宿命(2)
楡が意識を失っていたのは、ほんの短い時間だったと思う。
目覚めたら病室のベッドの上、という生易しい展開の代わりに、楡にはまだ澄花を救うチャンスが与えられていた。
部屋のドアは閉じられているが、ドアの向こう側からは女性が口論する声が聞こえる。まだ澄花は無事なのである。
玄関タイルの冷たさが徐々に背中から入ってくることを感じながら、楡は、脳からの信号を筋肉まで届かせる方法を必死で思い出そうとする。
-動け、動け。
今まで澄花を助けるために突拍子もない行動をとってきたではないか。どうしてこんな肝心な場面で身体が動かないのか。
-動け、動け、動け。
楡の想いに一番最初に反応してくれたのは、右手の指先だった。
それを契機として少しずつ全身の痺れがとれていく。
-早く、早く、早く。
しばらくして、立ち上がることはできずとも這い蹲ることはできる状態まで回復した。
身体の自由が完全に回復していない状態では、澄花と有菜ママのいる部屋に入ったところで、楡は何の役に立たないだろう。しかし、気が付いたときにはすでに、楡は縋り付くような格好でドアノブに手を掛けていた。
ドアは楡の自重によって開かれた。
うつ伏せに倒れ込みながら、楡は目の前の光景を必死に頭に入れようとする。
ドアの対面にはベランダへと通じる窓がある。その窓に背中を密着させて澄花が立っている。
そして、澄花と楡を結ぶ線のちょうど中間あたりに有菜ママの背中がある。
有菜ママは右手を澄花に向けて突き出している。
その手に握られているのは、先ほど楡を痺れさせたスタンガンだろうか。
「楡、来ないで!!」
それはおそらく澄花の口から反射的に出てきた言葉なのだと思うが、戦略的には間違っていた。
背後に楡がいることに気が付いた有菜ママは、一瞬で澄花との距離を詰めると、左手を澄花の左肩へと回し、右手の黒い物体を澄花のこめかみに突き付けた。
-最悪だ。
有菜ママが右手に握っている凶器は、スタンガンから拳銃へと持ち替えられていたのである。
「楡君、って言うのね。うちの澄花が大変お世話になったようね」
有菜ママの声には独特の浮遊感があった。舌っ足らずで、意識していないと頭に入ってこない声である。
「でもね、澄花の面倒を見るのも今日までで十分。私が引き取るから」
「殺すんですよね?澄花のこと」
質問に答える代わりに、有菜ママはうふふと声に出して笑った。口角が釣り上がっただけで、目は一切笑っていない。
有菜ママに飛びかかって拳銃を奪うために必要なもの。それは時間である。
有菜ママの隙ができるのを待つためにも、飛びかかれるまでに身体が回復するのを待つためにも、楡には時間が必要だ。
時間稼ぎのため、楡は有菜ママに問い掛ける。
「どうしてこの家に澄花がいるって分かったんですか?」
「偶然よ」
「偶然?そんなはずは……」
「私が探してたのは柊だったの。私の柊がどこかの誰かさんに攫われちゃったみたいだから」
棘のある言葉だった。有菜ママは誘拐犯の正体が楡であることを知っているようだ。
「どうして柊がこの家にいると思ったんですか?」
「柊の携帯電話がこの家にあるから」
-しまった。完全に失態だ。
「携帯電話を紛失したとき、予め情報の登録をしておけば、GPS機能を使って家族の携帯電話で探知できるの。楡君はその機能のことは知らない?」
もちろん知っている。別に新奇な機能ではない。楡が生まれる前から主要な携帯電話の全機種で用いられている機能だ。
「楡君は私の澄花だけでなく、私の柊までも家に連れ込んでるのかな?柊はどこにいるの?」
「逃したので分かりません」
殺対本部での検査後、突然走り出した柊を楡は追い掛けた。
しかし、予想外の出来事に混乱して出だしが遅れたこともあり、検査室の階下に消えていった柊を見かけることは二度となかった。
そもそも、遺伝子検査の陰性結果を受け、すでに柊は楡の興味対象から外れていたため、楡が柊を追い掛ける必要はほとんどなかった。
代わりに楡の頭の中を支配していたのは、澄花に嘘を吐かれたのではないか、澄花はやはり殺人遺伝子保有者で殺人犯なのではないか、という不信感だった。楡は再燃した澄花への疑念を確かめるため、殺対本部から一直線に帰宅したのだ。
そのとき、柊への関心と同時に、柊の携帯電話のことが頭から抜けてしまっていた。
