初夜(3)
-安原柊として死ぬこと。
楡にはその言葉の真意は分からなかったものの、その言葉が深い悲しみを携えていることだけはすぐに分かった。
「あの日、私は、孤児院のあった木更津から市川に向かうため電車に乗った。内房線の千葉駅行きの電車。本当だったら私じゃなくて柊が乗るべきだった電車だね。電車に乗ってるとき、有菜ママからメールが届いた」
澄花は乱れた感情を隠すために、なるべく淡々と話すように努めているようだった。
しかし、彼女の声は震えていた。
「有菜ママのメールの内容は、こうだった。『澄花、そのカバンを持ったまま、駅のホームに飛び込みなさい』。」
悪意を隠すつもりなど微塵もない、あまりにも端的なメールである。
澄花は、「死ね」と言われたのだ。
3年以上一緒に生活し、母親代わりを務めてくれた人に。
「……どうして?」
「私もメールの返信で有菜ママに訊いた。『どうして?』って。そうしたら、すぐに有菜ママから返事が来た。『カバンの中に柊の保険証の入った財布がある。だから、澄花がカバンを持って事故死したら、柊が事故死したことになる』。」
澄花にとっては理不尽この上ないが、ロジックとしては理解できる。
澄花と柊を入れ替える上で、有菜ママと柊にとっての最大の懸念は、澄花が改めて遺伝子検査を受けることである。澄花が遺伝子検査をすれば、殺対が遺伝子検査の結果がすり替えられていることに気が付き、柊が殺対に連れて行かれてしまう。
澄花に今後遺伝子検査を受けさせないための最良の方法は、言うまでもなく、澄花をこの世から葬ってしまうことである。
澄花が死ねば、澄花が殺対に捕まって安楽死前の再検査を受けることはない。
それに加え、死人に口無しとなれば、澄花が自ら殺対にすり替えを告発することもない。
柊は、安穏の下で生活できることになる。
とはいえ、有菜ママと柊の目的の達成のためには、澄花が死ねばそれでいいのかといえば、違う。
澄花は、柊として死ぬ必要がある。
澄花が澄花として死んでしまえば、澄花になりすましている柊が社会で生きていけなくなる。澄花はすでに鬼籍に入っているため、柊が澄花名義で病院の診療を受けたり、社会保障を受けたりすることができなくなってしまう。
そして、澄花を柊として死なせるためのもっとも手っ取り早い方法は、柊しか持っているはずのない物を持たせた状態で澄花を死なせることである。
澄花に柊の保険証を持たせた状態で轢死させれば、捜査機関は大して捜査もせずに、保険証だけを確認して、澄花の死体を柊の死体として処理する可能性が高い。
「そんなのオカシイじゃないか!澄花が有菜ママの言うことを聞く必要は一切ないよ!澄花は澄花として堂々と生きればいいじゃないか!」
楡は憤慨する。
楡の一番大切な人が、人格を無視され、身代わりの藁人形のように扱われたのである。虫酸が走るなんてものでは済まない。
「じゃあ、楡は柊に死ねというわけ?」
「……それは仕方ないでしょ。元々は柊が殺人遺伝子を持ってるわけだから」
「楡、それ本気で言ってるの?」
柊の尖った口調が楡を非難する。
「楡は誰よりも分かってるでしょ。殺人遺伝子を持っている、という理由だけで安楽死させられることが間違ってることを。殺人遺伝子を持ってる人を特別に扱うことは単なる差別だっていうことを」
澄花の口から流れ出る言葉は全て正論であり、澄花と出会ってからの日々を通じ、楡の血肉となっているものだった。
「だからといって、澄花が犠牲になる必要はないじゃないか」
「私にとって柊はかけがえのない親友だった。大切な人だった。私は柊のためだったらなんでもできる」
楡は、楡自身と議論しているような不思議な気分になった。
楡が澄花を殺人遺伝子保有者と認識した上で匿っていたように、澄花も、柊を殺人遺伝子保有者と知った上で守ることを決意していたのである。
「それに、柊は本当にいい子だった。しっかりしてて、頭が良くて、気遣いもできて。私と柊のどっちが生きていくにふさわしい人間か、って比べたら、間違いなく柊の方が生きていくのにふさわしい」
「ふざけないで!なんでそんなこと言うんだよ!もっと自分に自信を持ってよ!」
声を荒らげた楡に対して、澄花が感情的になって反論する。
「ふざけてなんかない!楡は全然分かってない!」
「……何が分かってないって?」
「私、2回も捨てられたんだよ?1回目は実のママで、2回目は有菜ママ。自信なんて持てるはずないでしょ!」
「それは……」
「私は実のママからも、有菜ママからも必要とされなかった。私の命には価値がない。こんな価値のない命も、捨てることによって柊のためになる。私は喜んで命を捨てようと思った」
澄花の口調は、再び淡々としたものに戻っていた。
「生きたい」という欲求は、人間にとってもっとも根本的で強烈なものである。
