No.1
私は、息を吸い込み言葉を吐いた。
それは呪文。悪しき存在を呼び出す、穢れた文言。
今日、この夜のために、私は呪文の詠唱を練習した。途中で間違えたり、噛んでしまったりしないように。
窓の外に目をやれば、暗い部屋に光を運ぶ、月の姿が見える。
微笑んでいる人の口のような、細く美しい三日月が。
そんな、綺麗な月が顔を出す夜に、私は呼び出そうとしている……。
人に忌み嫌われる怪物。いわゆる、『悪魔』と呼ばれる存在を。
「──ただただ、己が欲望のために。我は暗き所に踏み入れん。我が名は若月アイリ。禁を犯し、汝と契約を結ぶ者なり」
──若月アイリ。それが、私の名前。
名前を告げたあたりから、床に予め用意していた円形の魔術刻印が光り始めた。
それは、儀式が上手くいってることを示すもの。
特に難しいことはしていないけれど、初めての挑戦が上手く行くのは心地良い。ついつい頬が緩んでしまう。
「──我は門を開く者。手を差し伸べ、引き上げる者。全てはここに成立した……! 名も知れぬ悪魔よ。我が呼び掛けに応え、姿を現したまえ!」
儀式が進み、魔術刻印の光りが強まる。光りが強まると共に、部屋の中を風が吹き荒れる。
強めの風にさらされた私は、煽られるように声を大きくしていた。普段は出さないような、お腹に力の入った声。場所によっては、はしたないと叱られてしまうかも。
でも、それも仕方のないこと。声の大きさなんて、気にしていられない。
だって今私は、こんなにも高揚してしまっているのだから!
しばらくすると、風は止み、魔術刻印の光りも消えていた。
部屋は元の暗さと静かさを取り戻している。……少し、棚に飾っていた人形が落ちたりしてはいるけれど、大体はいつも通り。
だけど、部屋の中央。刻印の真上。つい先程までは何もいなかったそこに、『何か』がいる。
一目で異質とわかるそれは、黒いモヤのようなものに身を包んでいた。
部屋を照らすのが月明かりだけなものだから、姿はよくはわからない。だけど、見下ろす赤い瞳の位置から、私よりも大分体が大きいことはわかる。
あとわかるのは、帽子と角、と思わしきシルエットのみ。表情はわからない。
普通の人ならば、恐ろしく感じるのかしら。ガタガタと、身を震わせるのかしら。
そんなことを考える私は、きっとプレゼントを前にした時のような、そんなキラキラした表情をしている。
普通ではない、場に似つかわしくない表情を。
「初めまして、悪魔さん。私は魔術師の家系である若月家の長女。名前はアイリと言うの」
『……ああ、そうかいっ!』
「……!」
悪魔は突然、私目掛けて殴りかかろうとする。
だけど、それは叶わない。なぜなら、悪魔の足元にある魔術刻印が、結界の役割を果たしているから。
悪魔が振り下ろした拳は、不可視の壁にぶつかり跳ね返される。同時に、空気がビリビリと震えた。更に、力のぶつかり合いによって、不快な騒音も発生してしまう。
耳を塞ぎたくなる音。私は思わず、顔をしかめてしまう。
スカートの端をつまんで、丁寧にお辞儀をして自己紹介をしたのに。返礼が拳と騒音では、頬を膨らませたくなっても仕方がないでしょう?
「随分と荒々しい挨拶ね。少し驚いてしまったわ」
『急に見も知らぬ場所に呼び出したんだ。怒りを買っても文句は言えないんじゃないか? 小娘』
「あらあら。まあ……」
言われてみれば、確かに。
私は、自分が同じ事をされた場合を考える 。そして思った。
迷惑以外のなにものでもないと。
結論がそうなると、少し悪いことをしてしまった気分にもなる。
『──な~んてな! 今のは冗談。結界を殴ったのはな、お嬢ちゃんの腕を知るためにやっただけだ! どうだ、驚いたか? 怖かったか? ガハハハッ!』
──と、思っていた矢先にそんなことを言われ、謝る気持ちもすっかり引っ込んでしまった。
それにしても、この悪魔。私の想像より大分無邪気というか……。いえ、悪魔なのに無邪気というのはおかしいかもしれないけれど。
実際のところ、攻撃されることは予想の範囲内ではあった。そのために、召喚陣に結界の役割も含めたのだから。
だけど、悪魔がこんなフレンドリーに話しかけてくるなんて。予想外のことで、少し言葉に詰まってしまう。
『いやあ、それにしても。お嬢ちゃんは見たところ大分若いのに、大した魔力を持ってるみたいだな。本気じゃなかったとはいえ、結界にヒビすら入らんとは』
「……それくらいできる自信が無ければ、こんな儀式に手を出したりはしないわ」
『それで、悪魔なんか呼び出してお嬢ちゃんは何を願う。不老不死とか人類殲滅とか言うなよ。魂を貰ってもそこまで大層な願いは叶えられん』
