解放
「柊、フランス旅行に行こう」
楡が床の上でだらしなく胡座をかいている柊に声を掛けると、テレビから流れていた銃撃音と巨大生物の呻き声が止んだ。
ゲームのコントローラーを床に置いた柊が、視線を丸い机の上に落とす。
そこには楡が今しがた置いた旅行本があった。
「楡、いきなりどうしたの?」
柊が、エッフェル塔が表紙となっている冊子を拾い上げる。
「ずっと家で缶詰になってるのも退屈でしょ。気分転換に海外に行こうよ」
柊が楡の家で暮らすようになってから半年が経過していた。
季節は真逆となり、空の明るさが変わり、外の街路樹が緑の葉を携えるようになってから久しい。しかしほとんど外出をしない柊は、エアコンのモードを暖房から冷房にスイッチしたくらいで、変わり映えのしない毎日を送っている。
「別に退屈していないよ。毎日が楽しいよ」
「柊、そのモンスターをやっつけるのは何回目?」
TVの中で、足の生えた芋虫のようなバケモノが、紫色の血しぶきを上げた状態のままフリーズしている。
「もう千体以上は倒してるかな?」
「飽きないの?」
「うん。飽きない。ストレス発散になるよ」
「柊の場合、ずっと家にいるからストレスが溜まり過ぎてるんだよ」
柊は旅行本を机の上に戻すと、代わりに彼女が今まで使っていたものとは別のコントローラーを手に持ち、楡に差し出した。
「楡もたまには一緒にやろうよ。さっき水属性のかなり強い武器を手に入れたんだよ」
楡は受け取ったコントローラーをそのまま床に置いた。
「後でやるよ。それより、今は海外旅行の話をしよう」
「海外旅行とか無理でしょ」
柊は、蚊を叩くくらいに素っ気なく楡の提案を一蹴した。
「どうして?」
「私、殺人遺伝子保有者なんだよ?まず、パスポートが取れないんじゃない?」
「調べたんだけど、パスポートは取れるみたいだよ」
「へえ」
殺人遺伝子保有者は、病院で診療を受けることができない。
殺人遺伝子撲滅法の117条において、患者の殺人遺伝子保有の有無を、殺対に問い合わせる義務が病院にはあるからである。
しかし、パスポートの申請があった場合に、旅券事務所が、申請者の殺人遺伝子保有の有無を殺対に問い合わせる義務は、殺人遺伝子撲滅法のどこにも定められていない。
そのため、殺人遺伝子保有者であっても、パスポートは問題なく取得できる。
長期滞在許可も同様である。
「でも、空港で検査をされるんじゃないの?羽田とか成田で」
「ううん。それもない」
日本の空港において、遺伝子検査は行われない。
空港職員に殺対への問い合わせ義務もない。
日本の空港は、殺人遺伝子保有者が出国することに何らの干渉をしない。
つまり、日本は、国策上、殺人遺伝子保有者の国外逃亡を認めているのである。
参加していた勉強会で、弁護士からこのことを初めて教わったとき、楡は意外に思った。
しかし、冷静に考えてみれば、当然のことなのである。
この国が望んでいることは、殺人遺伝子がこの国から駆逐されることであり、その目的は、殺人遺伝子保有者が国外に移動することによっても果たされうる。
むしろ、殺人遺伝子保有者が自主的に海外逃亡してくれれば、わざわざ捕獲して殺すことに比べて手間が掛からず、国費も節約できる。
犯罪者の場合は違う。
見せしめとすることによって将来の犯罪を防止する必要があるから、国が国外逃亡を許すことはない。
しかし、殺人遺伝子保有者の場合には、国としては、どんな方法であれ、この国から殺人遺伝子保有者がいなくなってくれればそれでいいのである。
「うーん、そうだったかなぁ……。殺人遺伝子保有者は海外に行けなかった覚えがあるんだけど……」
柊の朧げな記憶は、実は正しい。
日本は殺人遺伝子保有者の国外逃亡を認めているものの、外国が殺人遺伝子保有者の入国を禁止しているのである。
殺人遺伝子保有者を抹殺する法律を持っている国は、日本だけである。そもそも、甲本教授が発見した「殺人遺伝子」という概念自体、日本以外では科学的な承認を得られていない。
そのため、殺人遺伝子撲滅法の制定当初、日本政府は、殺人遺伝子保有者を外国に押し付けたとしても外国に迷惑を掛けないと考えていた。また、外国が殺人遺伝子保有者の日本からの入国を規制することもなかった。
実際に、身内に凶悪犯罪者がいるなどの事情から自己に殺人遺伝子があると疑った日本人が、海外に永住する例も多くあったという。
しかし、自国においては危険性が立証されていないといえども、科学先進国である日本が犯罪者予備軍として扱っている殺人遺伝子保有者が自国に雪崩れ込んでくることは、治安面での不安要素であることは否めない。
