試着(1)
「ねえ、佐伯君、話聞いてるの?」
今年に入ってから、平日に毎日聞いている声が、楡のことを名指しにする。
「……え?あ?」
楡は暗号のような文字がビッシリと並んだ専門書から、声の主-三浦葵へと目線を移した。
三浦さんは、ライトブラウンで細く描かれた眉を顰めている。
「えーっと、なんだっけ?」
「15時に万引きの被害店舗に電話を掛ける約束してたよね?もう10分以上過ぎてるんだけど」
楡と三浦さんの会話を横から聞いていた指導担当検事が、楡を睨みつける。
検事というイメージとは違い、穏やかな雰囲気のふくよかな男性は、捜査を司法修習生の自主性に委ねていたが、このようにして無言の圧力によって手綱を握ることは忘れなかった。
なお、司法修習生は基本的には見学者の立場であるが、検察修習だけは伝統的に違っている。万引き、盗撮、喧嘩などといった比較的軽微な事件について、事件処理の一部が司法修習生に任される。
「あ、忘れてた。今、電話は誰も使っていないよね?」
検察庁の一室である司法修習生室には、6人の司法修習生に対して1台の電話機しか用意されていない。
「空いてるよ。っていうか、佐伯君、何の本読んでるの?事件と関係ない本だよね?」
検察修習そっちのけで楡が読んでいたのは、パソコンのプログラムについて書かれた本だった。
楡は子供の頃からパソコンが好きだった。
中学生の頃には、誕生日に父親に買ってもらったキットを使って自作のパソコンを作ったこともあった。
先刻まで楡が熱中していたのは、プログラミング関係の仕事に就いている人を対象に書かれた高度な内容のものである。プログラミングに比較的明るい楡であっても、一旦集中が解けてしまえば、書かれている文字や数字が単なる記号に見えて、頭に入ってこなくなる。
いちかが楡に説明した「フランス革命」の手段は、タイトル負けするくらいに過激さを欠くものだった。
「まず、フランス政府が遺伝子情報を流用しとることの裏付けが必要やな」といちかは言ったものの、裏付けを取ることは修習生である楡やいちかの領分ではない、とも言った。
すなわち、フランスの現地のジャーナリストが真実を暴いてくれるのを待つ、ということになる。
「うちらにできることは、真実が明らかになったところで、日本社会にそれを拡散することや。海外における日本人の遺伝子管理方法の実態、遺伝子情報が濫用されることで国民の生活が脅かされることについて、法曹の立場を使って世の中に広めていくんや。殺人遺伝子撲滅法廃止の流れを作り出すんやで」
いちかが主張する手段は、正攻法である。
過去に不合理な法律と闘い、廃止に追い込んできた弁護士の先輩たちが築いてきたノウハウがそこには詰まっている。
しかし、その手段はあまりにも他力本願である。
果たして、スキャンダルの暴露を現地のジャーナリストに任せていてよいのだろうか。
現地のジャーナリストがどこまで真剣に日本人の遺伝子情報についての問題に取り組んでくれるかは不明であるし、そうこうしているうちにフランス政府が証拠の隠滅を図る可能性だって十分にありうるのではないか。
そんな悠長に構えていてはならない。
柊は殺対に発見され次第、殺されてしまうのである。命に関わる病気に罹った場合にもアウト。仮に何もなく過ごせるとしても、実質的に楡の家に軟禁されている彼女の人生は、日々浪費され続けている。
正攻法に拘っている場合ではない。
楡は刺し違える覚悟で、フランスに対してサイバーテロを仕掛けることを決めた。
国家機密が管理されているパソコンに不正にアクセスし、日本人の遺伝子情報が流用されている証拠を手に入れるのである。
犯罪者になることはそれほど怖くはない。どうせ楡の人生になんて大した価値はないのだし、生まれながらにして死を運命付けられた柊を前にして、甘いことは言ってられない。
まさかこんなに大切な局面で、学生時代に「パソコンヲタク」として周りから気持ち悪がられていた楡の趣味が生きるとは思ってもみなかった。
根暗な性格に感謝しなければならない。
「ちょっと、佐伯君、またボーッとしてるでしょ。スーパーの店長さんが電話待ってるよ」
三浦さんに背中を叩かれて、楡はようやく目の前の修習へと意識を戻す。
「店長さん、たしか休憩時間は15時30分までって言ってたよ。早く早く」
三浦さんは、スーパーの電話番号が書かれたページに開かれた捜査記録を楡に手渡した。
「ねえ、佐伯君、今日の修習の後って暇?」
楡が、スーパーの店長から聞いた万引き犯への処罰感情を「電話聴取書」という書面にまとめていると、対面の席の三浦さんがパソコンのディスプレイ越しに話し掛けてきた。
「楡、やったじゃん。デートの誘いだぜ」
隣の席の伊勢遼平が冷やかしてくるのに耳を塞ぎながら、楡は答える。
「暇といえば暇だけど、どうしたの?」
「最近、駅前に新しいデパートができたのは知ってる?」
「知ってるよ。詳しくはないけど」
「買い物に付き合って欲しいの」
「ほらな。言っただろ」
遼平がニヤリと笑うのを無視し、楡は表情を変えないまま、一言、「いいよ」と三浦さんに返事をした。
この作品に感想を寄せてくださった雨城光様、ありがとうございました。
雨城様は、なろうで「黄昏の半鐘〜ハーレムメンバーは皆ヤンデレだった!?〜」を連載されています。
単なる学園ハーレム、と思って読み進めていると、学園内で生徒が殺されるという衝撃の展開が待ち構えています。しかも、犯人は主人公を取り囲むハーレムメンバーの誰かだというのです。興味そそられますよね?ね?
文章も読みやすく、犯人の独白シーンのビジュアル効果も上手く使われています(あれってどうやって設定するんですか(笑)?)
応用型のミステリーという点では、僕の作品と近いのかな、と思う面もあります。ぜひともご覧ください( ´ ▽ ` )ノ
あ、本日もう1話更新する予定です。




