悪い子は連れて行かれてしまうよ
幼い頃、近所に小さな神社があった。
神主がもう八十になるおじいちゃんで、正直なところ、いつか人の手が入らなくなるのではと思っていた神社だ。
生憎、神様だ宗教だ、に興味の無い私達子供からすれば、その神社は格好の遊び場だった。
理由としては長い階段では階段ジャンケン――グリコの方が覚えがあるだろうか――などが出来たこと。
後は自然に囲まれていたために、隠れんぼや虫取りなんかも出来たものだ。
まぁ、アウトドアな子供だったと言うことだろう。
外で遊ぶことが多く、遊具の少ない公園よりも、神社で遊ぶ方が子供らしい創意工夫のある遊びが出来た。
さて、その神社が今どうなっているのかは、地元を出てしまった私には分からない。
しかし、記憶に残っている神社の姿は鮮やかなもので、長い階段と赤い鳥居が瞼の裏でチラついた。
それと同時に、揺れる赤い襟巻が頭の中を掠め、立毛筋が伸縮して肌が粟立つ。
子供というのは、割かし残酷なもので、わざわざ蟻の巣穴を掘り返してみたり、プチプチと潰してみたりするものだ。
その癖、カブトムシやクワガタには目を輝かせる。
飼い猫は可愛がるけれど、野良猫は小突き回すものなのだ。
幼少期に見たその子犬は、とても珍しい毛色をしていた。
光に当たると、それこそ太陽のように光る毛だ。
白でもなく、黄色でもなく、金色。
そうだ、金色というのが相応しい毛色をしていた。
ピンと立ち上がった耳に、毛揃いの良い尻尾を持っていたが、その体は酷く汚れていたはずだ。
その割に、太陽色に光る毛には、子供心に惹かれたものだった。
あくまでも、私は。
私以外の子供はそうではなかったようで、餓鬼大将のようなツンツンとした坊主頭の子供が、いの一番にその子犬を棒っ切れで突っついた。
きゅう、と情けなく鳴いた子犬に、その餓鬼大将は笑い、他の子供もそれに倣う。
実に気味の悪い光景だった。
若干六歳ながら、反吐が出る、という言葉を理解したものだ。
小柄で特別自己主張の強かった訳でもない私は、どうすることも出来ずにその光景を眺めていた。
ぎゅう、と眉を寄せていたが、子犬は隙を突いて逃げ出し、神社の床下に滑り込む。
揺れる尻尾がキラキラと光り、綺麗だと思うのと同時に、ホッとした。
結局その日は、階段ジャンケンにも隠れんぼにも乗り気になれなかったのだが。
夕暮れ時、帰宅合図でもある学校からの鐘の音に、皆が顔を上げた。
そうして、その場でそれぞれの家に向かうために別れるのだが、私は家路の途中で足を止めたのだ。
同じ方向に家のある子供が、私を見て「どうしたの?」と首を捻った。
私は、シャツの裾を握り締め、唇を一度真一文字に結ぶ。
ゆっくりゆっくり、自分の中では何時間も掛けた気分で、何とか言葉を吐き出した。
「あの、私忘れ物した!から、先帰ってて!」
相手の返事を聞くよりも早く身を翻す。
足にぴったりと吸い付くようにフィットしたスニーカーで、補整されたコンクリート道路を走る。
運動が特別得意な訳でもなかったので、恐らくその走る姿は不格好そのものだっただろう。
ちょっとばかり高さのある長い石階段は、飛び跳ねるように駆け上がる。
乱れる息を少しでも楽にするために、片手は鈍く光る手摺りを掴んだ。
階段を登り終えた頃にはへろへろだった。
足が産まれたての小鹿のように震えた。
だらしなく猫背のまま、私は拝殿の方へと近付く。
既に日が落ちつつあり、茜色に染まる神社には、人気が無くて寒々しかった。
二の腕を撫でながら、私は床下を覗き込む。
暗くて、良く見えなかった。
「わん」
犬の鳴き声を真似てみる。
何の反応もなく、私は膝を折り曲げて、更に奥深くを覗き込んだ。
猫のように瞳が光れば、見付けられるのに、と眉を寄せた所で、床下の奥から何か物音がした。
むむ、と地面に膝と手を付く。
首を捻りながら目を眇めていると、奥から金色が光り、あの子犬が顔を覗かせた。
くりくりした目で私を見ている。
私と子犬では全く別の生き物なので、上手く意思疎通が出来ずに、私も子犬も、お互い口を開かずに見詰め合う。
最初に動いたのは、結局私だった。
