無駄の時間《Waste of Time》
生物学、行動学、生態学、どの学問においても動物の構造に一つとして《無駄》が無いことは至極明瞭だ。これは、神を主とする宗教においても同じことがいえる。それに対し神の作り出した同じ生物であるところの人間は《無駄》を愉しむ生き物とまで形容されるほど無駄に価値を見出だしてきた。《無駄》に《無駄》な歴史を紡いできた。学問しかり、芸術しかり、宗教しかり、文明、そのものしかり。はてさてこれは、大いなる矛盾だ。巨大な不合理で極大な不一致で壮大な不整合だ。人間を特別とも例外とも取れば、《矛盾解決》は容易だが、そんな人間本位な考え方はあまりに荒唐無稽、馬鹿馬鹿しくて馬鹿臭い。そんな恣意と主観によって破綻した破茶滅茶な論理を証明するよりむしろ人間は生物じゃないと捉える方が最短で直線で自然な合理だ。つまり人間は《無駄》を愉しむことで他と一線を画しているわけではなく、《無駄》に生きることで他から一線を引かれているのだ。特別でなく例外でなく、仲間はずれで、蚊帳の外。地球外生命体、とまでは言わないにしても、自然外生命体くらいなら的を外してはいないだろう。自然からの独立ではなく、孤立。単独ではなく、孤独。故に、人間は《無駄》を愉しむ生き物でなく、《無駄》を強いられた生体。《無駄》に生きることを定められた群体。神に宿命づけられた構造体。世界の異端ではなく末端。合理の終点ではなく汚点。自然の勝利者ではなく第三者。なぁ、今話してるこの時間も俺らは、《無駄》を《無駄》に過ごすことを強制されているのさ。




