No.8
そこは広場。そこそこの広さがあって、百人程度なら余裕で行き交うことができそうな場所。
私の見ているものは、多分、過去にキリィが見たもの。彼が見て感じた、実際にあったもの。
目の前に、男性が立っていた。両手に持った令状のような物に視線を向けている
『汝の罪は、酒と偽った飲み物で住人を魅惑し、悪魔が付け入る隙を与えたこと。人心を惑わす汝は悪魔に等しい。最近この町に蔓延る奇行、奇病は、悪魔キリーマン・ダリィの仕掛けた、悪辣なる策略によるものである。よって、我々は悪魔である汝を断罪し、この世から追放しなければならない!』
頑固そうで、話の通じなそうな壮年の男性。
そんな男が、長ったらしく正気を疑う文言を、声高に叫んでいる。
きっとこれは、キリィに向けた宣告ではなくて、周囲の住人に向けたもの。住人の意思を誘導するための言葉。
それは魔術を為すための呪文に等しいと感じる。ただの人を悪魔へと変えてしまうために、歪めた思考を集合させる呪いの言葉。
広場で誰かが声をあげた。『彼は悪魔だ』と。
集まった住人は、誰が発した言葉か確認するようにキョロキョロと視線を動かしていた。だけど、私にはなんとなくわかる。今の声はサクラ。仕掛人の発した言葉であることが。
そこで、更に声が響く。『彼のせいで、私の大切な人は死んだ』と。
声が聞こえる。『許されない罪だ』と。
声が聞こえる。『彼の行為は悪魔の所業である』と。
声が聞こえる。『悪魔を断罪しろ』と。
更に声があがる。更に声が響く。更に声が聞こえる。
いつの間にか、キリィは悪魔となってしまっていた。別に、見た目が変化したわけじゃないけれど。
少なくとも、叫び嘆く群衆の中では。彼は既に人ではなく、歴とした悪魔に変貌を遂げている。
いったい、どちらが悪魔なのだろう。私は、投げ掛けられる言葉に耳を傾けながら考える。
証拠もないのに、先導しようとする声に続いて叫んで。大して考えもせずに、皆は正しいのだと同調して。
罪の無い者を傷つける彼等は、いったい何なのだろう。糾弾のために鳴き声をあげるあれらは、いったい。
『──これは、後で知ったことなんだがな。俺の町で麻薬の売買をしていたのは、俺を断罪しに来た役人自身だった。知った時には驚いたぜ。笑いが込み上げてきて大変だった』
そう言う彼の表情には、笑みなんてものは浮かんでいない。
悲しいのか、悔しいのか、怒っているのか。それとも、抱ける全ての負の感情が彼の中にあるのか。私にはわからない。
憎悪や憤怒に、彼は今も身を焦がしているのかもしれない。悲哀や苦痛に、涙を流しているのかもしれない。
だけど、私はキリィじゃないから。共感はおろか、理解することさえできはしない。
「あなたは、何を思っているの? 彼等が恨めしい?」
『いや、何も』
「何もって……。あなたは怒りを抱いていないの? あんなことをされたというのに」
『まあ、腹立たしいのは腹立たしいさ。こういうことがあった。それ自体は、今でも傷として残ってる。でも、コイツらに対して何か思うことはもう無いな』
よくわからない。傷を受けた事件を腹立たしいと思うなら、傷を与えた者達にも怒りが向くはず。
「どうして、何も思わないの」
とても不思議で、とても好奇心がくすぐられたから。捻った蛇口から水が出るように、口から問いかけがこぼれて、そして答えを引き出した。
『だって、全員殺したから』
感情の感じられない声色。
普段は聞かないような、異常な事柄の報告。
これを聞いた人は、警戒するなり恐怖するなりするのかしら。きっと、普通ならそうなんでしょう。
それは、彼の言葉が嘘だろうと真実だろうと、抱かれるべき感情。普通ならそうだと、頭ではわかっているのに……。
「あなたは凄いわね。嫌いじゃないわ、あなたみたいな人」
今こうやって言葉を吐き出した私は、いったいどんな表情をしてしまっているのでしょう。
ああ、不思議。不可解だわ。不謹慎だとわかっている。それなのに……。
私は、笑みを浮かべてしまっているのね。
*
朝食として出された焼きたてのパンに、私はお気に入りのジャムを塗って口に運ぶ。
食堂はいつも静かだから、サクサクという音が頭の中に響く。
今日はお父様もいない。食事をしているのは私一人。何だか最近、お父様は忙しいみたいで、私が入室する際に入れ違いになってしまった。
とはいっても、部屋に一人な訳ではなくて。隣には熱い視線を向けてくる彼女がいる。
「……美鈴さん。食事中にそんなに見つめないでくれないかしら。恥ずかしいわ」
「問題ありません。アイリ様の美しさはいつ何時たりとも歪むことはありませんゆえ」
「恥ずかしいと言ったのだけれど」
「恥ずかしがるアイリ様も大変可愛らしいですよ!」
──ダメね。話が通じないわ……。
若干力の入った主張をされた私はため息をこぼした。
視線だけを美鈴さんに向けてみると、そこには曇りの無い笑顔がある。本当にこの人は、私に対して強い想いを抱いてくれているらしい。
それ自体は特別問題のあることじゃないけれど、彼女の好意は度が過ぎているというか……。少し気疲れしてしまうというか……。
もはや彼女のそれは信仰に近い何かのように感じてしまう。信仰を集める存在は大変そうだわ、なんてことを考えてしまうくらい。
「美鈴さん。お父様が今何をしているのか知っているかしら?」
「伊助様がですか?」
「ええ。最近、少し忙しそうにしているでしょう。気になってしまって」
「……いえ。私は何も聞かされてはおりません。ただ、アイリ様のためになさっている仕事とだけ」
「私のため……?」
いったい、どういうことなのかしら。質問をしたのに、疑問が増えてしまった。
直接お父様に聞くしかないのかしらね……。あまりお邪魔になるようなことはしたくないけれど。
「アイリ様にお話になっていないということは、知る必要の無いことでしょう。ご心配なさることはないかと」
「……そう」
釘を刺されたのかしら。それとも、それは考えすぎ……?
