利用(1)
「佐伯君、明日空いてる?」
三浦さんのメールを受信したのは、土曜日の夕方、自宅の部屋の中だった。
言うまでもなく、部屋には柊がいる。柊は、佐渡を殺したあの日から一度も楡の家から出ていなかった。
疲れとストレスから生気がなくなり、すっかり色褪せた美少女は、クッションに座ったり、壁にもたれかかったりしながら、休日を無為に過ごしていた。
それは楡も同じで、柊に話しかけることもなく、ただぼんやりとしている。
少しでも頭を働かせれば、楡と柊が置かれている絶望的な状況が嫌でも頭に入ってきてしまうため、頭を働かせないことが楡の精一杯の自己防衛だった。
楡は自宅で柊と一緒にいられる限られた時間を大切にしたい。
ただ、「柊と過ごすこと」が自己目的化した日々にはどうしても虚しさが付随する。
柊がそばにいることで、楡の精神は安定していっているのか狂っていっているのかが分からない。
そんな状況の中での三浦さんからの休日の誘いは、楡にとって、内心ありがたいものだった。
「今日は佐伯君のために、ビーフシチューを作ってみたんだ」
待ち合わせ場所の小岩駅改札口で合流した三浦さんの最初の一言は、魂の抜けた楡を目覚めさせるのに十分な衝撃を与えた。
「え?今日って、三浦さんの家に行くの?」
「そうだよ。あれ?佐伯君、私が小岩に住んでること知らなかったっけ?」
「知ってるけど、まさか三浦さんの家に行くとは思ってなかった…」
待ち合わせ場所を小岩に指定されたとき、楡は、三浦さんがよく見知った地元の、三浦さんの顔なじみの店に行くのだろうと思っていた。
「っていうか、三浦さんの家にお呼ばれしちゃっていいの?婚約者は?」
「いないよ。だから、大丈夫」
今日は日曜日である。渉外事務所で働く板野先生は、休日返上で働かされているらしい。
三浦さんの家は、新築タワーマンションの16階にあった。
同じ司法修習生であっても、狭いオンボロアパートに住んでいる楡とは生活水準が大違いである。
高級マンションは三浦さんの気品に似つかわしかった。
玄関に入った途端、楡は三浦さんの良い匂いに包まれた。この家に住んでいるから三浦さんは良い匂いがするのか、三浦さんが住んでいるからこの家は良い匂いがするのか、とかいうどうでも良い疑問が楡の頭に浮かぶ。
靴が行儀良く並べられた靴箱、散乱するものなど何もない廊下は、三浦さんの整然とした内面そのものに見えた。
「三浦さん、洗面台ってどこにあるの?」
「廊下を少し進んで左にあるよ」
適温のお湯で手を洗いながら、楡は三浦さんの家の、やはりよく整理された洗面台を観察する。
ふと、ある違和感が楡の心を捉える。
「あれ、三浦さん、婚約者の歯ブラシとか髭剃りは流しに置いてないの?」
流しにある歯ブラシは赤いものが一本のみ。流しにある他のものも化粧落としなど、女性用の道具ばかりだった。
「彼ならもう出て行ったよ」
「え?」
ショックで固まってしまった楡を尻目に、張本人はあっけらかんとしていた。
「彼とは別れた。つい三日前ね」
得も言えぬ緊張感が楡に走る。
楡は急に三浦さんとの距離感が気になり始めた。
洗面台の前に立つ楡と、その背後に立つ三浦さんとの距離は10cmくらいしかない。楡が少しでも動こうものならば触れてしまう距離だ。
今の三浦さんはフリーだ。
楡と三浦さんが友達以上の関係になることが許されている。
三浦さんがフリーだとすると、三浦さんが楡を家に呼ぶことの意味合いも大きく変わってくる。
三浦さんは、楡と男女の関係になることを望んでいるのではないか。
-いや、そうとは限らない。
楡とは男女の関係にはなり得ないと考えたから、安心して楡を家に呼んだという可能性だってある。
楡は洗面台の鏡越しに三浦さんの表情を窺う。
