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新しい仕事

夏が来たと思われる日のことでした。

 今日は朝から夏日だ。風があるのはいいのだが、熱せられた空気が頬にあたるだけなので暑さをしのげるとまでは言いにくい。私は汗の臭いを気にしながら並木通りを歩いていた。

「朝から暑いなぁ。日傘を持って来た方が良かったかしら。」

日陰を選んで歩きながら、思わずそんな言葉が口に出る。

それでも会社まで行けばクーラーが効いている。暑いのも、もう少しの辛抱だ。


会社に近付くと、ビルの玄関前に大勢の役員級の人たちが並んで立っていた。端の方に立っている秘書課の中谷さんに「何かあったの?」と声をかけると、「今日から新しい社長が来るのよ。」と小さな声で話してくれた。やっと社長が決まったのね。瀬崎商事はここ五、六年で一気に成長した会社だ。前の社長の瀬崎守さんが、引退したお父さんの後を継いでアイデアと社内改革で、従業員が二十六人という小さな会社を三百人以上の中規模形態の会社へと変えていった。私は知らないが、以前はもっと離れた場所の古いビルにこの会社はあったらしい。けれど今は岸蔵の大通りのビルを一つまるまる所有している。


そんなやり手の瀬崎社長が、二週間前の交通事故で重傷を負い入院してしまった。それも復帰が危ぶまれる状態だと言う。瀬崎社長のリーダーシップでここまでになった会社だ。上層部の人たちは慌てたらしい。底辺にいる私達一般社員の頭の中にも「倒産」の文字が浮かんでいた。しかし、業績はまずまずなのでなんとか今の状態を維持するだけでもやっていけるのではないかという話になって、新社長の選定に入ったのだが・・・。ここからが揉めに揉めた。

有限会社時代から勤めている旧社員たちでは経営者としての手腕が心もとない。かと言って、新しく入った社員は若い人が多い。しかし外部から有能な経営者を引っ張って来るほどの規模の会社ではない。引退したお父さんの方も再度社長の椅子に座ることを躊躇されていると聞いている。

「結局、誰がすることになったんだろう・・・?」

誰でもいいが、今のままの業績を維持して欲しいものである。


私は大学を卒業した時に、中阪の企業と地元の瀬崎商事、どちらに就職しようか迷ってここに決めた。雑誌に「イケメン若手社長の革新的経営手腕」という記事が載っていて、それを読んだことも大きかったと思う。古臭い経営の仕方ではなく新しい企業形態を考えている所が魅力的に思えたのだ。道半ばで事故に遭われて、前社長もさぞかし無念な事だろう。


総務部の自分の席についてパソコンを立ち上げた途端に、上司の中村課長に呼ばれた。

「小原さん、人事部の沢木課長が呼んでるから行って来てくれる?」

「はい。何か持って行くものがありますか?」

「ぺンとメモ帳ぐらいでいいんじゃないかな?・・いや、印鑑がいるかもしれないから持って行って。」

「わかりました。行ってきます。」

・・・印鑑?何か書類に不備でもあったのかしら・・・。


私は印鑑も持って人事部に行った。行ったと言ってもすぐ隣の部署なので、軽く仕切られたパーティーションの向こうへ回っただけなのだが。

沢木課長は旧社員のひとりなので、年齢もそこそこいっている中年のおじさんだ。若い人が多いフロアの中で、額の後退が目立っている。「まいっちゃうなぁ、僕。」というのが口癖のお茶目なお人好しである。

「沢木課長、総務の小原です。お呼びと伺ったんですが・・。」

「はい。朝っぱらから急に呼び立ててごめんねー。実は、小原さんに部署移動をしてもらいたいのよ。」

「えっ?!もう移動があるんですか?まだ入ってから一年経っていないんですけど。」

「そうなのよねー。でもそういう小原さんだから、選ばれちゃったのよ。これから仕事を覚えるんだから移動しても労力的には一緒でしょ。」

「はぁ・・・。それでどこの部署になるんでしょう。」

「今日から新社長が就任されるから、その社長秘書をしてもらいたいの。」

「へっ?!」

社長秘書ぉーーーーー?!

