No.5
太陽が隠れ、暗くなる世界。時々、雲の合間から顔を出す月が、私の知る世界を照らしている。
夜。とても静かになる夜。屋敷の使用人も多くが眠る。
耳をすませば聞こえてくる。風に揺れる木々の葉っぱの音。部屋の掛け時計からは、針の音が。最近とても涼しくなってきたから、鈴虫の奏でる音色も響いてくる。
夜は嫌いじゃない。とても心が落ち着く。
ホラー特集なんかでも見てしまえば、怖く感じてしまうこともあるけれど。目の前に実在しないものに対する恐怖なんて、すぐに忘れて消え去ってしまう。
だって、夜は私達の時間。若月家の者にとって、欠けた月の夜は最高の舞台。
「夜になったわね」
窓を開けて夜風を受けながら、私は背後にいる悪魔に話しかけた。
明かりを消した部屋の中で、彼はルビーのような瞳をこちらに向けている。何を考えているのかは、相変わらずわからない。
でも、わからなくても良いか、とも思う。何を考えようと、最終的に私が彼に勝れば良いだけのことなんだから。
悪魔なんだから、どこかのタイミングで私の魂を奪いに来るはず。私がするべきなのは、ただ阻止するだけ。
『──思ったんだけどよ』
「何かしら」
『そこから抜け出せるんじゃないのか?』
彼が指さしたのは、私のいる場所。つまり、窓から出ていけば良いのでは? と聞いているのだろう。
それは当然の答えだと、私は思う。私も最初は、窓から外に出ることを考えたから。
だけど、できなかった。
「窓からは無理よ。ほら、あれが見える?」
『ん~?』
あまり目が良くないのかしら。それとも、夜目がきかないのか。彼は私の指先のものを見つけようと、目を細めて探し出す。
悪魔とはそういうものなのか。それとも、違うのか……。物語に語られる悪魔には様々なものがいるのだから、視力に差があったとしても不思議ではないかも。
『ああ、あれか? カラスか、さしてるのは』
「そうよ。あれは使い魔でね、夜間はずっとこの窓を見張ってるの。数羽がかりでね」
『つまり、ここからお前が出ると?』
「きっと、術者が飛んでくるわね」
というか、実際飛んできた。
魔術で機動力を最大限強化すれば、振り切って逃げられると思ったから、試したことがある。
結果、美鈴さんに追いつかれ、お姫様抱っこであっという間にベッドに寝かされることになった。
思い出すと、今でも身震いしてしまう。必死に追跡してきた美鈴さんの表情は、とても恐ろしく見えたから。
あれはもう、私的怖いものランキングの二位を獲得する。
『……なんか顔色悪くないか?』
「いえ。大丈夫よ」
『で、どうするんだ。外には使い魔がいるのにどうやって出る。穴でも掘るか? 空でも飛ぶのか』
「玄関から出るのよ」
彼は、何言ってるんだコイツ、とでも思っていそうな顔をする。
まあ、確かに、理由を言わなければ意味がわからないかもしれない。
「使い魔達はね、玄関付近だけは見張っていないの。お父様は、私にゴールを設定しているのよ」
『へえ、そうかい。変な連中だな、お前らは』
「魔術師なんて存在が普通なわけないでしょう?」
一瞬、彼はキョトンとしたような顔をする。
しかし、私の返事が気に入ったのか、やがて口元を手で隠しながら笑い始めた。
そんなに笑えることを言ったつもりはないのに、本当にこの悪魔はよくわからない。
「さあ、雑談はこれくらいにして、そろそろ出発しましょうか。──キリィ」
『おう、そうだな……あ? お前今、なんて呼んだ?』
「キリィよ」
わざとらしく耳に手を当てて、もう一度聞いてくる。……何故か、『ワンモアプリーズ』と、英語で。
私はため息をこぼしつつ、耳元に顔を近づける。
「キリィ。キリィって呼んだのよ」
『んっだよ、その名前は』
「不満そうね。名前を知られることは大して嫌がりもしなかったのに」
今更どう呼ばれようと関係ないだろうと思ったけれど、そうではないのかしら。
