介入(3)
トイレに向かって廊下を歩いていると、女性のすすり泣く声が聞こえた。それは待合室の方からだった。
裁判所の待合室は、病院の待合室と同じように、大型テレビにに見下ろされるようにして、腰掛のない椅子が平行に並んでいる。一番後方にある椅子の上で、丸まるような格好で、沙穂さんは嗚咽を漏らしていた。
司法修習生は、裁判所に所属する立場にある。
中立性の観点から、司法修習生が片方の当事者と接触することは許されない。
見学という名目で、調停の両当事者からの主張書面を読み、期日では両当事者が話している場に同席し、オフレコな情報に触れていること考えれば当然である。
しかし、楡には待合室を素通りすることができなかった。
「沙穂さん、大丈夫ですか?」
隣に座った楡は沙穂さんの背中をさする。
手を触れた相手が誰かを確認する余裕すらもないようで、沙穂さんはしばらく膝に埋めた顔を上げることさえしなかった。
「僕、佐伯楡っていいます。先ほどの調停を見学させてもらっていた司法修習生です」
「佐伯さん?」
ようやく沙穂さんが顔を上げる。
彼女が楡の顔を見ても合点のいった様子を見せなかったのは、調停の最中は自分のことで精一杯で、見学していた司法修習生のことなど見えていなかったからだろう。
「もしよろしければ、裁判所の外でお話ししませんか?もしかしたら、僕、沙穂さんの力になれるかもしれません」
沙穂さんをファミリーレストランに連れて行ったのは、楡にとっての自己保身のためである。
楡が見学した事件の当事者と個人的に会っていることがバレたら、裁判所からの注意どころでは済まない。最悪の場合には罷免されるかもしれない。
平日に弁護士や裁判官といった法曹関係者がファミレスを用いることは考えられないから、ファミレスは安全地帯だ。
勢いで会合の機会を持ったのは良いものの、沙穂さんは通常の精神状態ではない。
何から話しかけてよいものか。
とりあえず、コーヒーでも注文しようと思い、テーブルの端のメニューに手を伸ばしたとき、くたびれた革製のバッグに付いたキーホルダーが目に入った。
「星の砂ですか?」
キーホルダーの先には小さな瓶がぶら下がっており、瓶には少しオレンジ味のかかった砂が詰まっていた。
「よくご存知ですね」
沙穂さんが小瓶を人差し指と中指でそっと撫でる。
「高校生の頃、修学旅行で沖縄に行ったときに、お土産で買ったんです。僕はすごく面白いと思ったんですけど、花より団子な父親だったんで、『どうしてちんすこうを買ってこないんだ』って怒られました」
沙穂さんは楡の誘い笑いに釣られて笑うことはなかった。
「この星の砂は、石垣島に新婚旅行に行ったときに、夫と一緒に集めたやつなんです」
星の砂とは、星のように角が5つ突き出した形状の砂粒であるが、その正体は小さなサンゴの死骸である。
サンゴ礁のあるビーチの砂を手で掬うと、星の砂が僅かながら混じっている。
新婚の五十嵐夫妻は、石垣島のビーチで時間と手間を掛けて瓶一杯の星の砂を集めたということだろう。
「良い景色もたくさん見ましたし、美味しいものもたくさん食べたんですけど、私の中の新婚旅行の最大の思い出は、この星の砂集めだったんです。私も夫もほぼ無言でせっせと砂を選り分けていただけなんですけど、それがすごく楽しくて。私が子供だったんですかね……」
燦燦と輝く太陽の下で、汗を流しながらビーチにしゃがみ込む若かりし日の頃の五十嵐夫妻の姿を想像する。
沙穂さんは、今のような蒼醒めた顔ではなく、きっと無邪気な笑顔を見せていたことだろう。
注文したコーヒーが運ばれてくる頃には、沙穂さんの様子もだいぶ落ち着いているようだったので、楡は本題を切り出す。
「沙穂さん、龍弥さんとは離婚したくないんですよね?」
