箝口(3)
暦はもう12月だった。日中は晴れていて気温が高かったとはいえ、夜になるとグッと冷え込む。
いちかを連れてどこか温かい場所に移動しようかと腰を上げた楡を、ハッとするようないちかの発言が釘付けにする。
「にれっち、自爆したな」
「え?」
「にれっちの彼女って、安原柊なんやな」
覚悟はしていた。いちかは決して鈍感ではない。
今までの楡の発言や態度は、いちかにとってはあまりにも親切過ぎるヒントだった。
楡は立ち上がったままフリーズした。ここでの沈黙は、イエスと回答することにほぼ等しい。
「で、今日うちを呼び出したのは、差し詰め、『口封じ』と言ったところやな。うちが公安に安原柊の居場所をバラさへんための。どうせ安原柊はにれっちが匿ってるんやろ」
「……うん。そうだよ」
もうお茶を濁すことはできない。
そもそも、いちかが楡の携帯の画像フォルダを見たものと思い込んでいた楡は、楡と柊との関係がいちかにはとっくにバレていると思っていたのである。当初の予定通りに進めればよい。
「口封じのために、うちのこと殺すんかいな?」
ベンチに座ったままのいちかの目は、先ほど冗談で同じことを言ったときと比べ物にならないくらいに真剣だった。
「そんなことしないよ。僕がしたいのは説得」
「にれっちは甘ちゃんやな。口封じには対価が必要やで」
「貯金は少しだけどある。足りないんだったら、手形を切ってもいい」
いちかはニヤリと笑った。
「うちはそんな安い女ちゃうで」
「消費者金融で借金もする」
「ちゃう。うちはお金なんかじゃ買われへん。うちが欲しいものはなあ……」
いちかの小動物のように大きな黒目が楡をロックオンする。
「にれっちや。うちはにれっちが欲しい」
いちかの少し丸みを帯びた女の子らしい指が、楡のコートの裾をギュッと掴む。今の楡の立場上、これを振り払うわけことはできない。
「……いちかに僕をあげるためにはどうすればいいの?」
「その前に一つ確認や」
「何?」
「にれっちと安原柊との関係はなんや?恋人?婚約者?奥さん?」
「実はどれでもない。僕の片想いだから」
楡は正直に打ち明けた。
「ふーん。怪しいけど、ままええわ。そういうことにしておこか。とりあえず、うちと向き合うような格好でベンチに腰掛けてや」
楡が大人しく指示に従うと、いちかは楡の手を握ってきた。
すっかり冷えた手同士が、重なることによって温もりを生み始める。
「まずは態度で示してや」
そう言って、いちかはゆっくりと目を閉じた。
いちかの指示する、楡をいちかのものにするための最初のステップ、それがいちかへの接吻であることは明白だった。
楡はいちかの手を握っていない方の手で、ゆっくりといちかの背中を抱く。
ダウンジャケットの向こう側で、いちかがビクッと反応したことが触感として伝わってくる。
そのまま抱き寄せると、いちかの柔らかそうな唇が楡の唇へと近づいている。
妖艶な厚い唇は、一度触れ合ったら二度と離させてくれそうもない。
二つの唇が外れることがない位置まで接近したところで、楡も目を閉じる。
そして、そのまま……
「よーく分かったわ」
唇が触れ合う寸前、いちかの声とともに、楡は胸に衝撃を受けた。
慌てて目を開けると、いちかの両腕が楡に向かって伸びていた。いちかが楡を突き放したのである。
「いちか、どうして……」
「うちには分かったんや。にれっちにとって、安原柊はホンマに大事な人なんやって。好きでもない女の言いなりになってまで守りたい、と思うくらいに大事なんやって」
「いちか……」
いちかの長い睫毛は再び涙で濡れていた。
彼女は苦しめられているのだ。諦めなければならない恋を前にして、それでも割り切ることのできない自分の想いに。
「フランスにハッキングし、遺伝情報が流用されている事実を日本にリークしたのもにれっちなんやろ?」
黙っている楡に対して、いちかが畳み掛ける。
「当時、フランスが日本人の遺伝情報を流用している事実は、日本国内には全然広まっとらんかった。噂レベルでもやで。そんなマイナーな事実を知っていて、かつ、殺人遺伝子撲滅法に仇をなそうとする人物なんて指で数えられるほどしかおらへん。さらに、にれっちには安原柊を国外逃亡させるという強い動機がある。テロリストはにれっちしか考えられへんな」
「……いちかの言う通りだ」
自白した楡を見て、いちかが溜め息を吐く。
「また、ツマらん弱みを握ってもうたな……」
「僕を警察に突き出しても構わない。その代わり、柊のことは……」
「誰にも言わないで、かいな」
「うん」
パァンという小気味よい音が楡の脳を揺さぶった。
いちかが楡の頭を叩いたのである。
「にれっち、うちのことなんやと思ってんねん」
「いや、それは……」
「うちのことを、フラれた腹いせでにれっちの好きな人に復讐するような、そんなセコい女だと思っとんのか?」
いちかは楡に微笑んだ。
「いちか…」
