No.3
食堂へ向かうために廊下を歩くなか、私は昨夜のことを思い出す。
*
『外の世界を知りたい、ねぇ。なんだ、お前閉じ込められてるのか』
「全く自由が無いわけじゃないのよ。むしろ、外に出ないのであれば、大体のことは許されるわ。魔術の他にも、私は色々なことをしているのよ? 楽器を習ったり、興味のある雑誌や小説を読んだり。テレビでバラエティーやアニメを見たり」
『でも、外に出ることは許されない?』
「屋敷の周辺以外の土地に行くことはね。許されたとしても、数人は付き人が来る」
『まるで国の要人だな』
そうね。と、笑う彼に心の中で相づちを打つ。
正直言って、どうしてそこまでして守られているのかが、私にはわからない。
お父様に一度聞いたことがある。外に出てはいけない理由を。
返ってきた答えは、『アイリが外に出ると危険なんだ』というもの。
聞いたのは結構前のことだから、その時はそういうものなんだと、特に疑問も不満もなく受け入れた。
だけれど、今はそうではない。
だからこそ、私は聞いたの。外に出るには、何をすれば良いのかを。
『それで、いつになったらこの窮屈な結界から出してくれるんだ? このまま放置されたら自主退職しちまうぜ』
「あら、ごめんなさい。それじゃあ、あなたを出す前に制限をかけさせてもらうわよ」
『何でも良いから早くしてくれ』
「悪魔キリーマン・ダリィ。汝の名前は我が元に。汝は剣。汝は盾。目的のため、我が命に沿うものなり」
悪魔の力を奪う言葉。縛るための呪文。名前を知られた悪魔は、魔術師に対して圧倒的に不利な状況に陥る。
だからこそ、悪魔は名前を明かさないし、知られることを嫌う。──はずなのに、目の前の悪魔はそんな素振りを見せない。
むしろ、私の行動を興味津々に観察しているように見える。なんだか不気味。
「……悪魔って、何を考えてるかわからないわ」
『なんだいきなり』
「悪魔なんて本の中でしか知らないから、もっと危なくて、禍々しい存在で、名前を知られることに強い拒絶を示すと思ってたのよ」
『俺に言わせりゃあ、悪魔よりも、悪魔を呼び出す奴の方がよっぽど危ないと思うね』
……言われてみれば、そうかもしれない。
思いもよらぬ返答に、キョトンとしてしまう。
悪魔よりも、悪魔を呼び出す奴の方が危ない……。それもそうね。普通の人は悪魔なんか呼び出そうと考えないし、きっとそんなことはできないでしょう。
「私が外に出ると危険って……そういう意味なのかしら……」
『おい。いつになったら出してくれるんだ~?』
「……」
私は、結界の役割を果たしている床の刻印を足でこすり、途切れさせる。
すると、あっという間に結界の力は弱まっていき、そのまま消失する。刻印はもはや、ただの落書きでしかない。
『さてと、それじゃあ。──くらえっ!』
「止まりなさい」
黒い拳が、目と鼻の先で停止する。僅かに発生した風が、私の頬を優しく撫でた。
『いや、すげぇなお前。本当に動かねぇ』
「何のつもり?」
『制限されるとどうなるのかの確認だよ。まさか、ここまで強力とはな』
「名前はそれだけ悪魔にとって重要なのよ。知らなかったの?」
『噂程度に知ってただけだからな。これで事実の確認はできたが。なるほど、悪魔って不思議なもんだな』
なんとなく、彼の言葉にひっかかりを覚えた。けれど、大して重要とも思わなかった私は、特に追及したりもしない。
そのあと、私は儀式のために準備したものを全て処分してから、ベッドで横になった。
今思えば、結構危険な行為だったかもしれない。
疲れていたとはいえ、彼に何の命令もせずに眠ってしまったのだ。眠っている間は外にいたらしいけれど。
彼は意外と紳士的なのかしら。そんなことを、私は思ってしまった。
*
「悪魔が紳士的だなんて、どうかしてるわね」
『なんだいきなり』
「あら、いたのね」
私の言葉に反応して、キリーマンが念話で話しかけてくる。
頭の中に直接響く男性の声。姿は見えないものだから、凄く変な感じ。
「部屋で待ってても良かったのに。夜になるまではあなたの仕事は無いわよ?」
『何で夜なんだ?』
「昼間は起きてる人が多いからよ。当然、私に向けられる視線も多くなる。──ほら、あそこ」
歩きながら窓の外を見ていた私は、庭で仕事をしているメイドへと手を振った。
