介入(4)
メモに書かれた住所地には、楡が住んでいるアパートと見栄え的に大差のない古いアパートが建っていた。
大学のキャンパスが近くにあることからすると、主な入居者層は金銭的に余裕のない苦学生であろう。居酒屋経営で一山当てた社長が居を構えているとは俄かには信じがたい。
少なくとも、ここは不倫相手との愛の巣たりえないと思う。沙穂さんを連れてきても平気だったかもしれない。
司法修習生という立場を使えば、調停の一方当事者である龍弥さんの住所を知ることは極めて容易だった。調停申立ての際に提出された書類に記入されているものを見れば良いからである。
もっとも、当事者のプライバシー情報を司法修習生が勝手に用いることは当然許されていない。
楡の行いが裁判所にバレれば、確実に罷免である。
デジタルなインターホンの音が閑静な住宅街に響き渡る。
今日は日曜日だが、こんな真昼間に龍弥さんが家にいるとは限らない。
ドアがゆっくりと開かれたのは、楡が諦めて踵を返そうとしたときだった。
玄関から楡を覗き込む無精髭の男性の顔を見た途端、楡は悟る。
沙穂さんだけではない。
彼もまた、「重病人」である。
「誰だ?」
平坦な声で龍弥が問う。
ドアが完全に開き切ることがないのは、内側からチェーンでロックが掛かっているからである。
楡はえへんと大袈裟に喉を鳴らす。
「私は沙穂さんから相談を受けている弁護士です」
「沙穂も代理人を付けやがったか……」
「まだ正式に受任したわけではないのですが、これから沙穂さんの代理人になるかもしれないので、龍弥さんに事情を伺いに来ました」
「ほお……」
意外なことに、楡が沙穂さんの関係者だと聞いた龍弥は、一瞬表情を緩めたように見えた。
「沙穂は元気か?」
代理人を通じて沙穂さんのことをあれだけ貶していた男とは思えない気遣いの言葉に、楡は戸惑う。
「え……あ、今回離婚を請求されたショックで精神的にかなりまいっています」
「そうか……」
「心配ですよね?」
「……別に。私が決めたことだ」
「沙穂さんのことが嫌いなんですか?沙穂さんは家事もしないし、暴言も吐くから?」
楡の追及を嫌がるかのように、龍弥さんが目線を外す。
間違いない。
龍弥さんの離婚請求には間違いなく裏がある。
「龍弥さん、教えてください。沙穂さんに三行半を突きつけた本当の理由を」
「俺からは何も言うことはない。弁護士に任せてあるから、全部その弁護士に聞いてくれ」
「ちょっと、待ってください!!ちょっと……」
楡が咄嗟に足を挟もうとしたものの、ドアが閉まるのを止められなかった。
しかし、閉まる直前の扉の向こうの光景から目に飛び込んできた輝くものが、楡にヒントをくれた。
それは靴箱の上で蛍光灯の光を反射していたとある物体である。
離婚の代償として支払うと主張されている破格の手切金、社長が住むにはあまりにも粗末なアパート、そして、靴箱の上の物体。
間違いない。
これらのピースを組み合わせた先にある真実は一つしかありえない。
楡は大声を張り上げる。
「龍弥さん、聞こえてますか!龍弥さん!」
叫ぶと同時にドアを激しくノックする。
「近所迷惑だからやめてくれ!警察に通報するぞ!」
ドアの向こうから脅すような声がする。
「龍弥さん、次の調停に来てください!もう一度だけ沙穂さんに会ってあげて下さい」
「弁護士を行かすからそれで十分だろ!」
「ダメです!沙穂さんと直接会って下さい!会わなければ分からないことがあるんです!!」
「そんなことは一つもない!」
「沙穂さんのバッグには、星の砂のキーホルダーが付いています!」
ドアの向こうの反論が止まった。
閑静な住宅街に、鳥の鳴き声が交差する。
「龍弥さん、沙穂さんは言ってましたよ。『結婚当初の貧乏だった頃が一番幸せでした』って」
ドアの向こうで咽び泣く声が聞こえ始めた。
「そうか……私が間違っていたのか……」
チェーンが外され、玄関が解放される。
壁にもたれかかるようにして泣き続ける小柄な男性の背中を、楡は優しく撫でる。
