12
翌朝。リビングでフレッドと会うと、彼はいつものしかめっ面で「おはよう、シルフィード」と挨拶をしてきた。
(シルフィード……。昨日のこと、覚えてないとか? 随分酔っ払っていたものね)
頭を痛そうに叩いているフレッドを見て、そう結論付ける。
「フレッドさん、二日酔いに効くハーブティーを淹れますね。それであの、昨夜のことは覚えています? 少しお話ししたんですけど」
隣に並び、顔を覗き込む。するとフレッドは目を丸めて「えっ?」と声を出した。
「話ってもしかして、いや、痛くなかったし……」
フレッドは眉間の皺を更に深くした。
「そうです。あの、痛くなかった。あれはどういう意味です?」
「へっ? いやあの、もしかしてシルフィと呼んでって言いました?」
「ええ。あの、その、夫婦ですもの。友人達は皆そう呼ぶので、フレッドさんもどうかなって。その方が仲良くなれそうな気がしません?」
裏でシルフィと呼んでいると知っています、とは言い辛いのでこういう言葉選びにしてみた。
私はフレッドの気持ちを嬉しいと感じている。それなら、そのうち恋の芽が出るかもしれない。というより、私は既にフレッドに恋している気もする。
昨夜眠れず、フレッドの「愛しています」が脳内で何度も繰り返されていたので、そう思ってしまう。
「痛くなかったので夢かと……」
そろそろと手が伸びてきて、ドキリと胸が跳ねる。何かと思ったら、髪を少し取られた。
「心の準備が出来るまで、いつまでも待ちます。シルフィ、ありがとう」
また仏頂面かと思ったのに、フレッドはニコリと笑った。まるで今の季節の陽だまりみたいな笑顔。白い歯が眩しい。
フレッドが私の隣を通り過ぎる。彼はリビングのソファへと向かった。この後起きてきて、新聞を読む父の隣。昨日と同じ場所。けれども、今日は昨日とは違う朝だ。
(どうしよう……。笑ってくれて、すごく嬉しい……)
ドキドキが止まらなくて、私は逃げるようにキッチンへ足を進めた。既に起きていた母と目が合う。
「あらシルフィード、具合悪い? 顔が赤いわ」
「ちが、違うの。違うから大丈夫よお母さん」
顔の前で手を振り、否定する。キッチンの本棚に置いてある母が作ったノートを手に取り、ページをパラパラめくり、二日酔に効くハーブティーの配合を探す。
ハーブティーを淹れて運ぶと、フレッドは再び嬉しそうに微笑んでくれた。
何これ、心臓がもたない!
☆
それから数日、今までと似たような生活が続いた。フレッドは私をシルフィと呼ぶ以外、表情など特に変わらない。
何もないのは焦ったくて、もどかしい。夕食中、私はこう考えていた。
(またデート……したいな……)
指を咥えて眺めていても、気になる相手に誘ってもらえることなんて、今まではなかった。けれども、フレッドは違うはず。
私のことを好きなら、彼だってデートしたいはず。きっと誘ってくれるという気持ちと、自分からおねだりしてみたらどうか、という気持ちが交錯する。
「お義父さん、収穫祭の出店は何か考えていますか?」
「昨年のハーブチキンが好評だったので今回もと思っているが、シルフィードはキャンドルを売りたいだろう? 去年から熱心に取り組んでいるもんな」
来月に迫った春の収穫祭。頭からすっぽり抜けていた。
「両方いけると思うわ。キャンドルは並べて売るだけだもの」
「そうか。それならまたシルフィのハーブチキンを食べられるのか」
フレッドがへにゃっと笑った。
「また?」
母の問いかけに、フレッドは視線を彷徨わせた。
「いえあの。はい。昨年、買いました。美味しかったです」
私には中々見せない素敵な笑顔を母に向けるフレッドを眺める。
(正直に言うんだ……)
気になったので質問してみることにした。
「フレッドさん。うちの出店で購入してくれていたんですね」
「そんなに前からうちの園の下見をしていたのか。出店だと、娘も見られるしな。そうかそうか」
あっはっは、と父が隣の席に座るフレッドの肩を叩いた。
