暴露(1)
「おかえり。遅かったね」
クッションにもたれかかる柊の力ない声に反応することなく、楡はコートを着たまま、柊の肩を掴んだ。
突然楡に乱暴な態度をとられたことに驚き、柊が身体を硬直させる。
「……楡、何?」
楡を見上げる柊の目は怯えている。
「柊、君を霞ヶ関の殺対本部に連れていく」
「……私を殺対に突き出すの?」
柊がか細い声を出す。
「そうだよ」
「私のことが邪魔になったの?」
少し間を空けて楡が答える。
「そうだよ」
柊の目尻から滴る涙は、重力に従って、頬を通って首筋に流れた。
柊の真顔は、自分が泣いていることに気付いていないかのようだった。
「楡は私に死んで欲しいんだね」
「……そうだよ」
今まで柊を支えていた糸がプツリと切れたかのように、柊が首をもたげる。
無地のカーペットに視線を向けながら、柊が呟く。
「……嫌だ」
「え?」
「嫌だ!私、殺対になんて行きたくない!」
再び楡を見上げた柊の目には、先ほどと違って力が宿っていた。
力の正体が怒りなのか憎しみなのかはたまた別の何かなのかは、楡には判別がつかない。
「柊、それだと困るんだ。僕の指示に従って」
「絶対に嫌だ!そんな指示に従えるわけない!」
「じゃあ、しょうがないね」
楡は部屋を離れると、廊下との区別のない台所に向かい、鈍色の物に手を掛けた。
部屋に戻ってきた楡の手に包丁が握られているのを見た柊は、声にならない声を出した。
「柊が殺対に行ってくれないんだったら、僕はここで君を殺す」
楡は柊の首筋から5cmくらい離れたところに包丁を突きつけた。刃体に映った柊の顔が白くぼやける。
「……楡、そんなに私に死んで欲しいの?」
「そうだね。もう疲れたんだ」
柊は真っ赤に充血した目でしばらく楡を見つめる様子は、まるで命乞いをするかのようだったが、違った。
柊の口から出た言葉は、命乞いとは真逆のものだった。
「いいよ。楡、私を殺して」
楡は包丁を持つ手をゆっくりと降ろすと、そのまま包丁をカーペットの上に置いた。
「……柊、そんなこと言わないでよ」
「なんで?だって、楡は私が死んだほうが幸せなんでしょ?」
柊が楡を見つめる様子は、首に包丁を突きつけられていたときと変わりがない。安心したような様子は一切見られない。
「そんなわけないでしょ。だって、僕は柊のことが……」
「好きだから、でしょ?」
「……ああ」
甘いはずの言葉が、柊の怒りの導火線になった。
「楡の『好き』は信用できない!楡が私に『好き』っていう場面はいつも決まってる!楡が私に『好き』って言ってくれるのは、私が人生に絶望し、自暴自棄になったときにだけ!」
柊の言う通りだった。
何も反論することのできない楡に対して、柊はさらに言葉を浴びせる。
「楡は私を励ますための方便としてしか、『好き』って言ってくれない!本当は私のことなんて好きでもなんでもないから。単に可哀想な子だって思ってるだけだから……」
「それは違うよ。僕は本当に柊のことが好きだから」
「そういう嘘はもういい!」
「違う。嘘じゃない。たしかに今まで僕は『好き』という言葉を柊を慰めるためだけに使ってきた。今までの僕の『好き』には心はこもってなかった。柊の言う通りだ。だけど、外に出せなかっただけで、僕の心の中には柊への恋愛感情があったんだ」
楡は色白の美少女をまっすぐ見つめた。
誰だって一目惚れしてしまうような美しさである。
ただ、この子の本当の美しさを知っているのは、多分楡だけだろう。
「今、初めて本当の気持ちを言うよ。柊、僕は君のことが好きだ」
「楡……」
この後の柊がどのようなものであれ、楡はこれだけは伝えなければならないと思っていた。
それが約1年間を一緒に過ごした少女への礼儀であり、感謝なのだと思う。
柊の反応は楡にとって意外だった。
柊は、一旦は渇いていた瞳を潤ませ、号泣した。
「楡……ど、どうして今まで言ってくれなかったの?わ、私のことが本当に好きだったら、『好き』って言ってくれればいいのに。ち、ちゃんと言ってくれなきゃ伝わらないよ……」
「言えなかったんだ。僕は柊を匿う立場だったから。僕が柊に無理矢理関係を迫って、柊がそれに応じたくないと思ったら、柊は僕の家に居られなくなっちゃうでしょ。そうなったら柊は困るでしょ?」
それに、そもそも楡が柊に対して抱いてしまった恋心は勘違いの産物である可能性がある。
柊は、楡に縋って生きるのが唯一の生きる手段だから、楡に好意的な態度をとっているだけなのかもしれない。にもかかわらず、その好意的な態度によって楡が柊のことを好きになってしまったとすれば、それは愚かな勘違いである。