「はい。絶対にしたくありません」
「僕、一応法律家の卵なのですが、法律的にいって、沙穂さんが龍弥さんからの離婚請求に応じる必要は一切ありません。相手方の代理人の言ってることは法律的にはめちゃくちゃです」
「そうなんですか?」
「はい。別居期間が数年間続いているならまだしも、龍弥さんが家を出たのは、つい3ヶ月くらい前なんですよね?離婚が認められるのには足りません」
「そうですか……」
楡のアドバイスによって、沙穂さんの肩の力が少しだけ抜けたように見えた。
しかし、彼女に付けるべき薬はそれだけでは十分でなかった。
「でも、夫は私と別れたいんですよね?」
「まあ、龍弥さんはそのように主張していますね……」
「どうしてですか?」
龍弥さん側の代理人の主張によれば、沙穂さんが家事をまともにやらないこと、沙穂さんが龍弥さんに暴言を吐くことなどが槍玉に挙げられていた。
しかし、これらが本当に離婚の理由であるのかについては、楡から見ても疑問である。
目の前のおとなしそうな女性が、本当に龍弥さん側代理人の主張する通りの「ヒドい家内」には思えない。
それに、2人は20年以上も苦楽を共にした夫婦なのである。2人は、夫婦生活上の些細な不満や障害を、今まで幾度となく乗り越えてきたはずである。沙穂さんのパーソナリティー上の問題が、今更、家庭に修復不可能な傷を与えたとは到底思えない。
沙穂さんは断固として認めなかったが、調停委員が示唆した通り、龍弥さんに新しい女ができた可能性が高いだろう。
「失礼ですが、今まで龍弥さんに異性関係のトラブルは?」
「ないです。夫は私だけを一生懸命に愛してくれました。私は夫からもらった愛情を疑うことができません。不倫は絶対にありえません」
沙穂さんの断定には、第三者を納得させられるような根拠は何一つとしてない。しかし、長年連れ添った夫婦間のことは当人同士が一番よく分かっているはずだから、門外漢が口を挟むわけにはいかない。
「それから、夫は私にたくさんお金を払うと言っていますが、私は夫と暮らせるならば、お金なんてこれっぽちもいりません。夫は居酒屋経営で一財をなしましたが、むしろ、結婚当初の貧乏だった頃が一番幸せでした。私だけなんですかね?あの頃に戻りたいと思っているのは」
沙穂さんは星の砂の入った瓶を持ち上げると、愛おしそうにそれを見つめた。
瓶に詰まっているのは、単なるサンゴではなく、夫婦にとっての最高の思い出なのだろう。
その様子を見て、楡は沙穂さんのためにさらに危険な橋を渡ることを決意する。
「沙穂さん、龍弥さんともう一度直接お話ししたいですか?」
沙穂さんの目がパッチリと見開かれる。
「できるんですか?」
「任せてください。僕に考えがあります」
楡はコーヒーで変色した歯を見せて笑った。
ついに、ついに、本作のpt数が200ptを突破しました。作者的には歴史的快挙なので、とても嬉しいです。
もっともっと力を入れて本作を執筆していこうと思います。ブックマークをしてくれた方、評価を入れてくれた方、本当にありがとうございます。感想欄で、一言、「評価しました」と言って下されば、作者ページに飛び、何らかの形で報いろうと思います。
現在、「介入」というタイトルで、殺人遺伝子の「殺」の字も出てこない、ある意味で平和なストーリーを投稿しているのですが、このパートはあと2話で終わります。作者的には大好物なオチを用意しているので、楽しみにしていてほしいと思います。
そして、この「介入」パートが終わると、久しぶりに柊ちゃんが登場する予定です。「予定」となっているのは、まだストックができていないからです(泣)
皆様からいただいたptを励みに、明日、書き溜めを作ろうと思います。