屈み込んだまま、子犬に手を伸ばして、その体を撫で上げる。
目を細める子犬は、擦り傷こそあれど、大きな傷もなくて安心した。
柔らかな毛並みを楽しんでいると、突然子犬が目を見開き、地面にぺったりとくっ付けていた体を起こす。
それこそ、飛び起きる、という表現の良く似合う勢いだった。
驚いて私も手を上げてしまう。
真上に上げた手が、何かにぶつかり、今度は屈み込んでいた体が不安定に揺れて、真横に倒れ込みそうになる。
「わっ、わわっ!」
「おやおや。危なっかしい人やわ」
ぽすり、と柔らかな何かが私の体を支えた。
腹部に回された腕は、濃紺の着物に隠れて良く見えないが、袖の隙間から覗いた爪は、小さな硝子片のように透き通っている。
顔を上げれば、頭上には知らない大人の顔。
真っ赤な襟巻が、風に遊ばれて揺れていた。
それに隠された口元は、どんな形をしているのか分からずに、感情が読み取りにくい。
私は瞬きを繰り返し、その姿が消えないことから、見間違えでも何でもない、と現実逃避出来ずにいた。
不思議な大人の男の人だ。
足音も気配もなく、いつの間にか背後にいたらしい。
毛先に近付けば近付くほど青から黒に変わる、グラデーションな髪色に、それこそ猫のように夜闇でも光りそうな金色の目だ。
着物だと思っていた濃紺は、着物と言うよりは羽織で、中の着物は深緑だった。
赤い襟巻も合わさって、何だか浮世絵の配色のように思える。
頭に被った状態のお面は、お祭りで売っているような狐の顔が描かれていた。
「こんな時間にこないな場所で何しとるんですか」
腰を折り曲げた男の人は、私に視線を合わせて問い掛けた。
助けてもらったことには変わりないが、抱きすくめられているのは居心地が悪かったので、身動ぎながら、あの、その、と口篭る。
しかし、男の人は私の言わんとしていることが分かったように、嗚呼、と頷いた。
「心配、してくれはったんですか。いやぁ、今時の子供にしては優しい心根の持ち主ですわ」
うんうん、一人で頷く男の人。
何故か私の腹部に回した腕を解く気がないようで、子犬が足元にじゃれ付いていても、満足そうに頷くばかり。
揺れる尻尾を見る私は、どうすれば良いのか。
「まぁ、でも良くないですわ。昼間と夜の境界線が曖昧になる時間に、一人でこないな場所にいるのはあきません。さあさ、早くお帰んなさい」
ひょい、と立ち上がらされた。
あまりにも軽く持ち上げられたので、瞬きの回数を増やしてしまう。
子犬が男の人の足元から、私の足元に寄って来て、するりと一周して、尻尾を擦り付けた。
可愛い、とっても可愛い。
それでも、可愛いなぁ、ともう一撫では出来ずに、男の人に背中を押された。
立ち上がった男の人は、下駄を履いているようで、それも相まって身長がとても高く見える。
金色の目が細められて、薄らとした笑顔を浮かべているように見えた。
口元が隠れているので分からないが。
「お友達は選ばあきませんよ。君は良い子みたいやから、今日はええけど。あの子達は、悪い子や」
「あの……」
「悪い子は連れて行かれてしまいますわ」
ひらり、男の人が手を振った。
ゆらり、子犬の尻尾が揺れた。
その後、私はゆっくりと長い石階段を降りた。
最後の階段を飛び降りて振り向いてみても、長い階段が続いているだけで、男の人と子犬の姿は見えない。
私はふるりと身震いをして、駆け出した。
それ以来、あの神社には行っていない。
地元を離れる際にも行っていなければ、仮に帰省しても行こうとは思っていないのだが。
それから余談だが、翌日、子犬を小突き回していた子供達がまとめていなくなっていた。
いなくなっていた、と言うのは語弊があるのかも知れないが、別れた後に帰宅しなかったらしい。
集団誘拐、なんて噂がまことしやかに囁かれていたが、祖父母達、近所のお年寄りに関しては、集団神隠し、と言っていた。
さて、どちらが本当なのか。
はたまた、どちらも違うのか。
今思い出してみると、あの神社は所謂稲荷神社と呼ばれる部類で、祀っているのは九尾の狐だったような。
子犬も、小狐だったような。
まぁ、もう二度と神社には行かないと決めたから、私はそれを忘れてしまいたいと思っている。