表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
殺人遺伝子  作者: 菱川あいず
第1章
5/55

非運命(4)

 楡が5歳の頃だった。楡は目の前で人間がただの肉のかたまりとなる瞬間を目撃した。

 女性が,楡のいる駅のホームから飛び降りたのである。


 楡は女性が飛び降りる一部始終を、誰よりも近くで目撃していた。

 当然である。

 女性は楡の母親だった。

 


 彼女は線維筋痛症せんいきんつうしょうという奇病に悩まされていた。痛みの原因となるような刺激がないのにもかかわらず、痛み以外の正常な刺激を痛みと感じてしまい、全身に痛みを感じる病気である。

 

 楡の母親が痛みを感じる程度は日や時によって異なり、何事もない日もあれば、全身の激しい痛みによって一日中家から出られない日もあった。


 

「きっとママは、駅で電車を待っている最中に突然襲ってきた強い痛みから逃げるために,衝動的にホームに飛び込んだんだ」


 四十九日しじゅうくにち親戚しんせき同士の食事を済ませた後、2人きりの車内で、楡の父親は後部座席の楡に向かってそう言った。

 それは「誰のせいでもない」と、楡に言い聞かせているに違いがなかった。



 たしかに母親を殺したのは痛みであることに異論はない。

 

 ただ、その痛みを作ったのは楡だ。


 なぜなら、母親が線維筋痛症を発症したのは、楡を出産した直後だったからである。

 線維筋痛症のはっきりとした原因は分かっていないものの、女性が出産後に発症するケースは多いと聞く。

 楡を産みさえしなければ、母親は難病に苦しめられることはなく、死ぬこともなかった。

 

 

 27歳となり、当時の母親とさして変わらない年齢となった今であっても、楡は最後に見た母親の様子を忘れることはできない。

 

 思うに、生に絶望しない限りは死に憧れることはない。

 飛び降りる直前の母親は,生に絶望し,すでに生きることをやめていた。目には生気はなく、身体にも一切力が入っていなかった。ただ機械的に線路に向かってを進めるだけの存在だった。

 



 千葉駅のホームで柊を見たときの彼女の様子が、飛び降りる直前の母親のそれと完全に一致しているわけではなかった。

 

 ただ、少女の悲しげな雰囲気に、なんとなく嫌な予感がした。

 もしかしたら、彼女は飛び降りようとしているのかもしれない、と思った。


 柊を遠くから眺めているうちに、悪寒おかんは徐々に強まっていき、ホームに向かってくる電車を見たときには,楡の頭は恐怖心で支配されていた。

 単なる勘違いである可能性は高い。ただ、絶対にもう目の前で人が死ぬのを見たくはない。


 その思いが、見知らぬ少女の元に駆け寄るという「ありえない」行動へと楡を突き動かした。

 駆け寄ったはいいものの、少女に対して掛けるべき言葉を何も考えていなかったのはそのためである。楡の心配は杞憂である可能性が高いから、まさか「飛び降りないで下さい」とは言えない。

 迷った挙句、楡は少女の気を死かららすための言葉として、「僕とお茶しませんか」を選んだ。



 

「私、あのとき本気で自殺しようと思ってた」

「やめて……そんなこと言わないでよ」


 母親の死を目撃したトラウマから、「自殺」という言葉は楡の涙腺るいせんの引き金となっている。赤の他人の自殺報道でさえ楡の胸を苦しめるのだから、すでに愛着を抱きつつある柊からはその二文字を決して聞きたくなかった。

 


「でもね、楡、私、楡のおかげでもう大丈夫。正直、自分がこんな風にまた笑える日が来るなんて思わなかった。楡のおかげだよ。だから、楡、ありがとう」

「いや、僕は何も……」


 楡は言葉を続けることができなかった。机に突っ伏して泣き始めた楡の頭を柊が優しくでる。


「楡は優しいね。私の分まで泣いてくれて」

 




