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殺人遺伝子  作者: 菱川あいず
第2章
33/55

別離(2)

「楡、今日の妖怪展面白かったね」

 喫茶店の低いソファーに腰掛けた柊が、屈託くったくのない笑顔を見せる。


 柊のジーンズのポケットから覗いている、包帯のようにヒョロヒョロと伸びたお化けのような妖怪は、「狂骨きょうこつ」である。

 美術館のお土産コーナーで、柊が200円を入れてガシャポンを回したところ、「狂骨」の携帯ストラップが出てきた。

 包帯の上部に付いている気弱なおじいちゃん顔をカプセル越しに見て、柊は「やった!欲しかったやつが当たった!」と喜び、早速自分の携帯電話に取り付けたのだった。  

 フランスに行った柊が、ストラップの「狂骨」の顔を見て楡のことを思い出す、ということはあるのだろうか。嬉しいのやら悲しいのやらなんだか複雑な気持ちである。



「今日は楽しかったなあ。たまに外出するのも悪くないね。フランス旅行も楽しみだなあ」


 妄想もうそうひたるようにウットリと中空を見つめていた柊は、やがて楡の異変に気が付き、眉をひそめた。



「楡、どうしたの?具合悪いの?」


 返事をしない楡の顔を、柊が心配そうに覗き込む。



「ねえ、どうしたの?ねえ?」


 楡が更に沈黙を続けたために、柊の口調が少しずつ強くなる。



「どうしたの?無視しないでよ?何か言って?」

「コーヒーが来るまで待って」



 美術館でハシャぐ柊を見ているとき、楡はずっと胸が苦しかった。

 柊を騙していることの罪悪感が、楽しいはずのデートから色を奪っていたのである。


 柊は今日が何のための日かということをさっぱり分かっていない。


 今日は、柊が、楡と、そして、今までの日々と別離わかれを告げるための日なのである。


 それなのに柊は、悲しむどころかなごやかに過ごしていた。


 あたかも楡がこれから先も自分の側にいるかのように。

 あたかも今日までの日々が明日以降もずっと続くかのように。



 もう耐えられない。虚像きょぞうと踊るヒロインの痛々しいダンスを、楡はこれ以上見ていることができない。

 


 楡は、柊に真実を伝えることに決めた。


 楡とフランス旅行に行くという計画は、本当は存在しないこと。

 代わりに存在している計画は、柊をフランスに永住させる、という計画であること。

 計画が成功した場合、楡と柊は、今後会うことはないこと。


 

