昔は違うのだった気がする。

 でもプレーヤーは昔のまま、パイオニアの古いやつ。

 お父さんが使っていたのと同じ機種だ。

 パラゴンの上に据え付けられた棚には、アナログレコードが並べられている。

 ところで、アナログレコードって何か、知ってる人は手を上げて!

 何それ美味しいの?って、だいぶ毒されてきたな〜わたしも。

 簡単に言うとCDの前の音楽記録媒体。直径十二インチ、厚さ一、二ミリの塩化ビニールの盤の両面の表面に音楽信号が溝として記録されている。

 その上に、二から三グラム位の針圧をかけた再生用の針を落として、溝をトレースして微妙な上下左右の動きを電気信号に変えて音楽を再生する。

 なんでこんなこと、わたしが知ってるかって?

 それは、今不倫してる男と会ってるジャズ・バーのマスターが、レコードしか聴かない、かけないって頑なに決めているから。マスターと桑原さんのマニアックな話を聞いているうちに、色々覚えたのだ。

 レコードとかステレオにまつわるウンチクも、そこで覚えた。

 まぁ、女のこう言う知識の陰には、大体男ありだよ。はぁー、男ってめんどくさ。

 この店は、高校時代に時々来たのだ。

 ……当時の親友や、当時の彼氏と。

 高校生が来るには、ちょっとお高い店だけど、ケーキが美味しいし……、それにレコードが聞けるお店を他に知らなかったから。

 実家のステレオが置いてあったお父さんの部屋は、お母さんが再婚した時、納屋みたいな扱いで荷物置き場になっちゃったから、鳴らせなくなっていた。

 でも「鳴ってないなー」。

 おっと、独り言しちゃった。

 隣の机に座ってカフェオレ飲みながらノートパソコンをカタカタ言わせてる意識高い系のお兄さんに怪訝な顔をされてしまった。

 このパラゴンは全然鳴ってない。せっかくKaren Carpenterがかかってるのに、口を塞いで歌ってるみたい。

 でかいくせに、言いたいことが言えてない。あの頃の、わたしのようだ。

 そんな風に想いを漂わせていると、待ち合わせをしていた元親友が来たようだ。

「久しぶりだね、あゆみ。来てくれて、ありがとう」


* * * * *


「元気にしてたの」

「まあね……。ところで、何の用なの、歌奏美」

「んー、ちょっと昔話をしたくなって」

「あはっ、昔話なんて……。あんた、あたしの顔なんて見たくもないでしょうに」

「そうね……。最近までは、確かにそうだったわ」

「あたしやっぱり、帰って良いかな」

「そう言わずに……、ちょっとだけ付き合ってよ。訊きたいことがあるんだ」

 わたしがそういうと、あゆみはため息の後「ちょっとだけよ」と言い、テーブルの向こう側に腰を下ろした。

 あんたも好きね。うんうん、ちょっとだけ、先っちょだけで良いから。

 って、本当にだいぶ毒されてるな。でも女のわたしでもそう言いたくなるよ。

 高校時代からスタイル良かったけど、なんか肉感的でエロい身体つきになった。

 茶髪セミロングを額の前でふわっと分けて、軽くウェーブしたボリュームのある髪を無造作に手櫛で上げると、愛嬌のある猫みたいな顔が映えた。

 橘あゆみは、わたしの高校時代三年間の親友「だった」女の子だ。

 何故過去形かって?

