6.退院
青野さんのファーストネームは茜という。茜色は夕焼けや、柿の色に例えられる。青と赤を一人の名前で表現していた。素晴らしくも素敵である。今後は茜さんと呼ぶことにしたい。この当時、オレは彼女が
『わたしのために死んで』
と言ったら、喜んで天使と昇天したと思う。それほど、のめり込んでいた。つまりアルコールに代わり、依存する何かが欲しかったのかもしれない。こう考えると納得できるのである。人間は時として、思わぬ行動をするが、それが本能であるかも。
一ヶ月経ち、週に二回は上永谷グループのミーティングに参加していた。ここのグループは在籍メンバーが12名で、常時参加するのは8名である。ASの中でも平均的なグループであった。
ソーバー(断酒歴)3年のルリさんがチェパーソンをしていることもあり、若いソーバーの仲間が来る。彼女は45歳で美熟女との評判が高く、顔観たさで参加する男性も多い。(歳がわかったときは驚いたが、オレは37,8歳かと思っていた)
また逆の場合、イケメン男子がいるグループで女性は集まるとは限らない。男は容姿と年齢を重視するが、女性はあくまで中味優先のようだ。ASの女性比率は20%程度だからであろう。
上永谷グループの特長はお菓子が2,3種類必ずあることだ。他のグループではあまりおいていない。このことをルリさんに聞いたら、苦笑いをして答えてくれた。
「このグループは2年前、参加する人が少なかったのです。それでお菓子で釣ろうと思って、毎回出すようにしたのですよ。でも中々増えなくてね。
お菓子を出すのを止めようかと思ったけど、悔しいから続けていたら、いつの間にか増えちゃった。面白いでしょ」
そばで聞いていたメンバーのたかしさんが
「増えたのはお菓子が原因でなくて、ルリさんですよ。うちのチェパーソンは人気があるし、面倒見も良いからね。平戸病院の青野さんにも定期的に来てほしいと、頼んだのだってルリさんなんだから。そうでしょ」
知らなかった。茜さんがここに来るようになったのは、ルリさんが噛んでいたのか。ルリさんは二重の恩人になるな。
ASは献金のみの収入で、やり繰りしていた。仲間が集まらないグループは資金不足に陥るため、自然淘汰される。またどんなに人気があって参加者が増えても、1年後は解散することもあった。
だから一定のグループ数が維持された。無理をしているグループは、いつか消滅してしまうようだ。人間も同じで、無理に力を入れずに自然体で生きていけば楽であろう。
今までは無駄な力を、無理な方向へ賭けていた。こんなことが分かるようになる。無視せずに、素直な気持ちになろう。
こう思ったら急に睡魔がやって来て、気が付いたら朝である。一瞬で眠りから、目覚めたように思えた。心身ともに好調な証拠と、考えることにする。何事も自分に好都合と思えば、前向きに生活ができるのではないか。
反面、自己満足で終わりそうだが。この考え方を早速、茜さんに聞く。
「良いところに気が付きましたね。悪い方ばかり考えていると、いつかはうつ病になるリスクがあります。自己満足で終わるリスクもありますが、別に弊害があるわけではないですね。
寺田さんの都合の良い理由を考えて、ポジティブライフを過ごしてください」
こんな回答を出してくれる茜さんは女神以外に考えられない。崇拝の度合いを深めるオレであった。入院して3ヶ月が経過し、退院日にナースステーションへ茜さんを訪ねる。オレはあることもお願いするため、心臓が高鳴った。
「今までありがとうございました。お陰で無事に退院できます。これもあなたの指導の賜物でした。そこでお願いがあります。今後も、相談に乗ってくれませんか」
結婚の申し込みをするように胸がドキドキで、声が上ずってしまう。還暦を過ぎたのに情けないと思いつつ、茜さんは微笑んで
「わたしでよければ、喜んで相談に乗りますよ」
何て謙虚で優しい人なんだろう。敬愛度数、崇拝度数が最高値まで針が揺れる。彼女とメールアドレスを交換し、感謝を述べて別れた。
絶酒を目標にしている仲間3人が見送りに来てくれる。オレはタクシーに乗り、手を振って別れた。今生の別れかもしれないから。
退院した翌日が上永谷グループのミーティングであった。このとき、このグループのメンバーにしてもらう。入院中に何度も参加していていたので、歓迎してくれた。
すぐに茜さんへメール報告をする。ASや飲酒要求のことは彼女にメールを送る習慣となった。彼女も短いながら、必ず返信をくれる。こんな調子で週に1,2回のやり取りをしていた。
いつものように、グループミーティングの報告を送ると茜さんから返信が来る。
『寺田さん、そろそろ他のグループミーティングにも、参加されたらいかがでしょうか。武者修行も面白いですよ』
このアドバイスに、オレは一も二もなく納得する。彼女の言葉に対して反対の二文字はない。退院して1ヶ月は上永谷グループ、週2回のミーティングだけしか参加していなかった。
ソーバー1年未満は毎日のように行った方が飲酒要求を抑えることができる。オレはルリさんに他のグループのミーティングを紹介してほしいと言ったところ、彼女は
「うちの仲間が案内します。弘明寺はたかしさん、杉田はトミーにお願いね。わたしは金沢を案内しますよ。この他にも保土ヶ谷、東戸塚、上大岡があります。度胸試しに一人で行ってみれば、新しい発見が出来るかもしれません」
そう言って、ルリさんは悪戯っぽく笑った。アレ、この人は茜さんと同じ笑顔をするなとオレは気付く。後にわかったことだが、人生の修羅場を潜り抜け、茶目っ気のある特有の笑顔であった。オレはこの茶目っ気に弱いようだ。
仲間と一緒に弘明寺、杉田、金沢グループに行き、一人で保土ヶ谷、上大岡グループと歩く。そしてあることに気付いた。
茜さんに現状報告のメールを送る。週2回から4,5回に増やしたこと、ルリさんたちが案内してくれたと。彼らは茜さんと同じように、親身になってくれて親切である、と述べた。そして相談したいことがあるので、一度お会いしたいと結んだ。
返信はすぐに来て、今週の土曜日なら午前中に時間があるとのことだった。昼食を取るのは無理そうだが、退院して2ヶ月近く経過しており、実は茜さんの顔が見たい一心である。
さて何を話そうかと考えた。嘘は付きたくないし、かといって悩みなどは感じていない。確かに茜さんは好きだが、青春時代の熱い思いは薄くなっている。2ヶ月会えなくとも、我慢できるほどである。そうは言っても、男だから恋ごころは健在だ。
アッと、杉田グループではあまり歓迎されなかった。一緒に行ったトミーさんも、同じだった気がする。弘明寺と金沢は熱烈歓迎だったのに、なぜだろうか。初めて一人で行った保土ヶ谷も冷たかった。何でこんなに差があるのだろう。
グループの中でも、積極的な人や消極的な人がいる。性格だから仕方がないと思っていた。ASはマクドナルドみたいに、金太郎飴ではないということか。
つまりオレを歓迎しないのは、ルリさんみたいな世話係がいないせいかも。あるいはグループ全員がが気が付かない、またはできないのか。
このことを聞いてみるかな。ボリュームが薄いけど、文句言われたら顔が見たかったと正直に言おう。