「それは後で話すけれど。まずは自己紹介をするのが先じゃないかしら?」
『ハァ?』
悪魔はわざとらしく耳に手を当てながら傾けると、ガハハハと再び笑い始めた。
なんとなく何を思ってるかはわかるけれど、嫌になっちゃう。声は若そうに聞こえるけれど、ちょっとおじさんっぽい……。
『悪魔に、自己紹介をしろ、だあ? 夜だからって寝ぼけているのかお嬢ちゃん? 悪魔にとって名前が重要だっていうのは知ってるだろう?』
「言うつもりはない、と言うだけですむのに。あなたは下品な悪魔なのかしら」
『悪魔に品なんか求めんなよ。あと、名前は言わないからな。気にくわないならとっとと俺を帰すんだな』
「いえ、帰さないわよ?」
暗闇に慣れてきた瞳に、悪魔の表情が写る。目を見開いている様子から察するに、意表を突いたらしい。ちょっと良い気味。
私はクスクスと笑みを溢しながら、近くの箱にしまっていた、『とっておき』を取り出す。
それは、干からびた腕のような物体。色は黒くて、人差し指だけを伸ばしたような形をしている。
『……おい。なんだそれは』
さっきまでとはうって変わって、真剣な声で問いかけてくる。焦っているのか、冷静な性格なのか。
初対面だし、表情から心は読み取れない。けれど、まあ、何を思っていても関係ない。
「これはね、あなたを呼び出す前に手に入れた、『とっておき』なの。実は、悪魔を呼び出すのは二回目なのよ。一度目は呪文を変えたから、あなたみたいに力は強くなかったけれど」
『……俺は、それが何かを聞いたんだぜ』
「察していそうだけれど。良いわ。答えましょう。──これはね、『悪魔の腕』よ。名前を書き記すんですって」
私が物の正体を伝えると、悪魔の顔は少し怖いものになった。気がする。もしかしたら、元から怖い顔だったかもしれない。
それでも、私は怯えたりしない。なぜなら、今の彼よりもっと怖い存在を知っているから。
目の前の悪魔より、怒ったお父様の方が断然怖い。
だから、私はいつも通りでいられる。親戚に挨拶するような、そんな微笑みを彼に向けられる。
「一度目の悪魔にね、相手の名前を知るための道具を願ったの」
私は語り出すのと同時に、悪魔の周りをゆっくりと歩き始める。意味や理由は特にない。
「ほら、例え契約を結んだとしても、あなたがそれを必ず守るとは限らないじゃない? もしあなたの力が強すぎて、私に抑えるだけの力がなかったら……目的を達成する前に、魂を奪われるかもしれない。だから、対抗手段を得なきゃいけないと思ったの。名前を知れば強制送還も不可能じゃないし、力を縛ることだってできる」
『契約を結んでそれが果たされたから、その腕があるわけだよな。じゃあ、なぜお嬢ちゃんは生きている?』
「方法は秘密よ。そこまで説明する義務はないもの」
『お嬢ちゃん。前の悪魔を殺したな?』
周囲を一周した私は、にこやかな笑みを浮かべる。
そして、『悪魔の腕』を胸の高さまで持ち上げると、口を開いた。
「名を示しなさい」
私の声に反応した『悪魔の腕』が宙に浮き、眼前の悪魔の名前を書き記していく。
まるでペンでノートに書くように。空中に輝く文字が連なっていく。
その間、悪魔が何かしらの行動をとることもなく。彼の名前は順調に、最後まで書き出された。
「キ、リー……。キリーマン・ダリィ、ね。強そうな名前だわ」
『ク……フフッ……! クハハハハッ!』
「……?」
『お嬢ちゃん、胸はあまり無いが、なかなか度胸があるじゃねぇか。気に入ったぜ』
「いらない一文が入ったわね」
いきなりのセクハラだわ……! 気にしていない事柄だけれど、すっごく失礼!
私はジトッとした目をイメージしながら、彼の顔を睨み付ける。けれど、全く相手にされていない。
『んで、わざわざ俺を呼び出すほどの願いってのはなんだ? 一人目の奴に頼んでも大して変わらんだろうに』
「……弱い悪魔じゃあ、当てにできないのよ。だから、二体目、あなたを呼んだの」
「ほう……?」
腕をもった両手を背中へ回し、私は悪魔に自分の願いを告げる。
その願いは単純そうで、意外に難題なもの。
「私はね、家の外に……。外の世界を知りたいの。だから、あなたには手伝ってもらうわ。この屋敷からの脱走を。あなたは共犯者になるの。──これからよろしくね、キリーマン」
三日月の夜。運命の夜。
微笑みかける私に対し、悪魔も悪そうな笑みで返してくる。
なんだか気分が高揚してしまって、今日はすぐに眠れそうにない。
その後、私はベッドで横になった。けれど、案の定上手く寝付けなくて。
翌日は見事に寝坊してしまったのでした。