No.7
ベッドの近く。枕の隣にあるランプに明かりを灯して。
戻ってきた部屋の中。薄暗いその中で、私は改めて彼と対面する。
キリーマン・ダリィ。愛称はキリィ。私が、そう決めてそう呼んだ。
彼は悪魔であり、本人の言うことが正しいのなら、元々は私と同じ人の子でもある。
悪魔も、いくつか分類分けされているのかしら。元から悪魔であるか、否か。
もしそうなのだとしたら、一体目に呼んだ方は前者だったと思う。確証は無いけれど、纏っている雰囲気が違う気がするもの。
見た目的にも、明らかに人ではなかったし。まあ、悪魔になる過程で姿も大きく変わってしまうのなら、外見なんて全くあてにはならないわけだけれど。
実際に、目の前に浮かんでいる彼の頭には、牛や羊にあるような角が生えている。
『……ん? 角が気になるのか?』
「それは、悪魔になる際に勝手に生えたものなの?」
『ああ、これな~』
「えっ……」
私は、目を丸くしてしまう。
だって、角が取れたのだから。彼が被っていた帽子を脱ぐと、その帽子にくっついたまま、簡単に。
開いた口が塞がらなかった。偽物だったなんて、思いもしていなかったから。
「ただの飾りだったのね……わからなかったわ」
『いやあ。悪魔なのに角の一本も無いんじゃあ、威厳とか無いかと思ってな』
「確かに、帽子を脱いだあなたは、風変わりな海外の紳士といった感じだけれど」
『だろぉ? ほれ、被ってみるか?』
放られた帽子を受け取って、私は思う。
──意外に重いわ、これ。
「こんなもの被ったら、頭が重くてフラフラしてしまうわ」
『角自体は本物らしいからな。どういう仕組みで帽子にくっついているのかは知らんが』
「まあ、それは良いのよ。私が知りたいのはあなた自身で、あなたの帽子のことではないわ」
『へいへい。んじゃ、何から話したもんかね──ちょっと座らせてもらうぜ』
彼はそう言うと、黒いもやでしかなかった下半身に足を形作った。
そして、そのまま彼は椅子を手で引いて、ゆっくりと腰掛る。
その振る舞いからして、育ちは悪くなさそうで。もしかしたら、本当に紳士だったのかしら。だなんて、そんなことも考えてしまう。
『実は言うと、記憶は曖昧になってきててね。印象に残ってることしか話せないんだが』
「忘れっぽいの?」
『いやいや、そうじゃない。なにしろ、悪魔になってから百年二百年と経ってるからな。忘れても仕方ないだろ』
「あら」
それは……とても想像できはしない、途方もない年月。とても、とても長くて。いえ、長すぎて、私にはわからない。
私が経験してきたのは、生まれてから今までの時間だけ。十年と、あと数年数日を足した程度。
それだけの時間でも私には、決して短かったとは思えない。
だというのに、その十倍以上の年月を生きていると言われると……。
「よくわからないわね。そこまで長く生きていると言われても」
『その方が良い。寿命以上の人生なんて、ろくなもんじゃないからな。今は悪魔で、人の生を謳歌してるわけじゃないが』
「あなたはどうして悪魔になったの? 聞いてはいけないかしら」
『いや。大したことじゃないからな。話すのは構わない。だが』
「だが?」
条件でも出してくるのか、と少し警戒したけれど。その心配は杞憂となる。
『凄くくだらなくて、つまらない話だぜ。酒のツマミにもならん』
「お酒は飲めないし。私は笑い話を聞きたいんじゃないのよ。くだらないとかつまらないとか、そんなの気にしないわ」
『あ~、そうかい』
いざ話すとなると気恥ずかしいのか、それとも思い出すのも辛いことなのか。彼は机に肘を置いて頬杖をついた。
視線はどこに向けられているのか。虚空を見つめている、というのが正しい感じで。少なくとも、私の方へは向けられていない。
一瞬、間が空いた。部屋は無音となり、沈黙に包まれる。
時計の小さな針の音に意識が向いてしまいそうになるなか、彼は意を決したのかゆっくりと口を開いた。
『俺はな、欧州の生まれなんだ。故郷どころか、国の名前すら今じゃ思い出せない。生前の記憶で覚えているのは、自分の名前と、俺が営んでいた酒場のことくらいだ』
「あら。バーのマスターだったのね、あなた」