どちらにしろ、余計気になってしまう。普段の仕事に詳しくない分、余計に。
本当に知る必要が無いからなのか。私に知られてはいけないのか。
どちみち、私一人で考えて答えの出る問題ではないわね。
「そうだ。もう一つ他愛の無い話をしましょう」
「喜んで!」
「本当に嬉しそうね。いえ、良いのだけど。──そう、深い意味は無いのよ。ちょっとした、素朴な疑問。美鈴さんは、悪魔ってどんな存在だと思う?」
「はあ。悪魔、ですか?」
少し驚いた表情を、美鈴さんは見せる。
それはそうよ。あまりにも、突拍子のない質問だもの。驚くのは普通。少し申し訳ないと思ってしまう。
けれど、昨夜キリィから聞いたこと。彼が悪魔になった時の話を聞いて、目にして、疑問に感じたから。聞いてみたくなってしまった。
「そうですね。悪魔とは、アイリ様とは真反対の存在ですかね」
「私とは真反対……?」
「ええ! 私にとっては、アイリ様はまさに天使のようなお方ですので!」
「えっと……」
多分、今の私は顔をひきつらせているわ……。
「でも、そうですね。真面目に答えさせていただくとしたら、悪魔とは危険な存在のこと。種族や見た目ではなく、本質の話だと思うのです。もちろん、危険なもの全てが悪魔というわけでもありませんが」
「本質の話……。根っからの悪が悪魔、ということ?」
「そうですね。本質的に、悪であるもの。それが私の答えです」
「難しい話ね。そもそも、質問自体が難しいものだから仕方ないかもしれないけど」
つまり、彼女の答えに当てはめるなら、キリィは悪魔ではないということになるのかしら。
いえ、復讐のためとはいえ、多くの人間を殺められる者。それを何とも思わずに成し遂げた者は、少なくとも善ではない。そう考えると、悪魔に含まれるのかも……。
……少し、こんがらがってきたかも。この程度にしておきましょ。
「ところで、突然なぜこのようなことを?」
「大した意味は無いの。最初に言ったとおり」
「そうですか」
「ちなみに聞くけど。私は悪魔だと思う? 私は危険な存在かしら」
「それはあなたの、これからの生きざま次第ではないでしょうか。魔術師とは、力を持つ分、一般人より危険な存在です。であるからこそ、道を踏み外さないように注意する。それが必要なのかと」
……正直に言って、驚いてしまった。
美鈴さんには失礼かもしれないけど、いつものように、私を肯定してくる答えを述べる。質問しておきながら、そんな風にどこかで考えていたみたい。
ちょっとだけ、恥ずかしい気がするけれど……。
でも、大事なことを聞き出せた気がする。
これからの私次第で変わる。それはそうだ。評価をするのは、私ではなく他の皆。世間一般なのだから。
「もちろん、私はあなたがどのような人物であっても仕え続けますよ。例え、万が一にもあなたが、悪魔として糾弾されるような危険な存在であったとしても」
「ありがとう。心強いわ。だけど」
誇らしげに胸を張る美鈴さんを見て、私は微笑みを返す。
私が外に出られないのは、私自身が危険な存在だからではないか。そんな風に思って、少し不安になってしまっていたけれど。
「あなたに胸を張ってもらえるような、立派な人にならないとね」
私は最後にそう口にして、残っていたパンを口の中へと放り込んだ。