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翌日、私は以前、エルフィールと恋人の画家と遭遇した地区へとやってきた。その時にアトリエだ、と教わった場所を訪ねた。
アトリエには画家のジャックがいて、恐縮されながら、2人の新居へと案内された。
「お姉ちゃん、久しぶり。元気そうね」
青い屋根の小さな集合住宅地の一室が、エルフィールとジャックの新居だった。
ワンルームの部屋で、ベッド、テーブル、椅子2脚にタンスが1つ。食器棚らしき棚が1つ。それだけしかない寂しい部屋。
ジャックが去り、エルフィールと2人きり。
「あなたも元気そうねエルフィール」
「すこぶる元気よ」
それは良かった、と持ってきたアップルパイを渡す。
「お姉ちゃんのアップルパイ大好き。ありがとう」
椅子に座るように促され、素直に席につく。
「食べ物に困ったりしてない?」
「してませーん。私、美容師として働いているの。前から修行していたんだけど、知ってた?」
知らなかったので、首を横に振る。
「ふふふ。着々と準備を進めていたのよ」
「準備っていうのは、お父さんやお母さんに挨拶をしたり……」
「したじゃない。それなのに、勝手に婚約なんてさせるから頭にきちゃって」
エルフィールはアップルパイを可愛い小皿に乗せてテーブルに運んでくれた。フォークも丸みを帯びていて可愛らしいデザイン。
「あーあ、私もお姉ちゃんの結婚式に出たかったな」
フォークで刺したアップルパイを頬張りながら、エルフィールがぼやく。
「私も出て欲しかったわ」
「ねえ、フレッドさんとは仲良くしている?」
急な問いかけに、私は食べようとしたアップルパイをフォークから落としてしまった。
「えっ?」
昨日の朝の出来事が蘇り、動揺してしまう。
「お姉ちゃん、顔真っ赤」
「へっ?」
自分の頬を両手で包む。確かに熱い。
「実はその、それで相談というか……」
私はゴニョゴニョと昨日の朝の事を話した。エルフィールは始終ニヤニヤしている。
「お姉ちゃんさ、嬉しかった?」
「そ、そんなのよく分からないわよ。苦手と思われているって思っていたのに、その、それで」
「愛しのシルフィで?」
んふふふふ、とエルフィールは楽しげ。私は未だに混乱中。
「そうだ、駆け落ちすると良い。その方が良い。ってフレッドさんがこの家を紹介してくれたの。知り合いの空き家らしく、格安よ」
「えっ? どういう意味?」
「私に恋人がいる事を調べてきて、婚約破棄してくれって頼んできたの。理由、分かる?」
婚約破棄なんて世間体が悪い、と不機嫌だったフレッドを思い出す。どういうこと?
私が首を傾げると、エルフィールは続けた。
「元々、お姉ちゃんにきたお見合い話よ。お父さんが私を推薦して婚約話が進んじゃったけど。この意味分かる? 私は嫌で、お姉ちゃんが良かったってこと」
「ええっ⁈」
そんなはずない。そのような話、聞いて……今聞いた。
「まさか」
「でもほら、愛しのシルフィなんて呼ばれたんでしょ?」
クスクス、とエルフィールが笑う。
「どうしようエルフィール。そ、そんな。私、そんな……」
フレッドはどうやら私を妻にと望んで結婚した。好かれている。その事実には戸惑いしかない。
親しくなりたいな、とは思っていたが、いざ相手もそうだと提示されると動揺。
「こ、恋人にするとか、そんなことを考える前に、もう結婚しているのよ。逃げられないわ」
「お姉ちゃん、逃げたいの?」
エルフィールが目を丸める。
「見た目格好良いし、実家はお金持ち。それで、あの人親切よ。毎週、ここに顔を出して不自由ないか? って聞いてくれるの。差し入れ持って」
「そうなんだ。知らなかった」
「逃げるなら手伝うけど……」
「逃げ、逃げたいとは思ってないけど、思っているかも。だって、どう過ごしたら良いの?」
色々と合点がいった。デートで手を繋がれた意味。頬にキスされた意味。そろそろ一緒に寝ようと言われた意味。一先ず添い寝、の一先ずの意味。
フレッドは徐々に私との距離を詰めている。
「どうってもう一緒に暮らせてるじゃない。それにデートしたんでしょう? 嫌だったの?」
「まさか。楽しかったわ。こう、家とは違って色々お喋り出来て」
「嫌悪が無いならきっと大丈夫。嫌なら嫌! ってハッキリ言えば良いのよ。向こうは外堀から埋めたり、お姉ちゃんの機嫌を窺ったり、必死みたいだし」
「必死?」
「ジャックに延々と相談していたもの。デートや1ヶ月記念日のこととか」
それは知らなかった事実。
「薔薇……」
「あー! やっぱり薔薇をもらったんだ! 私がお姉ちゃんが一番好きな花は薔薇だって教えたんだよ」
こくん、と頷く。色々な事実に言葉が出てこない。
6本の薔薇には意味があったのかもしれない。偶然でも嬉しいな、なんて思っていたが「互いに尊敬し、愛し合いましょう」という意味をわざわざ込めて贈られたのかも、と思うと恥ずかしくてならない。
そうなると、ロマンチストだ。フレッドはロマンチスト。嫌? と考えてみて、嫌では無いと自分に返事をする。
それなら、私はフレッドが好きなのだろうか?
それが分からないまま、私は帰宅した。