「……楡、どうして私が楡の告白に応じないって決めつけるの?」
「自信がないから。柊が僕に『好き』って言ってくれたことは一度もないし……」
そうだ。柊は楡に懐いてはいたものの、楡に恋愛感情を抱いていることを直接的に示すような言動は一切なかった。
だから、楡は、柊が楡に対して望んでいるのはあくまでも居場所の提供であり、それ以上のものは求めていないと考えていた。
「ちゃんと『好き』って言わなかったのはお互い様でしょ?私だって、自信がなかったの。楡は優しいから、私に同情して、嫌々家に置いてくれてるんだと思ってた」
「嫌々?そんなわけないよ。僕は柊と一緒に暮らすことができて本当に良かったと思ってるんだから」
「でも、楡、私のこと避けてたよね?一時期、全然家に帰って来ない時期もあったし。私、すごく寂しかったんだから。楡以外に話し相手もいなんいんだからね?気が狂うよ……」
「ごめんね。あれには事情があって……」
「事情?どういうこと?私、楡と違ってバカだから、難しいことは分からないよ?」
楡が三浦さんと毎日コーヒーショップに通っていたあの時期、柊は家で終始不機嫌で、楡とほとんど口を利いてくれなかった。
対照的に、久しぶりに2人きりで出掛けた日には、妖怪展という白けた場所でさえ柊は子供のようにハシャいでいた。
柊の発していたメッセージはあまりにも明快だった。
「楡の進めているフランス国外逃亡計画は間違っている」。
あのとき、楡が柊の発していたメッセージに素直に耳を傾けるべきだったということを、今の楡は確信している。
「ごめん。これからは二度とそういうことがないようにするよ」
「私、うさぎさんだから放って置かれたら寂しくて死んじゃうからね。浮気なんてされたら言語道断」
もしかしたら、柊は勘付いていたのかもしれない。楡が家に帰って来ない間、柊以外の異性と会っていたことを。
柊のため、と言い聞かせながら、今までの楡は柊を傷つけることばかりしていた。
約一年間、長い遠回りだった。
千葉駅のホームでのあまりにも歪な形での出会いが、二人の関係を複雑にした。
匿う者と匿われる者という関係。
楡は柊に対して抱く感情が、柊を守らなければならないという責任感から湧いてきているものなのか、それとも単純に柊に惚れているから湧いているのかが分からなくなっていた。
きっと柊だって同じだろう。楡が匿う者であるがゆえに柊に優しく接しているのか、楡が恋愛感情ゆえに柊に優しく接しているのかが分からなかったはずだ。
匿う者と匿われる者という関係の外に出たいと思いながらも、臆病な二人は一歩を踏み出すことができなかった。
そうやって何事もなく進んで行く日常は、二人をさらに雁字搦めにし、二人の心をより見えなくした。
絡んだ糸を取った奥にある感情は、とてもシンプルなものであるというのに。
「柊、まだ答えが聞けてないんだけど」
「何?答えって?」
「僕、さっき柊に告白したでしょ。『好きだ』って。その答え」
「……え?答えなきゃダメなの?」
「ちゃんと言ってくれなきゃ伝わらないよ。僕もバカだから」
楡が冗談めかして言うと、柊は吹き出した。
「真似しないでよ……楡のバカ」
「バカなんて言わないでよ」
「……好き。私も楡のことが好き」
楡が柊の腰に手を回す。
ぬいぐるみのように柔らかい身体を抱くと、柊は突然顔を覆った。そして、嗚咽を漏らし始めた。慌てた楡は、腰から手を離す。
「柊、どうしたの?」
「ど、どうしよう……私……私……」
「何?」
「生きたくなっちゃった」
「え?」
「殺人遺伝子保有者で、殺人犯なのに、私、いつまでも楡と一緒に生きたくなっちゃった」
それは楡が待ち望んでいた言葉だった。
これで大丈夫。
ようやく楡が本当に彼女を救うことができる。
楡はカーペットに落ちていた包丁を拾い上げると、再び柊の首筋へと突きつけた。
「柊、やっぱり僕は柊を殺す」
本作に感想を寄せて下さった⭐︎青明様、ありがとうございました。
⭐︎青明様は、「青いバラ-blue rose-」という作品を本サイトで完結されており、現在、続きとなる作品を執筆中です。
この作品は、人体に対する遺伝子組み換えという禁忌によって人生を狂わされた二人の男女の運命を描いた作品です。そうです。「殺人遺伝子」と同様の遺伝子ものなのです。「青いバラ-blue rose-」では、遺伝子によって発現する人間の見た目の醜悪というものが一つの大きなテーマになっています。生々しいテーマを扱いながらも、苦境に前向きに立ち向かっていく登場人物の姿勢から、生きていくことの素晴らしさを伝えてくれる、そんな素敵な作品です。幅広い読者層が楽しむことができる名作です。