 閉店時間の午後11時に,追い出されるようにして喫茶店を出た楡は、とりあえず柊を津田沼駅まで送ることにした。


 結局、柊とは3時間以上も一緒にいたが、柊のプライベートなことは何も聞けなかった。

 柊がホームで自殺を図ろうとした理由も聞けていない。

 


 津田沼がさかえているのは駅前だけであり、今2人が歩いている路地には街灯のあかりすらほとんどない。

 それでも柊の白い肌は僅かな光を集め、ほのかに光っているように見えた。

 


「ねえ、柊はどこに住んでるの?」

 駅に着くまでにこのことだけは確認する必要があった。

 もしかしたら柊は家出をしているのかもしれない、という心配があったからである。仮に柊に帰る場所がないのならば、このまま別れるわけにもいかない。

 


「私、家には帰れないんだよね」

 楡の心配は当たっていたようだ。

 

 

「じゃあさ、津田沼に泊まっていきなよ。寝床は用意するから。僕の家が嫌だったら、ビジネスホテルの一室を借りてあげる」

「いや、いいよ。泊めてくれる友達のあてならあるから」

「そうか。ならいいけど……」


 どちらが先を行くということもなく、2人は横並びで歩いている。肩が触れ合うことはないが、ふとした拍子ひょうしで腕が当たりそうな距離だ。



「じゃあさ、柊、連絡先交換してよ」

 

 柊が足を止めた。それに合わせて楡も足を止める。

 

 しかし,楡の期待通りに柊がポケットから携帯電話を取り出すことはなかった。

 


「楡、どうして?」

「え?」

「どうして私の連絡先が知りたいの?」

「柊が好きだから」

 

 柊は暗闇の中で目を細めて楡の顔をうかがう。

 負けじと楡も柊を見返す。


「嘘つき」

「いや、嘘じゃないよ。僕は柊のことが好きなんだ」

「違う。楡は私を心配してるだけ。私が困ったときに頼れるように連絡先を交換したいだけ」

「なんでそう思うの?」

「楡は優しいから」

「そんなことないよ。僕は自分勝手な人間だ」

「じゃあ、どうしてさっきビジネスホテルを選択肢に入れたの?」

「いや…それは……」


 柊のふくみ笑いは、楡の困った顔を楽しむようだった。

 


「理由なんてどうでもいい。僕は柊の連絡先が欲しい」

「本当にいいの?」

「何が?」

「私と関わると不幸になるよ」

 

 口角こうかくの動きに合わせて、柊の口元のホクロの位置が少し上がる。

 楡には柊の微笑ほほえみの意味が分からない。言葉の真意だって分からない。柊がそれを冗談で言っているのか、本気で言っているのかすら分からない。


 ただ、楡の答えは一通りしかない。



「もうすでに関わってるから」

 

 楡はポケットから自分の携帯電話を取り出すと、柊に向かって差し出した。


まず、本来ならば前回書くべきだったのですが、感想をいただいた結城亜美様、ありがとうございました。

 結城亜美様は、「このくちづけを永遠に」というタイトルで長編小説を書かれています。衝撃的な展開からスタートする復讐劇で、様々な登場人物と様々なギミックが織りなす壮大なファンタジーになっております。作品のファンの一人として、この場を借りて紹介させていただきます(本当はリンクも貼りたかったのですが、僕の技量不足でできませんでした……)。

 

 そして、この話で「非運命」の章が終わりました。

 いわゆる「叙述トリック」を使わせてもらいました。地の文によって読者を騙す、推理小説でたびたび用いられるトリックです。

 本章では、楡が柊に一目惚れをしたためにナンパをした、というミスリードを狙って地の文を書きました。他方、ズルにはならないように「一目惚れ」等の好意を直接的に表す言葉は使ってはいけないので、書いているときにめちゃくちゃ神経を使いました。

 とはいえ、楡の柊に対する本当の気持ちについては保留です。これから頑張って書いていきたいと思います。

 今後とも引き続き応援よろしくお願いします。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