「20年以上連れ添った夫婦ですからね。結局、お互いに一番大切にしているものは一緒なんですよ。それは裕福な暮らしなんかじゃないんです」
龍弥さんの離婚の目的、それは財産分与・慰謝料に仮託した財産移転だった。
「水商売」という言葉がある。
現在ではもっぱら性産業を連想させる言葉であるが、元々は景気や客の気まぐれによって収入が左右される不安定な商売を指す言葉であり、居酒屋経営は「水商売」の最たるものであるといえる。
龍弥さんの居酒屋経営も一時は軌道に乗り、大きな財をもたらしたものの、現在では日照り続きで、多額の借金を作ってしまったのだろう。
子供がいない龍弥さんにとって、守るべき家族はただ一人、沙穂さんだけである。
居酒屋経営が傾いたとき、龍弥さんは、沙穂さんを借金の取り立てから守り、裕福な暮らしを続けさせなければならないと考えた。
そのために、離婚という方法を選んだ。
離婚によって、借金まみれの自分から残った財産を、そして、沙穂さんを切り離そうと考えたのだ。
「沙穂はな、仕事一辺倒で家庭を大事にしない私を22年間もの間、本当に一生懸命に支えてくれた。あんな良い妻はどこを探したっていないよ。それなのに、その報いが借金取りに追われる生活なんてあんまりだろ。そんなの酷すぎるだろ。だから……だから……」
「お気持ちは分かります。でも、そんな沙穂さんを一人にするのは、もっとあんまりだと思いませんか」
龍弥さんが床に崩れ落ちる。
無様な姿であるが、楡が初めて彼と出会った先刻よりも遥かにマシである。
今の龍弥さんは重病から解放されている。
「代理人に弁護士を立てて、龍弥さんが調停の場に顔を出さなかったのは、沙穂さんが愛しているがゆえの行動でしょう。沙穂さんを愛しているからこそ、龍弥さんは虚偽の離婚原因を突きつけて沙穂さんを罵倒することも、突然の別れに絶望する沙穂さんを見ることもできなかった。しかし、その愛ゆえの行動のせいで、2人はあと一歩で取り返しのつかないところまでいってしまった」
「……沙穂、ごめんよ……沙穂、沙穂」
「ちなみに、離婚に伴う財産分与や慰謝料支払いに託けた配偶者への過分な金銭支払いは、詐害行為取消権によって取消しの対象になるリスクがあります。そんな危険は橋を渡るのは得策ではありません。破産専門の弁護士を紹介します。破産をすれば借金はなくなりますよ。もう贅沢な生活はできないかもしれないですが、沙穂さんがいればそれでいいですよね?」
「うぅ……」
踞った龍弥さんは、自らの拳を痛めつけるように、強く床を叩いた。
「弁護士さん、ありがとうございます……どう感謝したらいいか……」
「いいえ。感謝する相手は僕ではありません。2人を繋いでくれたのはこいつじゃないでしょうか」
楡は靴箱の上に目を遣る。
そこには、星の砂が詰まった小瓶が、蛍光灯の光を反射してキラキラと輝いていた。
3つ謝罪させて下さい。
1つ目。昨日、更新できませんでした。
「細かすぎて伝わらない」を見ていたら日を跨いでしまいました。ごめんなさい。
2つ目。前回の後書きで、「介入」の話が全5話で終わると予告していたのにもかかわらず、全4話で終わってしまいました。自分が考えていた以上に文章量が足りてませんでした。ごめんなさい。
3つ目。ストックが完全に尽きました。クリスマスは友達と仲良くパーティーをするので(彼女どこ〜号泣)、少しの間、更新をお休みさせてもらいます。ごめんなさい。
おそらく、すぐに復帰します。
ところで、「介入」はどうでしたか?
連続ドラマの1話分の脚本を書く気分で、1万字弱で起承転結のある独立したストーリーを描いてみました。
読者様を泣かしたい、と思いながら、僕自身は泣きながら(←)一生懸命書いたのですが、少しでもホロリとして下さった方はいらっしゃったでしょうか。
それとも、高校時代の同級生が出産したときに、「出産おめでとう」と賛辞を述べただけなのに、その子から「へえ、お前にも人間の心があったんだ」と驚かれた僕には、人様の感情をどうこうしようとするのは100年早いでしょうか………いやいや、この話を聞いて、僕に同情して泣くのはやめて下さい!惨めですから!(笑)




