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結婚して今日で1ヶ月。だからといって、何かあるわけでもなく。何も言われることもなく。
相変わらずの日々。フレッドは私と挨拶くらいしかしない。初デートは白昼夢だったのかもしれない、というくらい親しくなっていない。
「行ってきます」
「行ってらっしゃいませ」
玄関でバジルとオレガノの入った袋を渡し、手を振る。フレッドはこれからルーズベル子爵邸へ納品に行く。だからか、ウキウキして見える。
しかめっ面で挨拶後、私に背を向けた後にニヤけるとは早過ぎる。
「はあ……」と小さなため息が漏れた。夫が元恋人、もしかしたらまだ継続中かもしれない女性、と会うのを指を咥えて見送る妻ってどうなんだ? 惨めだ。
今日の午後はキャンドル作り体験講座に予約が入っている。それまでは通常業務。畑の見回り、雑草取り、害虫退治。
(あの嘘付き性悪娘に負けてたまるもんですか。フレッドさんは私の旦那様……)
途中で足を止めて、我に返る。
(旦那様だけど政略結婚で……邪魔者は私……)
なんだか胸が痛い。私の何が悪いと言うのだ。いつもこう。気になる相手は、私に興味が無い。
「落ち込んでたって歩み寄れる訳じゃ無いし……」
園に出て歩きながら、不貞腐れる。
「一応、今夜はご馳走を作ってみようかな……。グラタン……」
フレッドの好きな食べ物はグラタン、ホワイトシチュー、ラザニア。義母からそう聞いている。
水やりを開始しながら、脳内シミュレーション。腕を振るって好物を作り「今日で結婚して1ヶ月ですね」と笑いかければ、何かしら返事があるだろう。
人生前向きが大事、と自分に言い聞かせて働いた。仕事を片付け、買い出しに行き、料理をする。
(シルフィード、美味しいよとか言わないかなあ……)
ホワイトソースを作りながら、心の中で呟く。
「あらシルフィード。ため息なんてついてどうしたの?」
背後から声を掛けられて振り返る。母が気遣わしげな表情をしていた。
「えっ? いや、あの、エルフィールは元気かなって。そろそろ会いに行こうかな?」
「あらあ、まだ会ってなかったの? 悪いけど、近いうちに顔を見てきて。元気か心配なのよ」
「うん。心当たりの場所、探してみる」
少し反省。結婚したことで、妹のことをおざなりにしていた。
「ただいま帰りました」
玄関から聞こえてきた挨拶に、ドキリと心臓が跳ねる。リビングに顔を出すと、フレッドが帽子をボールハンガーに置くところだった。
(あれ、花……)
彼は花束を持っていた。淡いピンク色の薔薇だ。
「フレッド君、お帰りなさい。外回り、疲れたでしょう? あら、素敵ね。シルフィードに?」
「ええ。今日で入籍して1ヶ月だ、と思ったので」
「まあ。妬けるわね」
母は私とフレッドが不仲だと思っていないようだ。にこやかに笑い、私の肩を叩いてキッチンから去った。
フレッドと目が合う。先程まで母に見せていた笑顔は何処へやら。毎日私に見せる、不機嫌そうな仏頂面。
「シルフィード、これ。良かったら」
フレッドが近寄ってきて、花束を私に差し出した。この意味は、よく分からない。これも世間体?
「綺麗……」
綺麗なものは綺麗で、好きなものは好き。花はなんでも好きだが、薔薇は1番好き。
数を数える。6本だ。6本は「互いに尊敬し、愛し合いましょう」だと口元を綻ばせる。
きっと偶然だけど、このくらいしか楽しみを見つけられない。
「あの、今夜はグラタンです。お好きなんですよね? 私も今日で入籍して1ヶ月だ、と思ったので」
「えっ?」
フレッドが目を丸めた。しかめっ面以外だとホッとする。目が合うのも。
「俺の好み、知っていてくれていたんですか?」
「お義母様にお聞きして」
予想外のことに、フレッドはヘラッと笑った。その次は目を細め、もっとフニャッとした笑顔になる。指で鼻を掻き、ふふっと息を吐く。
「凄く嬉しい。ありがとう、シルフィード」
そう言うと、フレッドは私に近寄った。あっと思ったら腕の中。驚いたのと恥ずかしくて身を捩ったら、フレッドが「すみません」と謝った。
しかし、何も変化なし。心なしか腕の力が抜けたような気もするが、まだ腕の中だ。
「いえ。あの、驚いて……」
「シルフィード、これからも宜しく」
そう告げると、フレッドは私の頬にそっと唇を押し付けた。
想定外のことに、また身を捩る。
「ゆ、夕食の準備……」
私はフレッドの体を少し押し、腕の中から脱出した。ドキンドキン、ドキンドキンと鼓動が煩い。相手に聞こえていたら、どうしよう……。
キッチンに戻り、炒めようと思っていた玉ねぎの入ったフライパンを手に取る。反対側の手には花束を持ったまま。これ、飾らないと……。
「シルフィード」
「は、はい!」
動揺で振り返れない。フレッドという男性は、何を考えているのだろう?
「読書をしているので、夕食になったら呼んでもらえます?」
「はい」
足音が遠ざかっていく。私は深呼吸した。
(落ち着け心臓。落ち着け……)
フライパンを動かしながら、薔薇を眺める。
(玉ねぎを炒めるより、花瓶の準備……)
せっかくの花束を飾るのなら、自室が良い。きっと何度も嬉しい気持ちになれるだろう。
けれども、入籍1ヶ月のお祝いに買ってきてくれたのなら、一度ダイニングテーブルに飾っても良いかもしれない。お祝い感が出る。
玉ねぎを炒めるのを中断して、薔薇をダイニングテーブルに飾ることにした。
せっかくなので、お気に入りの自作のキャンドルも飾ってみた。両親と4人で食事だから、話のネタになるだろう。
そうして迎えた夕食時、予想通り父が薔薇のことを話題にした。
「フレッド君、薔薇にしたのか」
「はい。お義父さんのアドバイスのおかげです」
「良かったわね、シルフィード」
「いやあ、フレッド君は気配り上手だな」
いつもの通り、父とフレッドは仲良し。2人で楽しそうに談笑している。
(お義父さんの心証を良くしたくて買ったのかしら?)
デートも父がくれた招待券がキッカケだった。世間体が気になるから、義父が良い婿だと自慢して回ったら嬉しいのかもしれない。
食事をしながら、ぼんやりとそんな事を思った。
食後、フレッドは父と楽しそうにチェスを指した。いつもと似たような夜。
私はそれなら、といつもと同じように後片付けや寝る準備をして、薔薇を生けた花瓶を持って寝室へと向かった。
さあ寝よう。そう思った時のことである。コンコン、というノック音が部屋に響いた。
「シルフィード」
扉を開けようとしたら、フレッドの声がした。てっきり母だと思ったので驚く。
なんだろう?
「はい、フレッドさん」
扉を開くと赤黒い顔をしたフレッドが、非常に不機嫌、というような表情で俯いていた。
私の背は小さいので見上げると丁度目が合いそうなのに、彼の視線は私ではなく斜め下の床。
「シルフィード」
低くて小さな声。心がギシギシ、と嫌な音を立てる。
「はい」
「シルフィード」
フレッドと目が合う。涙目に見える。
「はい」
彼はもう一度「シルフィード」と私の名前を口にした。
「はい」
「あの、そろそろ……」
「そろそろ?」
目が合った。と思ったらフレッドは目を閉じた。
「そろそろ一緒に寝ても良いです?」
それは、あまりにも衝撃的な問いかけだった。