 わたしは受験前に、恋人をあゆみにNTR ……、つまり寝取られたから。

「えっと、藤崎誠くんは元気にしてる?」

「知らないわ。何年前の話よ……。大学入学してからすぐに別れたから」

「ふーん……。やっぱり、そうか」

「何なのよ? 藤崎の名前なんか持ち出して、今更恨み言でも言うつもり?」

「いや、恨み言を言うつもりはないし、意趣返しするつもりもないよ。……ただ、あゆみがわたしから彼を奪った理由っていうか、気持ちを知りたくて」

「そんなこと訊いてどうすんのよ」

「えっとね、わたしの弟が、梅雨の前に亡くなったのよ」

「そう、らしいわね。噂で聞いたわ。……ご愁傷様でした」

「でね、あいつの遺品のパソコンの中にね、わたし達のことについて色々書いてある文章があってね」

「わたし達? あんたとあたしってこと?」

「わたしと藤崎くんは、三年の夏休み、予備校の夏期講習で仲良くなって、お盆明けの丁度今頃から付き合い始めた。

 ねえ、あゆみ。あなた、夏休み明けの頃、わたしのいない時、家に来たでしょ。

 わたしが帰るのを待っている間に、わたしの部屋で泣いてる所を詩音に見られなかった?」

 そう言うと、あゆみは少し驚いたような瞳をして、すぐに顔を左に反らした。

「覚えてない。でも泣いてたからって、どうだって言うの」

「詩音はね、こう書いてるの」と言い、わたしはA4のメモ数枚をあゆみに渡す。

「オレンジのマーカーで囲った所を、心して読んでね」


〝姉さんが高校三年生だった、十年前の夏休み明け、橘あゆみさんが訪ねてきた。

 こども心に憧れていた、姉さんの友達の中でも一番美人の親友。

 姉さんの部屋に案内して暫くしてから、お茶でも出した方が良いのか、と思って、コップに麦茶を入れて姉さんの部屋の扉の隙間から覗くと、あゆみさんが声を殺して泣いていた。勉強机に飾ってあった、姉さんと彼氏が写っている写真を見ながら。

 十三歳の僕にとって、憧れの人があんなに寂しく泣いていたのは衝撃だった。

 暫くして待ちきれず、あゆみさんは帰っていった。


 それから一月後の初秋。

 今度は姉さんが、その写真を見ながら泣いていた。だが、泣き方は違っていた。

 姉さんはまるで諦めたような顔をしていた。うっすら微笑んでいたかもしれない。

 その涙からは何の悲しみも読み取れなかった。

 だから何故泣いていたのか全然分からなかったけど、姉さんは額ごと写真をゴミ箱に捨てていた。中学二年生になってから、あゆみさんが姉さんの彼氏を奪ったのだと、噂で聞いた。でも、すぐに別れたみたいだ、とも。


 僕はずっと、二人の涙の意味について考えていた。


 最初、あゆみさんが泣いていたのは、好きだった男が親友と付き合い出したのが悲しくて泣いていたのだと思っていた。

 姉さんが泣いていたのは、親友に恋人を取られたのが悲しくて泣いていたのだと思っていた。

 でも、『Snow Melody』をやった後、そうじゃないのでは? と思い始めている〟


「この『Snow Melody』って何?」

「えっと、何て言うの、恋愛シミュレーションゲームってやつ?」

「ああ、『カリカノ』とか『ドキメモ』とか『ラブロス』とか?」

「何それ?」

「『仮染めカノジョ』とか『ドキドキメモランダム』とか『Love in Lost World』とかでしょ?」

 なんでそんなこと知ってんのよ。女のこういう知識の陰には、大体男あり?

「あー、そんな感じのやつ……。ま、そこは無視して」

 ……問題はその次のテキストなのだ。


〝あゆみさんが泣いていたのは、親友を男に取られたと思ったからじゃないか?


