非運命(3)
柊は本当にこんな喫茶店で満足しているのだろうか。
たしかに楡の知っている地元の喫茶店の中では、もっとも調度に凝った店である。
とはいえ、楡は地元にある喫茶店を片手の指で数えられるくらいの件数しか知らない。一人で勉強をするときくらいしか喫茶店を使うことはないため、店の装飾はおろか、BGMにすら一切気を配ったことはない。
「いいお店だね」
柊の発言はあたかも楡の気持ちを慮ったかのようだった。楡がキョロキョロと店内を見渡していたことに気付いたのだろう。
「本当ですか?」
「うん。今まで来たことある店の中で一番素敵かも」
「え?さすがにそれはないですよね?」
給仕の女性に睨まれたことで、知らぬ間に声のボリュームの上がってしまっていたことに気付く。楡は女性に軽く会釈して謝意を示す。
「ううん。私、ほとんど家から出たことがなくて」
「そうなんですか?」
「私、学校に行ってないんだ」
「高校も?」
「うん。もっと言うと、小学校も中学校も通ってない」
2042年、この国の義務教育制度は終わった。教育は国民の義務から、単なる権利となった。
とはいえ、小学校・中学校の学費は依然として無料だったし、児童労働も禁止されていたため、中学校までの進学率は97%を超えていた。
教育を受ける権利を放棄したのは、主にいじめを受けるなどして学校に馴染めなかった子である。元々義務教育制度が廃止されたのも、いじめによる自殺者が後を絶たないことへの対処が最大の目的だった。
もちろん、画一的な教育を国が押し付けることに反対する親の意見もあった。現に、子供を学校に通わせずに塾や予備校にだけ通わせたり、親自身が勉強を教えたりしている家庭も僅かながらあるそうだ。
しばらく会話が止まる。
小学校への進学率が何%かという具体的な数字は知らない。ただ、中学校への進学率ですら97%以上あるのだから、おそらく100%に近いのだろう。
柊が小学校にすら通っていないことには複雑な家庭の事情があるに違いなかった。
初対面でそこを掘り下げるわけにはいかない。
楡は話題を変えることにした。
「安原さん、今日どうして千葉駅にいたんですか?買い物ですか?」
「ちょっと待って。佐伯さんって私よりも年上だよね?」
「そうです。多分」
「だったら、敬語使うのやめてくれない?私、世間知らずで学もないから、敬語が使えないんだ。だから、佐伯さんもタメ口でいいよ。いいよ、って私が許可するのもなんか変だけど」
正直、柊に敬語を使うことには自分でも違和感があった。
柊の美貌には頭が上がらない。楡と柊の人間の価値を天秤で測れば、おそらく柊の方に傾く。ただ、敬語を使うかどうかの基準はそういうことではない。
それに、楡的には問題はなくとも、10代の少女に敬語を使う20代後半の男性が周りからどのように見えるのかも考えなければなるまい。
「じゃあ、タメ口にするね。安原さん、どうして千葉駅に…」
「安原さんもやめて。柊でいいよ。その代わり、私も楡って呼ぶから」
柊がいきなり距離を縮めてきたことに戸惑った楡は、え、あ、と口籠る。
柊はそれを承諾と捉えたようで、早速、「ねえ、楡」と声を掛ける。
「楡はどうして千葉駅にいたの?」
「僕?僕の場合は職場が千葉駅にあるから」
「お仕事は何?」
「うーん、正確にいうと、仕事ではないんだよね。裁判所で研修してるんだ」
「研修?」
「そう。司法修習生っていうんだけど……簡単に言うと、弁護士の卵」
「楡、弁護士になるの!?」
「弁護士になるかは分からないんだけどね。裁判官とか検察官になる道もあるから」
「とりあえず、頭良いってことでしょ?」
「いや……」
弁護士、裁判官、検察官の3つの職業を合わせて、法曹ないしは法曹三者という。
法曹になるためには司法試験に合格しなければならない。
司法試験は日本で最難関とされている試験である。
1999年に開始した司法制度改革では、裁判員裁判の導入とともに法曹人口の拡大が目指された。つまり、司法試験の合格者を倍増させる方針が決定された。
しかし、法曹人口の拡大は結果として弁護士のワーキングプアを生み出し、社会問題化した。
その反省から2025年、政府が法曹人口拡大方針を放棄し、司法試験合格者は以前の水準である600人程度まで下げられ、一時的に緩んでいた狭き門が再び引き締められた。同時に弁護士という職業は、子供たちの憧れの職業の座へと返り咲いた。