一応の社会人として、心の中の雄たけびは我慢した。・・・しかし叫びたくもなろう。私は秘書検定も受けたことがないのだ。

「この書類に記入して中村さんに提出したら、荷物をまとめて秘書課に行ってくれる?それから・・・印鑑を持ってたら、こことここにハンコを押しといて。」

私が印鑑を所定の場所に押すと、「じゃあよろしくぅ。頑張ってねっ。」とそっけなく言われてしまった。

・・・ショックだ。今日も頑張って仕事を早く覚えようと会社にやって来たのに、早々に追い出された感じがして気が抜けてしまう。


私は重くなった足取りで、自分の机に戻ると書類を書いて中村課長に提出した。中村課長は私の落ち込んだ顔を見て、「うちとしても君を手離したくはなかったんだよ。今回のは新しく来られた社長の指示なんだ。期待されたと思って、秘書課でも頑張りなさい。」と励ましてくれた。

「はい。短い間でしたが、お世話なりました。」

「よしっ。教育係の吉野くんに今の仕事の引継ぎをして行ってね。」

「わかりました。」

私は課長に会釈をして、自分のやりかけの仕事を持って吉野先輩の所へ行った。

「吉野さん、これが昨日までにやり終えているものです。あのう、パソコンの中に入っているものはどうしたらいいんでしょうか。」

「それは私が後で処理しとくわ。」

そう言って吉野さんは小声になった。

「佐和ちゃん、急にこんなことになって寂しいわ。」

「吉野先輩。私もですぅー。せっかく先輩がいろいろ教えて下さったのに。」

「大丈夫。覚えた仕事はあっちに行っても役に立つから。秘書課には私の同期の大月静香がいるから。困った時には頼りなさい。」

「はいっ。吉野先輩、いろいろありがとうございましたっ。」

「どーいたしまして。頑張ってねっ。」

「はいっ!」

課長と吉野先輩と話をして、やっと少し落ち着いた。たまたま持っていた買い物用のエコバックに荷物をまとめて総務の皆さんに挨拶すると、みんな仕事の手を止めて手をふって送ってくれた。


「はぁー、まさか今日の日がこんなことになるとは・・・・。」

座布団を脇に挟み、私物の入ったカバンを肩に掛け、その他の荷物を腕に抱えて、私はよたよたとエレベーターへ向かっていった。

「新しい社長ってどんな人なんだろう。怖い人じゃないといいなぁー。」




**********




 秘書課に着くと、吉野先輩が言っていた大月さんが直ぐに出て来てくれて課長の席に案内してくれた。優しそうな先輩がいて良かった。これから上司になる高本課長もふっくらした柔和そうな人だったので安心した。新しく用意された机に荷物を置いて、課長と一緒に社長室へ行く。いよいよ社長との対面だ。


お辞儀をして社長室に入ると、「どうぞ入って。高本さんはもういいですから仕事に戻ってください。」と言われた。いやに若い声だ。パーティーションで区切られた社長秘書専用の机が目に入る。・・・ここが今日から私の職場になるんだなー。なんか場違いな感じ。


課長と別れて部屋の奥に進む。社長の机に座っていたのは、まだ二十代に見える青年だった。

「ごめん。ここまで目を通しとくから、ちょっとそこの応接ソファに座って待っててくれる?」

「はい。ですが、私も自分の机の文具のチェックもしたいので、切りが付いたらお呼びください。」

私がそう言うと、へぇーと言って社長が顔を上げた。

「いい心がけだね。君に来てもらって良かったよ。じゃあ、後で頼む。」

「わかりました。」

私は心の中で吉野先輩に感謝する。「ぼーっと座ってないで、自分から仕事を探すのよっ。」と教えてもらったことが生きている。本当だ。吉野先輩の言う通り。今まで覚えたことは無駄にはならないんだな。


私は秘書用の机に行って、引き出しを開けてみた。以前の秘書の人が使っていたものなのだろう。使いかけの消しゴムやボールペンが入っている。付箋とクリップ等がなかったので、メモ用紙に補充用品を書いていった。そう言えば社長と一緒に事故に遭ったあの眼鏡をかけた秘書の人はどうなったんだろう。まだ病院にいるんだろうか。以前社員用サロンで見かけたことがあるけれど、笑顔の綺麗な人だったな。そんなことを考えていると社長に声をかけられた。


応接セットに向かい合って座る。社長が私と目を合わせて、先に挨拶してくれた。

「初めまして。僕は瀬崎豊(せざきゆたか)と言います。今日から社長をやっています。」

「・・瀬崎?」

前の社長と同じ名前だ。

「前社長の弟です。兄貴とは歳が離れてるけどね。八歳下のもうすぐ二十八歳。」

「ああ、弟さんなんですか。」

道理で社長をするには若いと思った。お兄さんが復帰するまで社長を受けられたのだろうか?