 姉さんが見つめていた「こと」は、「恋人に裏切られたこと」ではなく、「親友と思っていたあゆみさんに裏切られたこと」じゃないか? と〟


「えっ。ちが……、違う……」

「違うって……、あんた、泣きながら何言ってのよ」


 ……だから言ったのよ。心して読めって。不意打ち食らっちゃうから。

 オレンジのマーカーで囲ったのはここまで。

 そこから先は、晴臣を間に置いた、アリサと深雪の行動の考察……、主に物語の序盤、深雪が何を考えていたのかがメモられている。

 そこは……、あゆみに読ませるつもりはなかった。


「はあ……、あれから十年も経ってるのよ?」

「そうだね」

「今更、こんな感情に出会うのは、……本当に困る」

「そうだね」

「ワイン……、飲まない?」

「飲もう!」

 そしてわたし達は、高校時代には見たことがないアルコールとおつまみのページを開け、三番めに安い赤ワインをボトルでオーダーする。

 チーズ盛りとシーザーサラダとエビのアヒージョとフランスパンのスライスも。

 アヒージョは熱くて舌が火傷しそう。尤も、わたし達の懺悔の方が痛熱い。


「あたしの親ね、離婚歴ありで、再婚したでしょ?」

「そうだったね」

「あたしは母親の方に付いてきて、優しそうで、割と稼ぎの良い男と再婚して。

 でもね……、あの男は本当に、ダメな人間だったのよ」

「そう……だったの?」

「いや別に、暴力とかはなかったよ? でも、言葉の暴力というか……。

 あたし達母子を自分より下に見たような物言いが、生活の端々で出てきて」

「…………」

「まあ、どちらかというと依存体質の母親も悪かったんだと思うんだけど……。

 嫌味言われてもへらへら笑って、毎日飯を作って洗濯して掃除して……、その対価に『あなたの作る食事には気品がない』だの『袖が汚れてました。品が下がります』だの『これで掃除したなんてよく言えますね』だの言われてさ」

「なによ、それ……」

「困ったのは、あたしが高校に入ってから、母親のいない所で妙にスキンシップしてくるようになったこと。それが、こどもを触るような手つきじゃないんだよ」

「それは……、気持ち良くはないね」

「まあ、要するに上手く行ってなかった。うちの家は」

 そう言って、あゆみはワイングラスを傾ける。

「だから、あたしはあんたに近づいた。同じ母子家庭で、母親が再婚したあんたに」

 そして、クラッカーにカマンベールチーズを乗せて、齧る。

 さくさくと音を立て、小さな顎が動いた。

「でも、同じような不幸な感じの家庭かと思ったら、…あんたの義理のお父さんめっちゃ良い人じゃん。お母さんにベタ惚れみたいだったし、稼ぎも良さそうだし」

「まあ、そうだね」

「正直言って、羨ましかった。だから、あんたには相談できなかった」

「…………」

「それでも良かったのよね。あんた大人しくて静かだしさ、あたしの馬鹿な話も相槌打って聞いてくれるし、勉強も教えてくれるしさ。

 家に行ったら上げ膳据え膳でお菓子にお茶と夕食まで振舞ってもらえるし。

 あんた優しいしさ。あたし、あんまり自分の家に帰りたくなかったから、甘えられる場所になってくれて助かってたんだ」

「優しくはないよ」

 正直、入り浸られて勉強の邪魔だと思ったことは何度もあった。でもわたしは、はっきり断ることができなかったのだ。たった一人の親友が離れていくのが怖かったから。そういうお互いの打算の上に、関係が続いていたのだ。