 冷静に考えれば、楡の罪悪感とは関係なく、作戦実行の前に柊に全てを伝えなければなるまい。

 作戦成功後、柊には素早い行動が求められている。

 フランスの遺伝子検査禁止がいつまで続くかは分からないからである。



 コーヒー1杯に1000円近くの代金を請求するだけあって、この喫茶店は席と席との間がかなり離れており、別の客に会話を盗み聞きされる心配はない。




 楡は、注文したコーヒーが机に運ばれるのを待ってから、ようやく重い口を開いた。



「柊、大事な話があるんだ」






「楡、バカじゃないの?」

 楡の話を最後まで聞き終わった柊の反応は、楡が覚悟していたものだった。



「テロってどういうこと?楡、そんなことしたら捕まっちゃうよ?」

「国際指名手配になるかもね。でも、柊だって殺対に追われているわけだからさ。そうれくらいのリスクは受け入れなきゃな、って」

「楡、頭オカシイよ!絶対にやめて!」

 柊がテーブルを叩く。

 テーブルの上のマグカップが、振動し、中のマドラーとぶつかり合って、ヒステリックな音を立てる。



「楡は自分のことをなんだと思ってるの!?どうして自分を大事にしないの!?」

「自分を大事にしていないわけじゃないよ。ただ、僕にとっては、僕自身よりも柊の方が大切なんだ」

「楡はいつもそう。そうやって、いつも……いつも……ズルいよ。楡は」

 柊の涙腺るいせんの活動が、彼女の声帯の活動を制御する。

 涙で声を詰まらせながら、柊は、充血した目で毅然きぜんとした態度の楡をにれみつけた。



「大体、楡はそれでいいの?」

「それでいいのって何が?捕まる覚悟ならできてるよ。もちろん、逃げ切るつもりではいるけど」

「違う。そうじゃない。楡は、私と離れ離れになっていいの?」

 言い終えるやいなや、柊の目から、涙の水が一気にあふれ出す。

 楡だってそこまで状況は変わらない。塩辛いものが口元から侵入し始めている。



「……嫌だよ。でも、他に方法がないから仕方ないじゃないか」

「楡はさ……楡はさ……」

「柊、落ち着いて。喋れるようになってから喋ればいいから」

「楡はさ……私のことが好きなんじゃないの?」


 柊の目は、先刻の睨みつけるようなものとはガラリと変わり、楡にすがるようなものだった。



「もちろん。僕は柊のことが好きだよ」

「……じゃあさ、どうしてこんなことができるの?」


 楡の返事が詰まる。

 柊の小刻みな嗚咽が、針のように楡の心臓を繰り返し突き刺す。



「……柊のことが本当に好きだから、こんなことができるんだよ」

 

 楡が絞り出した答えは、柊にとって空虚くうきょに響いただろう。そんなことは分かっている。でも、これが楡にとっては唯一の真実なのである。



「……す、好きだっだら、い、一緒にいだいと、お…思うんじゃ…な、ないの?」

「柊……」


 柊の整った顔は、涙によってグシャグシャに崩れていた。

 それでも柊は、楡の顔を見続けることをやめなかった。

 力を目にだけ宿らせ、楡の心に訴えようとした。

 


 柊の気持ちも分からなくはない。

 柊は、今まで錯覚さっかくしていたのである。

 今日の延長線上に明日以降の日々がある、と。


 自分が既に手中に収めていたと思っていたものを失うことの喪失感そうしつかんは、たとえそれがよりよいものとのトレードだとしても、ズッシリと重たい。

 

 フランス逃亡によって、悲劇のヒロインはようやく安寧の日々を手にする。その代償は、楡と過ごす日々、しかも、楡の部屋に閉じ込められる日々、だけである。

 得られるものに比べてなんとも安い代償である。

 

 しかし、の柊には、その比較衡量ひかくこうりょうができない。

 失う方ばかりが強調され、得る方の価値を正しく測ることができない。

 もちろん、いきなり一人きりで異国の地に放たれることの不安もあるとは思う。でも、それも最初だけだ。すぐに慣れる。




「柊、分かってくれ。これが柊にとって一番幸せな選択肢なんだ」

「……分かってないのは楡の方だよ。楡は本当にバカだよ……」

「ううん。きっと柊にも分かる日が来るよ」

 

 柊の目線が、空のマグカップへと移される。

 柊が楡に抗議することをやめたのは、決して納得したからではない。

 楡にあきれたからである。

 

 柊がマドラーをマグカップにぶつけ、カランコロンという音を奏でた。

 あまりにも日常的な音が、2人の心をしずめる。

 


 楡は、柊を見ていられる残り少ない時間を楽しむように、テーブルの向こうの彼女の姿を目に焼きつける。



 -まるで肖像画のようだ。


 柊は、繊細で、あでやかで、幽玄ゆうげんで、神秘的で、荘厳そうごんで、美しい。

 

 柊によって、周りのありふれた景色さえも全てが芸術になる。

 

 柊は、楡のなんてことのない毎日にだって、いろどりを、そして意味を与えてくれた。


 もうこれ以上、柊から何かをもらうわけにはいかない。


 楡がこれから行う献身けんしんも、柊への恩返しには足りないだろう。




「楡は優しいね」


 マグカップに目を落としたまま呟く柊の姿を、楡は、最後の一枚の絵として、自身の心の中にそっとしまった。


 「菱川先生、投稿ペースが早いですね。無理しないで下さい」というメッセージを、最近よくいただきます。これはマジでいただきます。

 ご心配いただきありがとうございます。たしかに若干の無理をしてます。睡眠時間を削っています。

 ただ、この話を除き、あと2話分を投稿したいのです。皆様のおかげでジャンル別ランキング1位(本日、日間1位、週間1位、月間3位)にいられる今のうちに、どうしても話の区切りを付けたいのです。


 あと2話分投稿しましたら、お正月休みをいただきたいと思っています。

 なろう作家は、執筆だけでなく、校正、宣伝までも自分でしなければならないのは大変ですが、編集部に原稿をせっつかれないのが楽ですよね(笑)

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