だから、司法試験合格者は頭が良い、というのは、大抵の場合において正しい。
ただ、楡は違う。
楡は司法試験に5回落ち、6回目でようやく合格した。頭が良いのではなく、単に諦めが悪かっただけである。機を見て他の道にシフトできるような器用さがなかっただけである。
「僕はギリギリ司法修習生って感じかな。司法修習生の最底辺」
「でもすごいよ!名前を書くだけで受かるような試験ではないんでしょ?」
「それはそうだけど……」
「それに比べて私なんか……」
学校に一切通ったことのない柊に対して、楡がいくら謙遜したところで厭味にしかならない。
「勉強なんかできなくても、柊は魅力的だよ」と声を掛けてあげるべきだったと思うし、それが楡の本心でもあった。
しかし、あれこれ言葉を悩んでいるうちに機を逸してしまった。
考えすぎて結局何もできないのが楡の生来の悪癖である。
そういえば、いつの間にやら話が逸れ、柊が千葉駅にいた理由を聞きそびれている。
もしかしたら、柊は今日千葉駅にいた理由を楡に話したくなくて、わざと話題を変えたのかもしれない。
そう思うと、三たび柊に同じ質問をするのが躊躇われた。
その後の時間は、好きな芸能人の話だとか最近ブームになっているレジャー施設の話だとか、当たり障りのない話をして過ごした。
柊の家庭環境や個人情報についてはなるべく触れないようにしていたが、ふとしたきっかけで柊の年齢だけは確認できた。
17歳だそうだ。
楡とはちょうど10歳差だった。
最初駅で声を掛けたとき、楡は,柊のことを冷たい女性だと思っていた。
地声の低さや血色の悪い白い顔から勝手に決めつけたのだ。
しかし、初対面であることの緊張が解け、楡の大して面白くもない話にキャッキャと笑う柊はごくごく普通の17歳の少女だ。
そんな柊を見ていると,楡も釣られて笑顔になる。
度胸を出してこの子をナンパしたことによる報酬は十分過ぎるくらいにもらえた。
「楡、今日は本当にありがとう」
「やめてよ。突然改まってどうしたの?」
柊の表情は、流行りのお笑い芸人のネタを真似する楡を見てバカ笑いをしていた先ほどとは打って変わって、真顔だった。
「楡には本当に感謝してる」
「いや、感謝してるのはこっちの方だよ。こんな醜男のナンパになんか引っかかってくれてありがとう」
「ぶおとこ?」
「ブサイクって意味」
「楡はブサイクなんかじゃないよ。それに……」
柊の次の言葉は楡の想像から排除されていたものだった。
「楡はナンパなんかしてない」
柊は猫のような大きな瞳で、楡をまっすぐ見つめている。
楡は柊の真剣な眼差しを一笑によって振り払う。
「何言ってるんだよ。駅のホームで知らない女の子に声を掛けてお茶に誘う。どう考えてもナンパでしょ」
「違う。楡は私をお茶に誘うために声を掛けたんじゃない。楡が私に声を掛けてくれたのは……」
やめてくれ。言わないでくれ。それは真実じゃない。
単なる楡の勘違いなんだ。
「私を救うため」
柊はそれを真実に変えた。
「いや、違うよ。僕は柊が可愛いからつい……」
「もうやめて。私は分かってる。楡はそんなチャラチャラした人じゃない」
「一目惚れだったんだ」
「じゃあ、なんで私のところまで走ってきたの?」
「それは柊が電車に乗る前に声を掛けたくて……」
「電車に乗ってから声掛ければいいじゃん」
「それはその……」
「止めたかったんでしょ。私がホームから飛び降りるのを」
今朝、目を覚ましたら驚くべきことに、ptが42まで到達していました。
沖縄へと出発するため、朝3時20分というめちゃくちゃな時間に起きたというのに、そのpt数を見た瞬間、完全に覚醒しました。
小説家になろう内では必ずしも人気の高くない「推理」をジャンルに選んだ段階で、正直pt評価は諦めていたので、ありえないくらいに嬉しいです。
それと、pt数って作者のモチベーション喚起以外にも重大な役割がありまして、たとえば満点評価で10ptをいただけますと、サイト内でのランキングが一気に上昇するわけです。
すると、小説の閲覧者数がグンっと伸びます。ときには10倍くらいにも跳ね上がります。
今回のこの小説の場合、一夜にして30ptもいただけたので、恐ろしいくらいに閲覧者の方が増えるわけです。身震いしますね。震えている場合じゃないですね。さらに頑張って推敲に努める必要がありますね(笑)
とにかく、ブックマークと評価を下さった方々、本当に本当にありがとうございました。