『いや、そんなオシャレな感じじゃなかったな。店に来るのは大抵見知った連中で、俺はそいつらと毎晩のようにバカ笑いをしていた。酒を飲んで、世間話をして、愚痴をこぼして、性別なんて関係なく歌って踊って騒いでいた』
「なんだか、楽しそうね」
『ああ。楽しかったさ』
私の経験したことのない光景が、頭の中に広がる。
オレンジ色の照明に照らされた部屋。
ワイン等のお酒を注がれたグラス。
それらに口をつけ、赤く頬を染める人々。
笑っていたり、怒っていたり、涙を流していたり。
様々な表情を作り、歌って踊って。きっと、近所迷惑になってしまうけれど、幸せそうに思える風景。
それは妄想。キリィから聞いた情報から思い浮かべたもの。
私が経験したことのない、私の知らない幸せの形。
なんだか、空腹になった時のような、不思議な不快感のようなものが去来する。
ああ、きっと。これは、きっとそう。そういう気持ちなんでしょう。
初めて感じる気持ち。切なくて悲しくて、だけれど、それだけじゃない。よくわからないものが渦巻いているけれど、この気持ちの名前はわかる気がする。
それは、羨望。羨ましくて、望んでいるんだわ、私は。
他愛のない日常の中にある、見落としそうな幸せの形を。
『あ……? えっ……おま、なんで泣いてるんだ!?』
「泣いている……? ああ、そう。私は、涙を流しているのね。久しぶりだわ。涙がこぼれるだなんて」
『……お嬢ちゃんは、どんな生活をしてきたんだよ』
「話すのはやぶさかではないのだけれどね。今は私の番じゃなくて、あなたの番よ、キリィ」
慌てふためくことなんてあるのね。
そんなことを考えながら、私は涙をふき、続きを促す。
あれだけのことで涙を流すだなんて、私にとっても予想外だった。でも、そのおかげで、自分の気持ちに少し気づけたのかもしれない。
私は好奇心だけで世界の外を見たいのではなく、少なからず現状に不満を抱いていたことも関係していたのだと。
『え~、まあ。そうだな。続きか。続きな……』
「思い出せないの?」
『いや、覚えてるさ。どんな大切なことよりも、根深く記憶に残ってることがある。恥ずかしながら、俺の日常ってのはさっき話した通りでね。それ以外のことはあまり覚えてないんだが、これだけは忘れられない』
「それは、あなたが悪魔になった原因?」
『そうだ。人間の恐ろしさと愚かしさを経験した出来事だったね、あれは』
心なしか、彼の声が冷たいものになった気がする。
きっと、強い怒りが彼の中にあるのでしょう。空気がピリピリとしているのを感じる。
『ある日、見慣れない連中がやって来たんだ。警察だったか役人だったか、とにかく、お偉いさんが来たのさ。そして奴等は俺に言った。"貴様には裁かれるべき罪がある"ってな』
「罪? 犯罪に手を染めていたの?」
『まさか。多少人に迷惑かけてしまったことはあるが、法を破るようなことをしたことはない。だが、そんなの関係なかった。奴等の中では、俺に罪があるのは確定事項だったからな』
「罪の無い者の断罪だなんて、その方々はいったい何でそんなことを?」
『当時、俺の町では麻薬が出回っていたみたいでな。奇行を繰り返したり、幻聴や幻覚に怯える奴が数人出てきていたんだ。最悪の場合は死に至る。──俺の知り合いも何人か犠牲になった』
彼の心に反応しているのか、部屋の中を黒いモヤが漂い始める。この様子だと、もう少ししたら部屋中を埋め尽くしてしまいそう。
有害か否かはわからないけれど、あまり良い気はしない。だから、キリィに声をかけようとして、口が止まった。
何故だか、口を出せる雰囲気じゃない気がして、言葉が出せなくなってしまう。
『麻薬の存在自体は、多くの者が知っている時代だったと思う。だが、目の前の人間が変貌したのは、悪魔に取り憑かれたからだ。そう言われてしまえば信じる者も大勢いた。そんな時代だった』
──役人は、罪に覚えがないと言った俺に、面白いことをのたまったよ。
そう言って微笑む彼が指を鳴らす。すると、たちまちに黒いモヤが増えていき、私に見たことのない景色を見せつける。
幻術の類いだと、すぐに気づいた。けど、抵抗はしない。
私に危害を与えるものではないと、直感していたから。
だから、私はその幻術を受け入れて、彼の見せるものを受け入れた。