「私は、小原佐和子(おはらさわこ)と申します。総務部から参りました。よろしくお願いします。」

「ああ、よろしく。お互い初めての仕事だから、協力して覚えていこう。」

「はい。」


「それでここからはオフレコでお願いしたいんだが・・。」

「はい。」

「兄貴は、公には言語障害があって治療中ということになっているんだけど、言葉だけではなくて知能の方も無くなってしまったんだ。」

「はぁ・・・。」

あの颯爽とした若社長が?!私は衝撃でハニワ顔になっていたんだろう。社長が私の顔を見て吉野先輩と同じように笑い出した。

「うっくくっ。小原さん、君、彼氏の前でその顔をしないほうがいいよ。」

「しっ、失礼ですっ。」

「悪い悪い。セクハラ発言だったね。申し訳ない。・・とにかく兄貴がそんな状態なので、この仕事は腰かけ仕事じゃなくて、長く続けなきゃいけないということだ。僕も受けたからには全力でやる。君もそのつもりで協力して欲しい。」

「はいっ。わかりました。」

わー、大変なことになってるんだ。弟さんが社長というので、もしかしたら社長が復帰するまでの繋ぎの役割なのかと思ったけど、それは思い違いだったらしい。これは、心して仕事をしないといけないな。

「じゃあこれからする事を言うね。まずは、取引先を一社ずつ覚えていこうと思っているんだ。今、僕は社内事情を把握するために社外秘の資料を読み込んでる。君は総務だったんだから、まずホテルマウンテンの資料から読んでいってくれ。それで・・そうだな三時半に二人でミーティングをする。そこでお互いが感じたことを話していこう。」

「・・・あの、私の意見でいいんですか?部長を招集して会議で聞いた方が早いんじゃないんでしょうか。」

「いや、それは後だ。・・・実を言うとね。今の幹部連中は兄貴の言いなりに動く手足だった。本人たちが考えて動くことはまずない。それは社長職を受けるかどうか悩んでいた時に身に染みてわかったよ。僕としては社長のワンマンではなく、今後は一人一人に考えて動いてもらうつもりなんだ。ただそうなるとこちらも彼らを誘導するために基本的なことがわかっていないと話にならない。そのために社長の就任式だの全体会議だのは後回しにしてもらったんだ。この一週間でうちの取引先についての大まかな基本を叩きこもうと思っている。すまないが、出来たら一週間残業してくれると助かる。今後は残業をしないと誓う。兄貴はワーカーホリックだったが、僕は趣味の時間も取りたいからね。」

「社長がそういうお考えなら、わかりました。やってみます。これから自分の荷物や文具類を整えて、今言われた仕事にかかります。なので九時半までには席に戻りますが、一旦退出いたします。」

「わかった。」


 私は秘書課の大部屋に戻って、社長室のコーヒー等の備品のある場所や秘書課の文具棚などを教えてもらって、足らなかったものを用意すると、昼食用の弁当を社長と二人分注文して、荷物を抱えて社長室の秘書机に戻った。

「ただいま戻りました。社長、昼食のお弁当を注文しておきましたが、よろしいでしょうか。」

「ああ。今、ちょうど読んでるところだ。外部業者に頼んでいる弁当サービスだな。試しておいた方がいいな。この一週間は毎日頼んでおいてくれ。」

「洋食と和食がありますが、交互に頼みましょうか。」

「ああ、頼む。」


私は身の回りの荷物を整えると、パソコンを立ち上げてホテルマウンテンのホームページからチェックを始めた。ここは山岡さんという地元の方が一代で築き上げたホテルだ。私達の新人研修もここであったし、総務でもよくお世話になっている。息子さんが手伝うようになってから、こういうパソコン関係のアイコンも充実してきた。今では外人客の予約もよく入っていると聞いている。


私と社長は物も言わずに集中して資料を読む仕事を続けていった。秘書課から弁当が来ているという連絡が入った時には、ホテルマウンテンについてはだいたいの概要を把握できていた。

お茶を入れて、応接セットに座って社長と二人で弁当を食べる。吉野先輩とお昼を食べていた時みたいに話は弾まないが、社長の趣味が釣りであるということは聞いた。お弁当を食べる手を止めて、わざわざ携帯で撮った大物の釣果を見せてくれたので、よほどハマっている趣味なのだろう。


昼の休憩が終わりミーティングと言われた三時半までの午後の二時間ほどは、海棠工業について調べていた。海棠はうちの取引先ではないけれど、「仕事の先を読みなさい。」と吉野先輩によく言われていたので、将来を踏まえて海棠工業への切り込みを提案案件として提出するつもりだ。


でもこれが今後、うちの会社を大きく動かして行くことになろうとは、この時の私は思ってもみなかった。



新人同士の懸命な挑戦が始まります。

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