「実はその、もう少し前からです。以前からこの園の事が気になっていて」
家族で夕食、という場でなかったら尋ねていたかもしれない。いつからですか? と。
5年前から私のことを知っていたらしいけど、そこからどう政略結婚に持ち込もうと決意したのか、割と気になる。
長年私をデートに誘えなかったというのに、何とも大胆な話だ。
「いやあ、君が気に入ってくれて我が家は万々歳だ。立派な跡取りに、大きな後ろ盾。シルフィードとも仲良くしてくれているしな」
父が更にフレッドの肩を叩く。父の視界で、私達の関係は良好に映っているらしい。私達はまだまだこれからなのに、変な感じ。
「いえ、僕なんて。けど、懸命に努力します」
決意漲る、といわんばかりの精悍な表情。少し見惚れてしまった。
「シルフィード、どうした? 顔が赤いが熱でもあるか?」
「えっ? いえお父さん。その、具合なんて悪くないわ」
父が私とフレッドを見比べる。そうして、微笑ましそうな表情を浮かべた。バレた。私の気持ちの変化、絶対に父にバレた。ということは……と向かい側の席に座るフレッドを見上げる。
彼は渋い顔で腕を組み、俯いていた。その意味は、夕食後に判明。
「シルフィ、大丈夫だなんて無理しなくて良い。具合が悪い時は休むべきだ。熱に効く薬草を煎じて持っていくよ」
手を引かれ、二階に続く階段を登り始める。
(やっぱり優しい……)
手を繋ぎながら、背中を見つめながら、ボンヤリしてしまう。
「フレッドさん」
「ん? 歩くの、辛いです?」
階段の途中で振り返ったフレッドが、私を気遣わしげに見下ろす。何か言う前に、フレッドは私の体を抱き上げた。
お姫様抱っこなんて生まれて初めてで、硬直してしまう。
「だい、大丈夫です! 熱なんてないですし、具合も良いです!」
思わず、叫んでいた。しかし、と思ってフレッドの首に手を回す。ギュッと腕に力を入れる。
「心配は嬉しいです。せっかくなので、上までお願いします」
心底恥ずかしいけれど、そうして欲しかったのでねだってみた。心配が、気遣いが本当に嬉しい。
二階に到着すると、廊下に下ろされると思ったのに、そうはならなかった。フレッドは私の寝室の扉を開け、ベッドに私を下ろした。目と目が合う。顔が熱い。熱くてならない。フレッドはいつもの仏頂面だ。
「遠慮しなくて良いですよ」
布団をかけられ、おでこに手を当てられる。
「確かに熱は高くなさそうだけど、熱い気がする」
それは、羞恥心のせいです。とは言えず。この後フレッドは部屋から出て行って、しばらくして戻ってきた。濡れたタオルと、薬を持って。
彼はベッドの端に腰掛けた。薬を飲むように勧められる。
「本当に具合は良いです。熱いのは、赤いのは、た、単に、単にその照れで。色々恥ずかしくて。その、またデート、行けますか?」
私はしどろもどろ、何とか事情を説明した。ついでなのか、余計な一言まで飛び出た。なんてこと。
「えっ? デート?」
フレッドは目玉が飛び出るんじゃないかってくらい、目を大きく見開いた。
「収穫祭……出店を出さない日に、一緒に回りませんか……?」
心臓が口から飛び出しそうとは、こういう状態だと知る。これは、私の人生で初めてのデートの誘いだ。答えが良い返事であると分かっていても、手に汗握り、緊張激しい。
「も、もち、もちろん」
そう告げるとフレッドは立ち上がった。そして、そのまま閉まっている扉に激突。
「っ痛」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫です」
フレッドがそそくさと部屋から出ていく。私はぶつけた頭が大丈夫なのか心配で、布団から出て後を追った。扉を開けたところで固まる。
「っしゃあ!」
フレッドは両手の拳を握り、天井へ上げていた。私は気恥ずかしくて扉を閉めた。扉にもたれかかり、両手を胸の前で握る。
ドキドキ、ドキドキ、私の心臓の鼓動は中々静かにならなかった。