 そんな関係の何処が親友だというのだろうか。

 そんな関係が、わたしが藤崎くんと付き合うことで、壊れたのだろう。

「ねえ、本当の所はどうなのよ」

「何がよ」

「何故、藤崎くんを奪ったの?」

「……今更、そんなこと改めて聴きたいの?」

「…だめ、かな?」

 わたしは、まるで深雪のように、小首を傾げてお強請(ねだ)りする。

「何そのあざといの。きもい」

「うん……。やっぱり通じないか」

「はあー」とあゆみはため息を吐いた。

「色々うざかったの」

「うざかった?」

「ねえ、あんた。藤崎が受験で悩んでたの、知ってた?」

「……知らない」

「あんた、同志社か立命館狙いだったでしょ? でも藤崎には無理めだった。

 だからあいつは、あんたには内緒で悩んでたのよ。

 夏休みの終わりに、あんたの家で課題を片付けるのに集まったじゃない?」

 ああ……、藤崎くんを初めてあゆみに紹介した日だ。

「あの時から既に悩んでたわよ、あいつ。それで、同じ位の学力のあたしに愚痴をこぼしてたの。あたしの場合は学力だけでなく、家庭環境からも怪しかったけど。

 そんな感じでお互いの愚痴を話しているうちに、慰め合いが変な雰囲気に……」

 そこまでいうとあゆみは、だいぶ熱のとれたアヒージョのオリーブオイルをフランスパンにかけて、その上にエビとキノコを乗せて齧り付く。

 パン粉が少し、オレンジの花柄のフレアスカートに落ちた。

 唇と親指にオイルが付いた。あゆみは指を舐めて……、そして眉を顰めた。

「嫌になっちゃうな……」

「何がよ」

「こういう、身に付いた食べ方が上品じゃないところよ」

「パン粉なんて、誰でも落とすよ。気にしなくて良い」

「あたしは嫌だった、ずっと。あんたといると、自分がどうしようもない女に思えてきて嫌だった。……義父が言うみたいに、下品な女なのよ、あたしは。

 自分が親友だと思っていた女の子、自分と同じように不幸だと思っていた女の子がさ、パッと見地味目そうだけど実はめっちゃ美人で背が高くてスタイルも良くて、勉強ができて母親の再婚相手は良い人で名門私学狙いでも経済的に許されてさ。

 本当は嫉妬してたんだ。めちゃめちゃ嫉妬してたんだよ」

「……わたしは自分を美人だなんて思ったことはない」

「そういう所もうざい。謙遜も行き過ぎたら嫌味だって分からないの?」

「美人なのはあなたでしょ。性格だって、あなたの方が良いし……」

「あたしは今日、あんたに会うためにめちゃめちゃ気合いを入れたのよ。美容室に行き、長い時間をメイクに使い、一番可愛く見える服を選んでやってきた。

 あんたにマウントをとるためによ。

 それなのに……、あんたは何なのよ、その素っ気ない化粧は。何なのよ、それで高校の頃と変わんない瑞々しい肌、皺の気配もない涼しげな眦。

 高校の時より出るとこ出て引っ込むべきとこ引っ込んでて……。

 凄い美人よ、あんたは。どれだけ自分が周囲から注目されているか分かってんの?

