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殺人遺伝子  作者: 菱川あいず
第1章
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乱心

 別れてから1時間足らずで柊からの着信があったとき、楡は心臓を針で刺されたような思いだった。

 柊は楡と連絡先を交換することをあれだけしぶっていたのだから、柊から連絡が来ることは平時へいじでは考えられない。柊はのっぴきならない事態に巻き込まれているに違いない。



「もしもし、柊、どうしたの?」


 電話の向こうで聞こえる奇妙な音の正体が柊の嗚咽おえつだと気付き、不安は一層強まる。



「柊?大丈夫?柊?」


 柊の最初の言葉は謝罪だった。


「楡、ごめん」

「どうして?どうして謝るの?」

「ごめん。私、楡しか頼れる人がいなくて……」

「いいよ。頼って。頼ってくれた方が嬉しい」

「ごめん。電話なんかしちゃって」


 1時間前の気丈きじょうさは,今の柊からは失われていた。

 ホームで飛び降りようとしていたことを話していたときですら号泣していたのは楡の方で、当の柊は目をうるませることさえしなかった。にもかかわらず、今、楡と通話している柊に強さは一切ない。



 柊が放とうとした言葉は言葉のていをなさないまま,単なる雑音として楡の耳に届いた。楡にできることは,柊の呼吸が整うまで彼女の嗚咽をただただ聞くことだけだった。

 柊の異様な取り乱し方からして,話を聞いてあげるだけで安心させられるような状態でないことは明らかだった。



「楡、一つだけお願いしてもいい?」


 途切れ途切れの声がようやく言葉になる。


「もちろん」

「今晩、楡の家に泊めて」

「……それだけでいいの?」

 それくらいはお安い御用である。別に泣きつきながら頼むようなことではない。



 柊によれば,今彼女は市川にいて、24時間営業している駅前のハンバーガーショップから楡に電話を掛けているらしい。

 

 楡が車で迎えに行くことを提案すると、柊は辞去じきょした。


「それだけはどうしてもできない。理由は後で話す」


 ならば、と楡の家の住所を教えた上でタクシーで来るように伝えると、柊は素直に従った。

 タクシー代は楡が払う、という申告に対しても、「ありがとう。助かる」と述べた。

 柊は楡の世話になることを遠慮しているのではない。楡が車で迎えに行けないことには、本当に「理由」があるのだろうと感じざるをえなかった。

 

 


 楡が支払いを済ませている間,自宅アパートの前の道に窮屈きゅうくつそうに駐車したタクシーの助手席で,柊は震えていた。

 タクシーから降りるやいなや崩れ落ちた柊を肩で支えながら、楡はアパートに向かって歩く。

 柊の荒い呼吸が楡の耳に直接吹きかかる。

 


「さあ、入って」


 楡が,開け放たれたドアの向こうへと柊をエスコートしたものの、柊は立ち止まったまま動かなかった。



「早く入って。寒いから風邪引くよ」


 先に玄関に入ろうとする楡の腕を柊が掴む。



「楡、話があるの」

「話だったら部屋の中で聞くから」

「ううん。ここじゃなきゃダメ。家に入ってからだと手遅れだから」

「風邪引いてからでも手遅れだよ」

「そういう問題じゃない。私は楡の家に入れないの」

「なんで?」

「その私、私……」



 柊の声がまた上擦うわずりそうになったところで、今度は楡が柊の腕を掴む。



「ほら行くよ」

「楡、やめて。本当にやめて」


 楡は柊を無理やり玄関に引きずり込み、鍵を閉めた。

 柊の身体には力が入っていなかったので、彼女を意のままにすることは風船を糸で引くくらいに容易たやすかった。

 


「楡、私……私……」

「もう1時を回ってるよ。早く寝よう。運良く家に布団セットがもう一つあったから、これを使えばいい。本当は誰か友達が泊まりに来ることがあるかな、と思って用意したやつなんだけど、幸いなことにまだ使ってないんだ。思ったように友達ができなくてね」


 わざとっぽく苦笑いする楡を、柊は焦点しょうてんの定まらない目で見ていた。



「でもね、楡、楡は私の話を聞いたらきっと……」

「どうせ、誰かに追われてるんでしょ?」

「え?」

 

 

 柊がわざわざタクシーを使った理由は他に考えられなかった。

 

 柊は誰かから逃げている。

 おそらく市川駅で柊はその誰かに発見され、近所のハンバーガーショップに逃げ込んだ。

 その誰かを上手くいた柊だったが、そいつはまだ市川の近辺で柊を探している可能性が高い。

 仮に楡が自家用車で柊を迎えに行き、その場面をその誰かに見られてしまえば、ナンバーや車種、さらには楡が目撃されることにより、柊の居場所が特定されてしまう恐れがある。

 そうすれば、楡にも迷惑がかかる。


 だから、柊は楡が迎えに行くことを固辞こじしたのだろう。


 この柊の宿命が、「私に関わると不幸になるよ」という言葉から導かれる帰結でもあった。



「図星だったみたいだね」


 楡は柊に優しく微笑みかける。柊が背負っている不幸を預かる決意を表現するために。



「楡、本当にありがとう。私、楡にどう感謝していいのか分からない。私、楡にどう恩返しすればいいの?」

「じゃあ、柊、僕のお願いを一つだけ聞いてくれ」

「え?何?私にできることだったらなんでもするから」

「これは柊にしかできないことなんだ」

「私にしかできないこと?そんなことあるの?」


 柊と出会ってから楡がずっと思っていたことをようやく言える。



「柊、約束してくれ。頑張って生きる、って」

「楡……」

 

 涙で出なくなった声の代わりに、柊は大きく頷くことによって楡の気持ちに応えた。


 詳しい事情は分からないが、柊にとって「生きる」ということはそんなに容易たやすいことではないのだと思う。

 玄関にしゃがみ込んだ柊の、決意を背負った小さな背中を撫でながら、楡もまた決意する。


 楡もこの子ために頑張って生きよう、と。

 皆様、本日を如何お過ごしでしょうか。そして、僕、本日も沖縄を満喫しているでしょうか。

 というのも、この話は予約投稿であり、このあとがきは、羽田発沖縄行の飛行機内で作成しています。かような経緯から、もしも新しくブックマークをいただいていたり、感想や評価をいただいていたとしても、このあとがきでは感謝の言葉を述べることができません。申し訳ありません。

 この話は柊視点で描くか悩みました。ただ、結果として楡視点で良かったと思っています。素敵な最後の一行が書けたので。

 今作はこれからもずっと楡視点でいきます。視点を固定した方が人物に感情移入しやすいと信じて。

 皆様、変わらぬ応援をよろしくお願いします。

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