『どうせ言っても無駄なんだろうけど、できるなら止めてくれないかね。むず痒くなる』
「どうして? 可愛いじゃない。赤リボンの白猫みたいで。もしくは、正義の味方を目指す薄幸な傭兵かしら」
『何の話か知らんが止めてくれ。というか、可愛い呼び名を喜ぶように見えるか?』
「そう……」
確かに、本人が嫌がっている呼び名で呼ぶというのは、良くないことかもしれない。
でもまあ、悪魔である彼に気を使う気には全くなれないのだけれど。
「それじゃあ、行きましょうか。キリィ」
『おい』
「だって、少しだけ呼びづらいんだもの。そんなに不快なものなの?」
『あ~……もう、良いよ、それで』
「優しくて話の通じる相手は好きよ」
扉のドアノブに手をかけていた私は、振り向き顔を見上げて微笑みかける。
彼は、そんな私をジッと見つめ返してきた。表情は、ほとんど真顔のようなもの。本当にわかりづらい存在だと思う。
前の悪魔は、もっとわかりやすい相手だった。
張り付いたような笑顔。隙に付け入ろうと窺う卑しい雰囲気。
私を騙し、裏をつき、手玉にとろうとしているのが丸わかりだった。なのに、まるで彼は人間みたい。
そんなはずはない、とは思う。創作の世界以外の、どこにいるというのだろうか。
角を生やし、黒いモヤに身を包む人間が。覗き込めば引きづりこまれてしまう、夜の水底のように暗い魔力を持つ人間が。どこにいるというのだろう。
例えいたとしても……。
きっとそれは、もはや人間と呼べるものではない。
*
夜になれば、屋敷内の明かりは必要最低限のものとなる。
仕事をしている人の一室、といった場所は例外だけれど、廊下なんかは真っ暗。窓があるから、何も見えないほどではないけれど、光源は所々に灯されたロウソクのみ。
空気は冷ややかというか、ピリピリしているというか。簡単に言えば、異質な感じ。
きっと、鈍感な一般人でも感じ取れると思う。『自分はここにいてはいけない』、と。
夜の若月家とはそういう所。既に屋敷の中は、魔術師の世界へと姿を変えている。
『昼間とは雰囲気がだいぶ違うな』
「あら、そう感じる?」
『魔術師以外がこんな場所に入ったら、卒倒するか、良くて息苦しさを感じて体調不良ってところかね』
「なかなか良い感覚をしているみたいね」
もっとも、わからなければ話にならないけれど。力のある存在をちゃんと呼び出せて良かったと、改めて思う。
『子供なのに、よくもまあ、平気でいられるなお嬢様は。悪魔を呼び出して良いように使おうって考えるだけはある』
「褒めているの?」
『憐れんでるの方が正しいかねぇ』
「憐れ? どうして?」
『どうしてだろうな』
「むぅ……」
はぐらかされてしまった。何だか嫌な感じ。
とはいえ、無理に聞き出すべきこととも思えないから、不満をアピールするだけ。すぐに切り替えて、廊下の先、進行方向に意識を向ける。
『──で、俺の仕事は?』
「魔力の感知。敵意の認知。罠の探知。直感でも推測でも、役に立つなら歓迎するわ。私だけだと心細いの」
『そいつは笑えないな。お嬢様が心細くなるような魔境とは』
「酷いわ。私はか弱い乙女なのよ? 心細いと感じることくらいあるわ」
『か弱いって言葉の意味を、後で辞書でも引いて調べるんだな』
何を言っているのかわからないから、気にしないことにしましょう。
それにしても、辞書で調べろだなんて、お父様みたいなことを言うのね。
それはともかくとして……。
「キリィ。その鎧の前に立ってみて?」
『ん? おう。──何だコイツは。西洋風の屋敷だからって、何で騎士の鎧が……』
私の指示に従って、飾られている鎧の前にキリィが立つ。
彼はその鎧を不審に思ったのかブツブツと呟きだした。だけれど、途中で口の動きが止まる。
何かに気づいたのか。彼は、『おい』と私に呼び掛けてくる。
次の瞬間、騎士の鎧が動き出し、手に持つ直剣でキリィへと斬りかかった。