「うちは安原柊がどうして人を殺したのかを知らん。ただ、にれっちは安原柊が好きなんやろ?安原柊が殺人者となった今でも、安原柊を守りたいんやろ?」
「うん」
「で、うちは一度はにれっちに惚れた女や。安原柊を守るにれっちをうちが守るで」
救済者の微笑みには、一切の翳りがなかった。
「ありがとう」
「ええで」
いちかにはいくら感謝しても感謝しきれない。
いちかとの出会いは、楡にはもったいないくらい素敵な神様からの贈り物だった。
いちかは12月の寒空に向かって腕をまっすぐに伸ばし、大きく深呼吸をした。
アイスのように冷たい空気を、いちかは美味しそうに吸い込んだ。
「うち、もう吹っ切れたわ。にれっち、今まで迷惑掛けてごめんな」
「迷惑掛けてたのはこっちの方だよ。いちかが教えてくれたケーキ屋さんも、いちかが提案してくれた『フランス革命』も、僕は利用した。いちかを裏切ったんだ」
「だから、もうええって」
いちかはひょいっとベンチの上に立ち上がった。
痣一つないいちかの生脚が楡の視界に現れる。
こんな寒い日なのに、楡と会うためにオシャレをしてきたのだと考えると、胸が締め付けられる思いがする。
「殺人遺伝子撲滅法に仇をなすこと自体が邪の道やで。めちゃくちゃカッコ悪いで。日本国民ほぼ全員を敵に回して、犯罪者予備軍の擁護をするんや。完全なる悪役やろ。少しでも目立ったことをしようものなら、ネットで集中砲火。大炎上。しかも、今のにれっちはそれだけちゃうで。殺人犯の擁護もしとるわけやからな。もはやこの国には居場所はないで」
「分かってる。覚悟の上だよ」
「さすがやな。うちは、そうやって自分の利益を度外視して他人のために頑張るにれっちに惚れたんや。利他的な人間やなかったら、殺人遺伝子撲滅法の勉強会に連日参加することなんてないやろ。殺人遺伝子撲滅法を廃止しても、にれっちには直接何のメリットもない。にれっちが救われるわけでもなければ、お金がもらえるわけでもない。うちが好きやったのは、自分以外の誰かのために全てを捧げられる、そんな優しいにれっちなんや」
いちかの声は少しだが震えている。
いちかがベンチに立ち上がったのは、楡に自分の泣き顔を見せないためだ、ということに楡は気付く。
未練を断ち切って新たな道を歩みだす、といういちかの強い決意がそこにはあるのだろう。
「まさか、にれっちが全てを捧げている誰かさんが、うちにとっての恋敵だったとは思ってもなかったけどな」
「ごめん」
「だから、もう謝らんでええってば。うちは最初から幻想のにれっちに恋してたんや。にれっちの優しさは安原柊専用なんや。うちはそんなことにつゆ気付かずに、いつかはにれっちの優しさをうちに向く、ちゅうありもしない幻を見とった」
いちかの涙の雨が、楡を濡らす。
この雨が楡にとっての浄化の雨になるならば、楡はいつまでもこの雨を浴びていたい気分だった。
いちかが再び、ベンチに居直す。楡の同じ目線に戻ってきたいちかの目は、真っ赤に充血しているものの、湿っぽさはなくなっていた。
「にれっち、今までありがとうな」
「ありがとうはこっちのセリフだよ。いちかに出会えて本当に良かった」
「にれっち、絶対に安原柊を守りきれや。うちを捨ててまで選んだ道なんやから、途中でギブアップなんて絶対に許さんからな」
「もちろん分かってる」
「なぁ、にれっち?」
「いちか、どうしたの?」
「最後に、うちの願いを一つだけ聞いてもらってええか?」
「何?」
「キスして」
街灯の明かりすらほとんど差し込まない真っ暗なベンチの上で、楡といちかは、最初で最後の口づけを、貪るように堪能した。
この作品に感想を寄せてくださった晴れのち曇りところにより雨が降るでしょうさん、ありがとうございました。「晴れのち曇りところにより雨が降るでしょう」というPNはとても長いですが、晴れのち曇りところにより雨が降るでしょうさんには日頃お世話になっているので、僕のパソコンの予測変換ではすぐに出てきます(笑)
晴れのち曇りところにより雨が降るでしょうさんは、このサイトにおいて、「ゆとり最強世代のゆとりのない転生戦記」という作品を投稿されております。
異世界転生ものなのですが、転生後の主人公は、チートが一切なく、それどころか罪人を殺すことすらできない臆病者です。そんな主人公が知恵を使って国を守っていきます。ところどころで思想哲学分野からの引用があり、物語に深淵さを与えています。個人的には、頭を使って圧倒的な劣勢を切り抜ける戦闘シーンが好きです。
さて、本話で横粂いちかパートが完結しました。皆さん、どうでしたか?
ラストシーンは作者が考えあぐねて出した結論です。いちかは賢く優しく強い女性。とはいえ、あくまでも一人の女の子、ということを伝えたくて書きました。
次話から三浦葵パートに入ります。謎解きとともに、葵、そして楡のアンヴィバレントな心の動きを楽しんで欲しいな、と思います。