 下ばかり見て歩いてるから気づかないんじゃない。昔と同じように」

 ……だって、さ。視線上げて歩くの苦手なんだよ。男の人達がわたしの胸ばかり見てるのに気づくんだもの。嫌で嫌でたまんないんだもの。

 そんな所しか見られてないんだって、嫌でも突きつけられるから。

 あゆみはまたクラッカーを手に取り、サラミを置いて、上にカマンベールチーズを重ね、齧った。クラッカーの屑が少し舞った。あゆみはばさばさと手で払う。

「あーもー、何で上手に食べられないかなあ。ホントうざい。

 あたしがあんたから藤崎を奪ったのは、あんたがうざかったからだよ。

 何でもあたしより持っているあんたから、最初の彼氏を奪ったら、あんたがどんな顔をするのか見たかったから」

 そう言うとあゆみは、クラッカーの残りを口に放り込み、泣きそうな顔をして咀嚼した。

「とにかく、全部うざくなって、ぶっ壊したかった」

「…………」

「で、ぶっ壊した結果、あたしは自分が自慢できるたった一つのものを失った。

 たった一人の親友を。

 残ったのは、見た目はかっこいいけど中身は普通でさして面白みもなく、アレばっかりやりたがる彼氏と『親友から恋人を奪ったビッチ』という称号だけ。

 大学願書提出前に悩み倒して、今の職目指してなかったら人生詰んでたわ」

 あゆみは大げさに両手を上に向けて開いた。

 そして、ワイングラスを持ち上げて口につけて、残りをゴクリと飲み干した。

 赤ワインが唇から垂れ、あゆみは乱暴に左手で拭い「最悪よ……」とつぶやいた。

「もう良いよ。よく分かんないけど、……もう分かったよ」

「そう。じゃ、あたしはもう用無しね」

 そう言って鞄から財布を取り出そうとするあゆみを見ながら、わたしは自分の赤ワインのグラスを持って、同じように残りを喉に流し込む。

 そして情けない程なけなしの癖に心の底にへばり付いたプライドを引っ剥がす。

「わたしが泣いていた理由はね、詩音の書いた通りよ。

 親友だと思っていた子に、彼氏を盗られた。でも、悔しいとか憎いとか、そんなんじゃなくて。『ほら、やっぱりね』って」

「……何が『やっぱり』なのよ」

「『やっぱり、わたしを好きな人なんていない』っていう、諦めを確認していたの」

「はあ?」

「あゆみ、あなたは『わたしに嫉妬していた』って言ったけど、わたしにとって自分の家はその頃それ程居心地の良い場所じゃなかったんだって、今更気付いたわ」

 あゆみは、浮かせかけていたお尻を椅子に深く座らせた。

 そして、空いた二つのグラスに赤ワインを注ぐ。どうやらボトルも空になった。

「わたしが四歳の時、実父は膵臓のがんで死んだ。物心ついた頃のわたしは、二人の辛そうな顔ばっかり見ていた。今ならあの頃の二人は大変だったと分かる。

 でもわたしはこどもの頃から、自分が両親にあまり好かれていないと思っていた。

 実父が死んでからは、一時期生活が不安定だったこともあって、お母さんも仕事で辛そうだったから、わたしは自分のやれることは自分でやることを覚えた。

 今の義父はお父さんの親友でね。実は昔からお母さんにベタ惚れだったみたい。

 うちが色々しんどいと知って、お母さんにアプローチしたみたい。

 再婚して、弟ができて……、何だかわたし、ずっと居心地が悪かった。

 だからさ、夕方六時を過ぎるときっちりわたしの家にあなたがいるかどうか電話してくるようなお母さんがいる、あなたに嫉妬してたのよ」

「……嘘でしょ?」

「『隣の芝生は青く見える』ってやつかな。

 今の両親は弟に構いきりで、わたしに彼氏ができようが、予備校で遅くなろうが、あまり心配されなかったからね」

「それはあんたが手のかからない子だったからでしょ」

「そうかもしれないけど、わたしはそうは思ってなかった」

 と、わたしは今頃になって気付いたのだ。

「だから、あなたが藤崎くんを奪ったと知った時『やっぱりね』って思ったの。

『やっぱり、わたしは誰からも必要とされていないんだ』ってね。

 だって、たった一人の親友に、始めての彼氏ピッピを盗られちゃったんだもの」

 ピッピって痛い……。凡そアラサー女に似合う独白じゃない。

「つまり、あなたが見つめていたのは、友情とか、失恋とかではなく、……自分への寂しさみたいなものだったってこと?」

 わたしはグラスを手に取り暫し考える。

 ささやかだけど、あの夏にあった自己肯定感……、親友がいて、恋人がいて好かれているという肯定感が、喪失した……。

 それが、わたしを泣かせた。……それが、わたしを諦めさせた?

 もしあゆみが藤崎くんを奪わなければ……、性格や趣味や身体の相性とかで藤崎くんと別れたとしても、自己肯定感は残っただろう。

 でもあの晩秋に、わたしはそれを失った。

 この喪失感は、今でもわたしの中に暗い影を落としているのか。なんだ……

「しょうもな」

 ああ、そうだね。ほんと、そうだね。

「あたしは、そんなしょうもない女の、親友のつもりだったのか。

 あたしは、そんなしょうもない女に、掻き乱されてたのかよ……」

「えっと、自分で言うのは別に良いけど、他人から言われるのはムカつくんだけど」

「他人か……、そうだよね。十年近くお互い音沙汰無しなのに、元親友だとかどうとか下らないお伽話だわ。

 ほんと、しょうもない。しょうもない女だわ、……あたしは」

「えっと……、今の文脈でどうしてそうなった?」

「だってそうじゃない……」

 あゆみの声は少し震えていた。

「どうせ友情が壊れてしまうなら、怒りとか、憎しみとか、心に深い傷が残った方が良かったのに」

「何だと?」

「……だって、これじゃあ、あんたを裏切った甲斐がない。あんたを裏切って、あたしの親友を奪った男から、親友を奪い返すために、好きでもないその男に処女を散らされた甲斐がないよ」