メイドは仕事に集中しているように見える。だけれど、私が手を振ればすぐに反応してお辞儀を返してくる。
きっと、見える範囲にいる間は常に意識しているのだろう。
『凄いな、あれは。息苦しくなったりしないのかお前』
「やましいことは何もないし、いつどこにいても監視されているわけじゃないから。それに、もう慣れているもの」
『変わってるな。お前も、この屋敷も』
そうなのでしょうね。と、心の中で呟く。
でも、普通はどうなのかなんて、私は知識でしか知らないし、その知識も正しいとは限らない。
だからこそ、知りたくなる。知らないことを、調べに行きたくなる。自分の目で、耳で。感じ取りたい。
「──さてと、食堂についたわね」
両開きの扉を開けて、食堂の中に入る。
目に入るのは、明かりのついていないシャンデリア。磨きあげられた床。真っ白なクロスの敷かれたテーブル。まだ湯気の出ている暖かそうな朝食。そして……。
「あら、お父様」
お父様の姿が、そこにはあった。入り口の反対側にある椅子に座り、カップの中身を飲んでいる。
「遅れるとは、珍しい。寝坊でもしたのか」
「はい。ごめんなさい、お父様」
「謝る相手を間違えている。謝るなら、料理を用意したロドウィンに謝りなさい」
「はい」
「彼は腕が良い。冷めても美味しく食べられるだろうが……できるだけ早く食べるんだ。暖かいうちに食べた方が美味しいのは確かだ」
私は、お父様に言われた通り、すぐ席に腰を掛ける。そして、両手を合わせて「いただきます」と呟くと、朝食に手をつけ始める。
今日は和食の日らしい。並んでいるのは、お味噌汁、お魚、玉子焼き。そして白米。
お味噌汁の具は豆腐と大根。お魚は多分塩焼きで、玉子焼きは甘くないやつ。
『洋風な屋敷だから、パンとジャム、みたいなもんを想像してたぜ』
そういう日もあるわよ。と、念話を使って返事をする。
──ロドウィンは、この屋敷で執事をしている人で、高齢の男の人。元々は料理人を目指していたとか。そんな噂を聞いたことがあるわ。
『……なるほどな』
食べたいのかしら。
そんなことを思ったそのとき、突然、食堂の中の空気が変わる。
それは、ピリッとした、息苦しい感じの空気。冷や汗をかいてしまいそうな、そんな緊張を感じてしまう。
『なんだこれは……!?』
焦ったような声が頭に響く。
どうやら、キリーマンも同じものを感じているらしい。
「──アイリ」
「何、お父様……」
空気が変わった原因を私は察っする。
お父様が、何かしているのだ、と。
「昨日の夜、何か呼び出したな」
「何かって?」
通用するかはわからないけれど、嘘をついてみた。ひきつらないように意識しながら微笑んで。
「嘘はつかなくていい」
ダメだった。お父様の仏頂面がとても怖く見える。
「出てきなさい。このまま姿を見せずに失礼な真似をするなら、敵対も辞さないぞ」
『……』
お父様に気圧されたのか、素直にキリーマンが姿を見せた。
私は、隣に立つ彼の顔を見上げる。そこにあったのは、表情が固まっている彼の顔。緊張しているのか、もしくは恐怖しているのか……。
「アイリ」
「は、はい!」
「悪魔なんぞ呼び出したのか。名前は知っているのか?」
「き、キリーマン・ダリィという悪魔です」
「名前は知っているか。流石だな。だが、危険な行為なのは変わりない」
お父様は低く静かに呟くと、カップを置いて立ち上がる。そして、私達のすぐ近くまで来て立ち止まると、キリーマンの顔を睨み付けた。
「娘に手を出せば、生き地獄を味わうことになる。覚えておきたまえ」
既に二度殴りかかっている。と言ったら、どうなるのかしら。
疑問に思う私の頭に、『言うなよ……?』と不安げな声が響く。多分、同じ事を考えているのだと思う。
「アイリ。屋敷の中で君は自由だ。だが、事を成す時は細心の注意をはらいなさい。油断や慢心は寿命を縮める」
「……わかりました」
お父様はそう言うと、そのまま扉から出ていき食堂から姿を消した。
すると、張りつめていた空気が元に戻り、息苦しささえ感じる緊張も消失する。
『何なんだ、あれ』
「若月家の現当主。若月伊助。私の大好きなお父様よ」
説明し終えると、私は深呼吸をしてから再度朝食を食べ始める。
こんなに簡単に見破られるなら、あまり当てにはできないかも。そんなことを考えながら、私はホカホカの白米を箸で口に運び込んだ。