「コルザ」で柊を誘拐してレンタカーの車内に連れ込んだとき、楡は柊から携帯電話を取り上げ、自分のカバンの中にしまった。柊がこっそり外部と連絡を取り、助けを求めることを防ぐためである。
持ち主が逃げ出してしまったことにより、返すことができなくなった携帯電話は、今でも楡のカバンの中にある。
「楡君には誘拐癖があるのかな?私の澄花まで無理やり攫って監禁してるのかしら?」
「違う」
楡の代わりに答えたのは、銃によって拘束されている澄花だった。
「楡は私を守ってくれてるの」
「つまり、楡君は澄花と付き合っているわけだ。楡君、困るなあ。澄花は私のものなの。勝手に奪わないでくれる?」
先ほどから有菜ママは、澄花と柊があたかも自分の「物」であるかのように扱っている。歪んでいる、と楡は感じる。
「それはそうとして、澄花がここにいてくれて助かったわ。澄花のこと、ずっと探してたから。今考えると迂闊だったんだけど、澄花のときは携帯電話に探知機能のための登録をしてなかったの」
有菜ママが楡をスタンガンで襲って力づくでこの家に侵入したのは、柊を奪還するためだった。とすると、有菜ママにとって、この家に澄花が匿われていたことは偶然だったのである。それはもしかしたら柊を発見すること以上の幸運だったのかもしれない。
有菜ママの狙いは明白である。有菜ママは、『コルザ』で行われた遺伝子すり替え計画を完結するために、澄花を始末したいのだ。
もっとも、この場で銃の引き金に手を指を掛けることはなるべく避けたいのだろう。夜の住宅街で銃声を響かせてしまえば、当然、誰かが気付いて警察に通報してしまう。
有菜ママにとって理想的なのは、拳銃で脅すことによって澄花をこの家から連れ出した上で、事故死に見せかけて澄花を殺すことである。
-そんなこと、絶対にさせてはならない。
楡は会話を途切れさせないために、ついに核心的な部分へと踏み込むことにした。
「有菜さん、あなたが殺人遺伝子保有者なんですね」
楡の一言に驚く素振りを見せたのは澄花だけで、有菜ママは飄飄とした態度を崩さなかった。
「楡君、よくご存知で」
「世間的には殺人遺伝子保有者は『安原柊』ということになっていて、その正体は澄花です。こんな複雑な事態になっているのは、有菜さんもよくご存知の通り、『コルザ』で行われた殺対による遺伝子検査の際に、遺伝子のすり替えがあったからです」
「なかなかの事情通ね」
有菜ママが茶化すのを無視して楡は続ける。
「あの日、澄花は有菜さんと柊に嵌められ、柊の殺人遺伝子を押し付けられた、と澄花は思っています。でも、真相は違っていたんです。有菜さんと柊がグルになって澄花に押し付けたのは、柊の殺人遺伝子ではなく、有菜さんの殺人遺伝子なんです」
「え?どういうことなの?」
慌てた様子の澄花の問い掛けに対し、楡は答えることができなかった。
「コルザ」での検査の日に澄花のDNAと有菜ママのDNAがすり替えられたことは間違いないとは思う。
しかし、具体的にどのような方法ですり替えが行われたのか、どうしてすり替えが可能だったのか、というところまで楡の考えはまだ及んでいない。
「澄花、教えてあげるわ」
楡からのバトンを有菜ママが引き取ってくれたことは楡にとっては嬉しい誤算だった。
おかげで時間を作れるし、何より、楡だって真相を知りたい。
「実は私、殺対の検査でDNAをすり替えるのはあのときが初めてじゃなかった。12年前に私の遺伝子検査が行われたときにも、私はDNAのすり替えを行った。12年前、私は、私のDNAと柊のDNAをすり替えたの」
とても嬉しいことに、最近、読者様からの推理をいただくことがあります。
真犯人は◯◯なんじゃないか。
遺伝子のすり替えは◯◯のときに行われたんじゃないか…etc
中には、「安原柊」の正体は横粂いちかなんじゃないか、とかいう若干ホラー気味な推理をいただくこともあります(苦笑)
こうした推理をいただくと、読者様がどのようにしてストーリーを解釈してくださっているのか、ということも分かると同時に、この作品の論理的整合性がどこまで保たれているかということをチェックできるため、とてもとてもありがたいですし、読者様の推理を読んで、「それいいね!」と思ったものは積極的に作品に取り込んでいます(そのことの是非はあるとは思いますが苦笑)




