回想
「フランス革命を起こすんや」
あの日、イタリアンレストランで楡に殺人遺伝子撲滅法打倒への道筋について語るいちかは、失恋した直後だというのに覇気に満ちていた。
「うち、知り合いに政治ジャーナリストがおるんやけど、この前、その人が、ある噂を教えてくれたんや」
「噂?どういう噂なの?」
「知りたいか?」
「知りたい」
楡は目の前のティラミスそっちのけでいちかの話に食いついた。
もったいぶるようにして少しの間を空けた後、いちかが口を開く。
「フランス政府が、空港で採取した日本人の遺伝情報を流用しとる」
「え?本当に?」
日本と国交を結んでいる全ての国が、殺人遺伝子保有者を弾くため、入国しようとする日本人に対して空港で遺伝子検査を行っている。
フランスも例外ではない。
とはいえ、一旦採取された遺伝情報は殺人遺伝子の有無が確認され次第、その場で破棄されることになっているはずだ。
「マジかどうかの断言はできひんが、現地の記者から流れてきた情報らしいから、信憑性はかなり高いで」
「日本政府は怒るよね?」
「せやな。絶対に許さないやろうな」
遺伝子には、体質、性格、才能など、当人すらも気付いていないような個人情報の全てが詰まっている。そのため、遺伝情報は厳格に定められた目的の範囲内においてのみ用いられ、決して濫用されることがあってはならない。
日本において、個人の遺伝情報の保有を許されているのは殺対のみである。殺対は遺伝情報を絶対に外に漏らさない。
たしかに、ある人が犯罪を犯したときと、ある人が病院の診療を受けたとき、という例外はある。しかし、これらの場合でも、ある人についての殺人遺伝子保有の有無の照会を捜査機関ないし医療機関から受けた殺対の回答は、「殺人遺伝子あり」「殺人遺伝子なし」「未検査」の3パターンに限定される。遺伝情報そのものを外に出すわけではない。
日本の国家機関ですら、殺対を除けば、日本人の遺伝情報を入手することができないのである。
海外の政府が日本人の遺伝情報を管理することが許されるはずがない。
「フランス政府はどうして、日本人の遺伝情報を破棄しないの?」
「分からん。ただ、想像するに、フランスは移民の国やからなぁ。過去に移民による犯罪とか暴動に苦しめられた教訓として、外から入ってくる人間の情報はなるべく管理したいんちゃうか。科学的な実験に用いるという可能性もなきにしもないかもなぁ」
「そんなの日本政府は黙ってられないよ」
「せやろうな」
今から10年以上前、殺人遺伝子保有者の国外逃亡を認めるという日本の国策に反し、諸外国が自国の空港での遺伝子検査を開始したときにも、日本政府は外交ルートを用いて抗議した。
抗議の力点は、もちろん、遺伝情報の流出の危険に置かれていた。
外交における日本政府側の最大の獲得目標は、諸外国に遺伝子検査そのものをやめさせることだった。
しかし、諸外国が、遺伝子検査をやめる前提として、海外渡航者に殺人遺伝子保有者がいないことを日本政府が担保することを求めたところ、日本政府はこれに応じず、結果として妥協案が採用された
その妥協案とは、諸外国は、遺伝子検査は続行する代わりに、検査後の遺伝子情報の即時破棄を約束する、というものである。
フランスは、まさにその即時破棄の約束を破っているのである。
「実際、この事実を知ったら日本政府はどう動くんやろうなぁ?」
「もう外国には遺伝子検査をさせないんじゃないかな?代わりに日本の空港で遺伝子検査を行うんじゃない?」
チッチッチ、といちかが舌を鳴らす。
「ちゃうな。にれっちの考えは甘ちゃん過ぎる。国家というやつはもっとリアリスティックな生き物やで」
関西娘は、まるで悪巧みでもするかのようにニヤリと笑った。
「どういうこと?」
「現状では、日本は、遺伝子検査のコストと殺人遺伝子保有者の移動のリスクを諸外国に負わせていることに成功しとる。せっかく上手に転嫁できた責任を日本が自ら受け戻すとは考えられへん。しかも、スキャンダルを起こしたのはフランス側やで。日本政府は制裁として、さらなる負担をフランス政府に負わせるやろ」
未だ頭にクエスチョンマークが浮かんでいる楡を、いちかはフォークで突くようなジェスチャーでからかった。
「別に難しいことあらへんで。フランスが日本人の遺伝子情報を悪用していることを知った日本政府がすること、それは、フランスの遺伝子検査の禁止や」
「はぁ」
「日本がフランスにだけ遺伝子検査を禁止したら、フランスが風穴となる。自分は殺人遺伝子を持ってるんじゃないかと疑っとる日本人はこぞってフランスに逃亡する。殺人遺伝子保有者を入れたくないフランスにとって、最大の罰になる。他方、日本政府としては手間暇かけて安楽死させるべき対象が減って万万歳やな」
「なるほど……」
「これだけやないで」
興奮したいちかが語気を強める。
「バスティーユ監獄の破壊は、フランス革命の開始の合図に過ぎひん。殺人遺伝子撲滅法があることによって、罪もない人々の遺伝情報が流出し、悪用されたと知った日本人は、殺人遺伝子撲滅法が自分たちの敵であることを知る。ついに殺人遺伝子非保有者の99.96パーセントを味方に付けられるんや。99.96パーセントの勢力がひっくり返る革命や。そのまま一気に宮殿に突入。殺人遺伝子撲滅法を廃止させるんや」
長い台詞をほとんど呼吸を挟むことなく言い切ったいちかは、息も絶え絶えで肩を上下させている。
興奮しているのは楡も同じで、心臓のバクバクが止まらない。
殺人遺伝子撲滅法を廃止にまで持ち込めるかどうかについては不確定要素があるため、いちかの思い通りに行くかどうかは分からない。
しかし、バスティーユ監獄の破壊、つまり、フランスの遺伝子検査を禁止させ、柊をフランスに逃亡させることは実現可能に思われる。
遺伝子検査の禁止は一時的でも良い。その混乱の最中、なんとかして柊をフランスに入国させれば良いのだ。
楡が伸ばした手に、いちかの手が重なる。
「いちか、本当にありがとう」
「お礼を言われるほどのことやないで。勝負はこれからや」
揺れる間接照明の明かりが、がっつりと握手を交わす2人をほのかに照らした。
「フランス革命」について、作者が上手く伝えられた自信がないので、簡単にまとめます。
殺人遺伝子保有者が海外に逃亡するためには2つのハードルがあります。
①日本国から脱出すること(日本の空港から出れること)
②海外が受け入れてくれること(海外の空港から入れること)
①のハードルは、本作では実は存在していません。なぜなら、日本側は殺人遺伝子保有者の国外逃亡を推奨しているからです。それには2つの理由があります。ア殺人遺伝子保有者を殺すよりも逃した方がコストが掛からない、イ殺人遺伝子保有の有無のチェックに伴うコスト、リスクの海外への転嫁、です。
そこで、②のハードルだけが問題となるのですが、海外の国は、空港で遺伝子検査を実施しています。日本はこれに反対の姿勢を示していますが、検査後の遺伝情報の即時破棄を条件に、仕方なく認めています。
いちかが握った情報である「フランス政府による遺伝情報の流用」の事実が日本で公になれば、日本はフランスに対して強硬な姿勢をとることが予想されます。つまり、フランスにだけ遺伝子検査の禁止を要請することが予想されます(バスティーユ監獄の破壊)。
これによって②のハードルが、フランスに逃亡する場合にのみクリアされることになるのです。