殺人遺伝子撲滅法制定の翌年の2043年に、国内の市民団体の意見を取り入れたアメリカが、入国審査時に日本人に対して遺伝子検査を行うことを決める。
他の国もアメリカの決定に矢継ぎ早に追随し、2044年までに、日本と国交のある全ての海外の国が、自国の入国審査において日本人の遺伝子を検査する運用を持つようになった。
他の国に規制が遅れてしまえば、日本からの逃亡を図る殺人遺伝子保有者の行き先はその国に集中することになる、というババの押し付け合いの構造が、この運用をスピーディーにかつ遍く全世界に行き渡らせた。
結論をいえば、現在、殺人遺伝子保有者は海外逃亡を図ることができない。
行った先の外国の遺伝子検査で陽性反応が出ることによって、日本に強制送還させられるからである。
だから、柊の記憶は正しい。
「勘違いじゃないかな?海外旅行はOKなはずだよ。殺人遺伝子について尋常じゃないくらいに勉強してる僕が言うんだから間違いないよ」
楡は嘘を吐いた。
柊を騙すことは決して気持ちの良いことではない。しかし、柊のためには致し方ない。
さらにもっといえば、楡の吐いた嘘は、現段階では嘘であるが、やがて本質的な部分において嘘ではなくなる。
首を傾げている柊の目の前に、楡は、旅行本の下敷きになって机の上に置いてあった少し厚めの本を提示する。
「フランス語入門?」
柊が本のタイトルをそのまま読み上げる。
「柊、フランスに旅行をする前に、一緒に勉強しようよ」
「数日間の滞在だったら、言葉が分からなくてもボディーランゲージでいけるんじゃない?」
「うーん、でも、言葉が分かるに越したことはないよ。しかもさ、柊、どうせ暇でしょ?」
「暇だけどさぁ……」
柊が口を尖らせる。
義務教育すら受けていない柊にとって、勉強は可能な限り避けて通りたいものなのかもしれない。
しかし、いくら渋られようとも、楡はどうしても柊にフランス語を学んでもらいたいのである。
それが柊の今後の人生の助けとなるから。
「っていうか、旅行にはいつ行く予定なの?楡、スケジュール空けられるの?」
「スケジュールは無理矢理にでも空けるよ。日程は……なるべく年内にしようとは思ってるんだけど、まだ未定かな」
柊のフランス渡航がいつになるか。
それは、楡が企てる「フランス革命」をいつ決行できるかに依存している。
革命には相応の準備が要る。
楡は柊の全身を見渡す。
黒髪の毛先は四方に飛び散っており、纏まって光沢を出すことをしない。楡が何度見たか分からないブカブカの灰色のスウェットは、女の子らしい膨らみを全て隠しており、柊の色気を完全に減殺している。靴下は爪先だけではなく踵にまで穴が空いているものの、柊がそれを意に介することはない。
柊をいつまでもこんな状態にしておいてはいけない。
柊と同い年の少女はきっと目も眩むようなオシャレな格好で街を闊歩し、青春を謳歌しているはずだ。
柊にも、自分らしさを表現できる自由な人生を送って欲しい。
そのためには、柊を一刻も早く殺人遺伝子から、殺人遺伝子撲滅法から解放しなければならない。
一刻も早く、檻のようなこの家から柊を巣立たせてあげなければならない。
「楡と一緒に旅行ができると思うと、なんか楽しみになってきた」
柊がグーにした両手でトントンと床を叩く。
柊の子供のような喜びの表現を見て、楡は、愛らしく思うと同時に、柊を騙していることへの罪悪感を募らせる。
楡が柊にさせようと計画していることは、本当は、楡との同伴でなければ、旅行でもない。
それは、柊を一人でフランスに永住させる計画なのである。
なんとお礼を申し上げてよいのやら。本作にレビューを寄せて下さった菅康さん、(*T。T)さん、緋和皐月さん、本当に本当にありがとうございます。
なろう作家の皆さんはご存知だと思いますが、レビューの破壊力は絶大です。PV数がグッと跳ね上がりますし、作品に「信用」が付加されます。とてもありがたいことに、早速のレビュー効果で、作品の総合評価が約半日で50pt近く増えました。
ついに300pt突破です。
ありがとうございました。感謝が止まりません。これからも慢心せず、皆さんが少しでも面白いと思って下さる作品を書き続けます。
あ、あと昨日、冬の童話祭2017提出用作品として、「冬の女王様が、イケメン好きのメンヘラ中年女性だった件」という約8000字の短編を投稿しました。童話とは名ばかりの単なるコメディーで、運営から与えられたテーマ設定を逆手にとっています(笑)こちらもぜひともよろしくお願いします。