三浦さんの顔には、修習中いつも見せている飄飄とした表情が張り付いていた。
三浦さんのエスコートで向かったダイニングキッチンには、三浦さんの匂いとは違った良い匂いが充満していた。
ビーフシチューの匂いである。
唾液がジュワーっと口の中に広がる。
「ビーフシチューは私の得意料理なんだ。まぁ、誰でも作れるんだけどね」
「そんなことないよ。少なくとも僕は作れない」
「作ったことないだけだよ。カレーと一緒だよ。入れるルーが違うだけで」
三浦さんは慣れた手つきでエプロンを装着すると、キッチンへと向かった。
「あ、佐伯君はテーブルで待ってて。盛り付けするから」
テーブルに次々と並べられる料理を見て、「誰でも作れる」という三浦さんの発言が謙遜以外の何物でもないことが分かった。
彩り、形、大きさ、比率が完全に計算され尽くした具材。抽象画のように美しい生クリームの模様。見た目だけでとろける食感が伝わってくるようなホロホロのお肉。まん丸に盛られた、うっすらと色の付いたお米。
三浦さんの作ったビーフシチューは家庭料理のレベルを優に超えていた。
さらに、三浦さんが楡に用意してくれた料理はビーフシチューだけではなかった。サーモンを使ったサラダと、ほうれん草のグラタンがそれぞれ小皿に入った状態で楡の目の前に現れた。
何時間も手間暇を掛けて作ったものだということが、料理をほとんどしない楡にだって分かる。
「すごい……」
褒めるべき点を絞ることができず、漠然とした感想が口から零れる。
そんな小学生レベルの感想でも、三浦さんは満面の笑みで喜んでくれた。
「さあ、召し上がれ」
三浦さんの料理の味は、楡の語彙力をさらに奪っていった。
頭で感想を考える前に、「美味しい」「柔らかい」といった単純な言葉が自然と口から出てきてしまうのである。
もちろん、料理を離れて雑談をすることなどできるはずがなかった。
それくらいに三浦さんの料理は、楡を夢中にさせた。
楡の目の前のお皿はあっという間に空になり、それを三浦さんがすかさず片付けていったため、テーブルの上はすぐに何もない状態へと戻った。
「ごちそうさま。本当に美味しかった」
「完食してくれてありがとう」
流しでお皿を洗いながら、三浦さんが笑顔で答える。
「『ありがとう』は完全にこっちのセリフだよ。三浦さんには日頃からお世話になりっぱなしなのに、こんな美味しい料理まで振舞ってもらっちゃって」
「今日の料理は慰謝料みたいなものかな」
一瞬、楡は聞き間違いをしたかと思った。
三浦さんの声には流しの水の音が被っているから、上手く聞き取れなかったのだ、と思った。
しかし、三浦さんの次の一言で、三浦さんはたしかに「慰謝料」と発言したことが分かった。
「佐伯君、今まで騙して、利用しててごめんね」
本作に感想を寄せて下さった(*ToT)さん、ありがとうございました。
(*ToT)さんは、このサイトにおいて「元カノは魔法少女~別れを告げたあの子から毎日迫られて困っています~(旧:元カノが魔法少女だったなんて知らなかった俺は、あの子から必死に逃げ回っている)」というファンタジー作品を投稿されています。
この小説は、ネット小説大賞の、ミニピックアップに選ばれています。ちょっとヤンデレ気味の元カノが実は魔法少女だったことを知った主人公。しかし、主人公は魔法などという面倒なものとは関わりたくないという理由で、元カノの魔法少女を必死で遠ざけます。「魔法少女」という心ときめくものをぞんざいに扱うというユニークな設定と、一筋縄ではいかない練りこまれた展開が魅力の、未知数な作品になっています。
あぁ、魔法少女の彼女欲しい←
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