「えっと……、訳分かんない」

「あんたに分かる訳ないでしょ。自分だって訳分かんないのにさあ」

「ちょっと……、酔ってるの?」

「酔ってるわよっ。酔わなきゃ、こんな馬鹿な告白できる訳ないでしょ。

 そうよ、詩音くんの書いた通りよ。

 あたしはあたしのたった一人の親友をぽっと出の男に盗られてしまった。

 だから、全部嫌になった。うざくなった。だからぶっ壊したのよ」

「むちゃくちゃだね……、あゆみ」

「うるさい」

 そういうとあゆみは、またグラスのワインを呷った。

 土曜の昼下がり、銀閣寺近くのお洒落なカフェ。レコードは数枚を経てFrance Gallに代わってる。わたしは彼女のウイスパーボイスをあまり好きじゃない。同じSerge Gainsbourg絡みならJane Birkinの方が良かった。

 ただし、あんな情の深い女の歌はこの店には似合わないだろう。

 このテーブルに座ってワインを飲んで馬鹿話をしているわたし達のように。

 そうか……、全部ぶっ壊したのか。でも、確かにそうかもね。

「わたしね、傷ついてたよ、たぶん。めちゃめちゃ傷ついてた。

 あなたと藤崎くんに裏切られて、わたしは自分を価値のない女だと思い込んだ。

 だから、優しくしてくれる男なら誰とでも付き合ったよ。色んな男と付き合った。

 でも最後には面白みのない女だと言われて捨てられたよ。

 長く付き合ってくれる人もいたけど、全員他に彼女か好きな女がいた。

 そして周りの女達から『カスビッチ』という称号を得たよ。

 うん、大丈夫だよ、あゆみ。わたしはわたしをぶっ壊したし、現在進行形でぶっ壊れてるよ。そうだそうだ、これあなたのせいだよ。賠償ものだよ」

「現在進行形って何……」

「不倫よ不倫。イケメンおじさん上司カッコサブカル好きとの職場内不倫。

 どう? こんなぶっ壊れ方で満足かな?」

 おっと、出るな出るな。出るなよ。

「嘘でしょ?」

「嘘だったら良いのにって、あの日々が本当は現実じゃなかったなら良いのにって、今は思ってる」

「…………」

 あー、だめだ。やっぱり出ちゃったよ、涙。

 どうやら実際自分の口で言葉にしてみると、思ったより悔しかったみたいだ。

 桑原さんと付き合うまでの自分は、本当に自分を大切にしていなかった。

『Snow Melody』をやって、アリサの純粋さ、深雪の献身、そし二人に共通するたった一人の男に対する想いの強さを知った。そして、わたしは振り返ったのだ。

 何故あんな男達と付き合ってきたのだろうか。男達がどうこうではなく、自分を粗雑に扱ったことが悔しかった。

 わたしはもっと、アリサのようにわがままに、深雪のように狡猾に恋するべきだった。

 絶対に失いたくない恋愛だけを求めて。

 ぐす。うう……。

 ふと前を見ると、あゆみが泣いていた。

「なんであなたが泣くのよ」

 わたしは少々詰るように呟いた。

「だって……、そんなことになるなんて、思って無かった……。ごめん……」

 わたしはあなたから謝罪の言葉なんて聴きたくなかった。

 ……でも何?

 なんだか少し、気が楽になった。

「あはは。ちょっと復讐できて良かったよ」

「えっ、じゃあ、今の話、嘘なの?」

「いや黒歴史と不倫は嘘じゃないけど」

「じゃあ、やっぱりあたしが」

「あなたのせいじゃないよ。わたしはこの歳になるまで、自分が何者かを知らず、自分の求めているものを知らず、ただ自分を肯定してくれる恋を求めて彷徨っていただけなのよ。厨二病よ厨二病。