しかし、そんな生理的欲求が消え去るくらいに、澄花の人生には魅力がなかった。本来愛情をくれるべき人から見放されたことは、澄花の世界から光を根こそぎ奪っていた。
生に絶望した澄花は、ついに死に憧れてしまったのである。
「だからあのとき、私は有菜ママの言う通り、駅のホームから飛び降りようとした。乗り換えのために降りたJR千葉駅のホームを私は死に場所に選んだ。不思議なことに、私は、私を轢いてくれる電車がホームに来るのが待ち遠しかった」
それくらいに澄花にとって生きることは辛かったのだろう。早く死んで楽になりたい、と思うくらいに。
「実際にホームに走ってくる電車を見たときも、怖さは全然なかった。私は電車が近付いてくるのを待った。だって、早めに飛び降りたら、電車が気付いて急ブレーキ掛けるかもしれないでしょ?私が死ねないかもしれないでしょ?」
自殺をする直前だというのに、あまりにも冷静である。恐怖や焦りといったものは、生に拘らなくなった瞬間に消滅するということかもしれない。
「でも、私は死ねなかった。楡が助けてくれたの」
ついに澄花のストーリーと楡のストーリーが繋がった。
あのとき、楡が澄花に声を掛けたのは、澄花からただならぬ様子を感じたからである。しかし、まさか澄花がここまで重い十字架を背負っていたとは想像していなかった。
「初めて楡の顔を見たとき、私がどう思ったか分かる?」
澄花は一呼吸を置いて楡の回答を待ったが、楡は何も答えることができなかった。自分が他者にどのような第一印象を与えているかということなど考えたことがなかった。
「私、楡に一目惚れしちゃったの」
「そんなバカな」
「ううん。本当だよ」
澄花は楡に顔を近づけると、楡の唇を啄むように何度もキスをした。戯れ合う様子に反して、キスの味は涙で塩辛かった。
うふふ、と澄花は可愛らしく微笑む。
「息が上がってたから、楡がホームを走ってきたことはすぐに分かった。もちろん、私を助けるために走ってきたんだ、ってことにもね。そんなのカッコイイに決まってんじゃん。まさに白馬の王子様だよ」
「そうかな?」
楡のパッとしない容姿は王子様からは程遠い。
「その王子様が、私に『お茶をしよう』って誘ってきたの。そんな素敵なことなんて滅多にないよ」
あのとき、澄花が自殺を図っていたという確信を持っていなかった楡は、突然声を掛けてしまったことの不自然さを取り繕うために、澄花をナンパした。
今考えれば、他にも方法もあったはずだ。時間を訊く、路線を聞く、「ごめんなさい。人違いでした」と謝る等々。
どうしてあのとき楡の頭に浮かんだ選択肢がナンパだったのかは分からない。
しかし、あのとき仮に違う選択をしていたすれば、今の楡と澄花との関係はありえなかった。楡は、澄花とも殺人遺伝子とも無縁の、普通の修習生活を送っていたはずだった。
「『捨てる神ありば拾う神あり』じゃないけど、有菜ママに捨てられた私のことを、楡が拾ってくれた。楡が必要としてくれるんだったら、私の命にも少しは価値があるのかな、って思った」
「そうだよ。僕には澄花が必要なんだ。もう自分の命に価値がないなんて思わないでよ」
「ありがとう」
楡の視界いっぱいに埋まった澄花の顔がくしゃっと笑う。
「あの日、楡と過ごした津田沼の喫茶店でのひとときは、私にとって天国だったなあ。その直前まで地獄にいたからっていうのもあるんだけど」
「ナンパした側としては、そこまで言ってもらえると光栄だよ」
「もう」
照れ隠しとして茶化す楡の頬を、澄花の細い指がチョンと突いた。
本作に感想を寄せて下さった松村道彦様、ありがとうございました。
松村様はものすごく多筆な方で、更新速度も早い上に、現在は一気に2作の連載を抱えています。
今回僕が紹介させていただくのは、その内の1作「八人の魔王がいる世界でシスターの私にできること」です。この作品は、王道PPGを模したような世界観で描かれているのですが、仲間を一人一人増やしながら冒険を進めていく様子がとても楽しいです。
松村様の作品ってものすごくポップなんですよ。わざと売れ筋を狙っているわけではない思います。おそらく松村様が書きたい作品と、読者の読みたい作品が一致しているんだと思います。小説家としては最高の才能だな、と内心めちゃくちゃ羨んでいる菱川がここにいます。僕が書きたい作品をそのまま書いたら、きっと女性キャラクターは全員バストサイズAorBの巫女さんになると思います(つまり、性癖が歪んでいる)。
さて、前話で「次話で第3章が終わる」と宣言していたのですが、書いているうちに長くなってしまったので、本来「初夜(3)」としてまとめる予定だったものを「初夜(3)」「初夜(4)」と分割して掲載することにしました。
こんなイチャイチャした描写で第3章を締める気など毛頭ないので安心してください←
最後に、1200pt、60000PV突破に対して、皆様に厚く御礼申し上げます。




