破壊
薄暗い部屋の真っ白な壁に寄りかかりながら、楡はパソコンの画面に映し出されたリストを食い入るように見る。
リストに並んでいるローマ字は、フランス語の配列とは大きく異なっている。
子音と母音を交互に繰り返すような配列。日本語に特有の配列である。
楡は試しにそのリストにあった「Itsuki Yanagishita」の名前をタップする。
すると、画面が46行のマトリックス図に切り替わる。それぞれの行は4文字のアルファベットで埋め尽くされた。
「A」「C」「G」、そして、「T」。
「やっぱり存在してたのか」
楡はキーボードから一旦手を離すと、大きく深呼吸した。
興奮と緊張で、まるで100mを全力でダッシュした後かのように心臓はバクバクし、額からは汗が滲み出ている。
ハッキングは成功。
無事、フランス政府が極秘で管理していた日本人の遺伝子情報を入手することができた。
計画は拍子抜けするくらいにスムーズにいった。
他者のパソコンの不法侵入に対するフランスの防御壁が甘かったのである。
おそらく、軍事や密約などの国家の存亡に関わるような機密情報についてはこんなに簡単にはいかない。
これに対し、遺伝情報は最強のプライバシーであるとはいえ、あくまでも個人についての情報に過ぎない。しかも、フランス自国民ではなく、日本人の遺伝子情報となれば、重要度は一気に下がる。
ゆえに、セキュリティーのレベルは最低レベだった。
たしかに、フランスが管理している日本人の遺伝情報が漏れたところで、基本的にフランスが困ることはない。
楡のような思惑を持った人間が現れることは、フランスにとって想定外の事態だったということだろう。
楡は、入手したばかりの日本人の遺伝情報のファイルを、あらかじめ用意してあったメールへと添付する。
「フランスの遺伝情報管理方法についての告発」と題されたそのメールは、楡が送信ボタンをタップすることによって、日本のありとあらゆる省庁、自治体に同時送信されるように設定されていた。
残すのは最後のタップだけだった。
動作としては、右手の人差し指に少し力を加えるだけであるが、このタップが及ぼす効果は絶大である。
前代未聞の事態に社会は揺らぎ、佐伯楡は国家転覆を図った犯罪者として歴史に名を残すことになる。
事の重大さは、法律家の卵である楡でなくとも、誰だって分かる。
もし捕まることがあれば、楡は一生を牢獄で過ごすか、もしくは、牢獄に入れられる前に死を突きつけられることだろう。
楡の命如きでは償いきれない事態に、日本政治はかつてない混乱に陥るだろう。
-それでも構わない。柊を救えるのならば。
楡の心は既に決まっていた。
それに、今更引き返したところで楡の悪行は帳消しにならない。もう片足どころか両足を突っ込んでいるのである。
このときのために楡は全ての脳細胞が疲弊するくらいに悩んだ。
ここ2ヶ月は使える時間の全てを入念な準備に費やした。
何をビビっているのだ。答えはこれしかないのに。
何故指が震える。咎めるものなど何もないはずなのに。
「楡は本当に優しいんだね」
柊が楡に語りかける。
最近では、会っているときも会っていないときも、楡には常に柊の声が聞こえる。
今語りかけてきたのは、喫茶店で空のマグカップをマドラーで突きながら、正面の席の楡を見つめる彼女。記憶の中の柊である。
古い記憶ではない。昨日の柊だ。
このときの柊の表情を形容する的確な言葉を楡は知らなかったが、少なくとも彼女は笑ってはいなかった。
思うに、「優しい」という言葉は2つの意味を孕はらんでいる。
1つは文字通りの「優しい」。
もう1つは「優し過ぎる」。
このときの柊の「優しい」は後者の意味に違いない。
これから楡が行おうとすることに、柊は決して賛成していない。
そんなことは分かっている。だからこそ、柊が外出している今を決行のタイミングに選んだ。
彼女が楡の部屋に入ってくるようなことがあれば、彼女は力づくで楡のやろうとしていることを止めようとするだろうし、そんなことをしなくたって柊の顔を一目見てしまえば、楡の決意が揺らぐ。
楡は先程から手の震えが止まらない理由について、心当たりがあった。
それは自分が犯罪者となる怖さではない。
柊を失ってしまう怖さだ。
しかし、他に方法はない。
柊には笑顔でいて欲しい。たとえそれが楡の与かり知らないところであったとしても。
「柊、絶対に幸せになれよ」
タップによってディスプレイの映像が転換したことすら分からないくらいに、楡の視界は涙でぐしゃぐしゃになっていた。
本日中にもう1話更新します。
次の話の後書きで怒涛のように語るので、本話の後書きは控えめにしておきます。