 でも、あなたの涙のおかげで、わだかまっていた何かが少し解けた気がするよ。

 ありがとうね」

「あんた……、本当は性格悪かったのね」

「ふふん。その通りよ」

 それからわたしは、最初の勢いは何処に行ったんだよ、と内心突っ込みながら、終始泣きっ面のあゆみと話し続けた。色々な思い出と、現在の状況について。

 あゆみには、お互いの両親に紹介した男性の恋人がいるそうだ。結婚を前に、心に刺さっていたわたしとの関係について思いを馳せていた時、詩音の訃報を聞いた。

 軽いマリッジブルーと合わせて困惑していると、わたしからの連絡があった。

 最初から謝らなければならないと心に決めていたという。

 でも怖かったからマウント取ろうと化粧キメて着飾った。おまけにわたしの前髪ぱっつんを見て、なんだこの女、ますます美人になりやがって(お世辞ありがとう)と思ったらつっけんどんな言葉が口を突いて出たらしい。あゆみっぽい。

 謝る必要はないと言った。謝られると、わたしも桑原さんの奧さんに謝らなきゃならなくなるじゃん。

 そんなのは絶対に嫌。

 わたし達は、ワイン一本を飲み干して解散した。

 和解した訳でも、友好を復活させた訳でもない。ただお互いの電話番号とメアドを交換して別れた。お互いにもう一度会いたいと思えば、また会えるだろう。


* * * * *


「なんだよ、もっとこう、壮絶なキャットファイトを期待してたのに」

「何? 組んず解れつでおっぱいポロリとか?」

「いやエロいのは期待してないよ」

「何顔赤らめてんのよ? 本当は期待してたんでしょ? ほれほれ、体は正直だな」

「反応してないよっ。てか、あんた界隈に毒されすぎだぞっ」

 あゆみが帰った後、わたしは隣の席でノートパソコンをカタカタ言わせてた意識高い系のお兄さん……、AKさんの正面に座り直した。

 わたしだって怖かったのだ。乱れてしまうかもしれないと思った。ポロリはしないだろうが、頬をひっぱたくかひっぱたかれるかもしれないと思った。

 だから、もしもお互い頭に血が上って収拾がつかない雰囲気になったら止めてくれるように頼んでいたのだ。

「で、成果はあったのか?」

「分かんない。でも考え方が整理できたわ。

 詩音は、わたしが自己肯定感を失っていると思ってたのね。

 それをアリサに重ねた。

 アリサが求めているのは本物の肯定感だと、詩音は言いたかったのよ。

 バークレーで学んでニューヨークで得た評価だけでは満足できていなかった。

 晴臣と深雪から初めてもらった友情と自己肯定感は自分で壊してしまった。

 晴臣から初めてもらった愛情と自己肯定感の欠片を胸に頑張った。

 日本に帰ってきて、一時の想い出として胸の中の宝箱に秘めていた晴臣の愛情と自己肯定感の欠片だけでは満足できない自分を見つけた。

 アリサはそこで初めて、〝女〟になったんだわ。

 そして、アリサエンドでは、高校の時に深雪がやったように、晴臣を奪った」

「いや、高等部時代に晴臣を奪ったのは、最終的にアリサだろ?」

「それは初体験を奪っただけよ。アリサが晴臣に好意を抱いていて、晴臣が明確にしていないものの強烈にアリサに惹かれているのを知っていて、先に動いたのは深雪でしょ?

 高等部時代のアリサはもっと刹那的に考えていた。どうしようもない感情によって、晴臣を深雪から借りてしまってごめん位に考えていた」

「深雪派の俺には肯定しづらい説だな」

「まあ……、そうよね」

「でもまあ、色々妄想するのは自由だしな」

「あれ、論争しなくて良いの?」

「今は良い。それで? エンド以降は?」

「最終章で再び晴臣と深雪に出会ったアリサにとって、最初物凄く葛藤があったのはそのせいだ、と考えてみる。でも、本当に女になったアリサは、貪欲になった。

 想いは決壊して、今度は本当に深雪から晴臣を奪うと決意して奪った。

 でも、アリサの心の中には、あの子の生き方ではどう考えても得ることが不可能だけど、でもあの子の自己肯定感を満たすために絶対必要な最後の課題が残ってる。

 それが、深雪との友情なのよ」

「それは、あまりにも勝手すぎる考え方じゃないか?」

「そうね、勝手ね。でも深雪エンドで深雪は晴臣の愛も、アリサの友情も、両方とも手に入れるじゃないの」

「それは深雪が頑張ったからだろ」

「だからだよ。だからアリサが主体的に深雪との友情を取り戻したいと思えるように、深雪に画策させるんだよ。そうして、晴臣と愛情しか持っていないアリサに、親友との友情も持たせてやりたいって、詩音は考えたのよ」

「あんたの考えが正しいとして、そうするとリサねこさん……、詩音くんは、何故それを書くために、前半のあの膨大なテキストで深雪の存在感を大きく書く必要があったんだ?」

「きっと、対等でなければならないって考えたんだと思う。深雪の社会的ステイタスを上げて強い女にしておかないと、ライバルとして対等に振る舞えないから。

 アリサが、余計に気兼ねしてしまうから」

「じゃあ、徹頭徹尾、アリサのために、深雪のターンを書いたって言うのか」

「だと……、思うけど」

「そうだとすると、あいつ……、性格悪いな」

「そうね、性格悪いわね……」

「ってあんた、なんで泣いてるの」

「だって、分かっちゃったんだもん」

「何を?」

「詩音がわたしのことを、どれだけ愛していてくれていたのかをよ」

「…………」

「あいつきっと、わたしが自己肯定感の無さで、色々上手く行ってないって、気付いていたのよ。

 母親との関係とか、義父への距離感とか、詩音への無関心とか、……わたしがわたし自身を大事にしていない所とか、そういうのが全部、わたしの自己肯定感の欠如から出てたんだって、気付いてたんだ。

 それが、色々違う所はあるけど、『Snow Melody』のアリサが抱えている、恋と友情と裏切りと喪失感に重なって……、どうしてもアリサを完璧に幸せにしてやりたいと考えたんだと思う。……わたしの幸せを探すために」

「そうだとして、なんでそんな回りくどい方法を……」

「分かんない。でも、自分という存在のせいで、わたしが家庭の中で不安定な立場にいるって、負い目を感じていたのかも知れない。でも、面と向かってそれを言える状況でもないって思ってたのかもね。

 ……ひょっとすると、色んな気兼ねを感じて閉塞感を感じていたのかもしれない。

 それを打ち破るために、わたしのことを自分の中で整理しようとしていたのかも。

 だとすると、あいつが小さくまとまろうとしていた生き方そのものに、わたしのあいつへの振る舞いが悪く影響してたのかな?」

「ストップ。また、自己否定の方向に舵とる気かよ。それ、あんたが今語った、詩音くんの想いに反するだろ」

「……そうね。分かった。ネガティブな妄想は此処で止める」

「絶対だぞ。もう一度同じこと言ったら、……友人として怒るからな」

「ごめん」

「謝るな。ということは、今空白になっている箇所は……、アリサが深雪の友情を得るために攻勢に出る話を書く、というめちゃめちゃしんどい作業になるぞ」

「そうね。でも、深雪は元々アリサとの関係を再構築することを望んでる設定になっているから」

「深雪が作ったビッグウェーブに乗れば良いってか」

「乗るための推進力をアリサが持つようにしてあげれば良いのよ」

「なる程ね。大体行けそうな辻褄はあってるかもな。

 ……でもこれで、あんたがやらなきゃならないことがもう一つあるってことが、明確になったんじゃないか」

「……って、何?」

「さっき自分で言ってたじゃないか。『わたしがわたし自身を大事にしていない所』、それを直すってことだ。そうじゃないと今仮定したアリサの心に寄り添えないよな」

「えっと……」

「直すためにはどうするのか、分かってるよな?」

 あー、だめだ。嵌められた。

 最近できるだけ考えないようにしてたのに。でも自分だけが目を逸らしていても、ダメなんだ。だって、相手のあることなんだもん。

 でも(でもばっかだな)、本当に良いのか、自分。耐えられる……のかな? 

 はぁー。めんどくさい、な。

次回11話は、2024年12月22日07時に更新予定です。

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