介入(2)
「五十嵐沙穂さんご本人ですね」
「……はい。そうです」
「私は調停委員の船井といいます。隣の女性も調停委員で、富吉といいます」
「あの……今日、あの人は来ているんですか?」
「え?」
「夫です。夫は今日、裁判所に来てるんですか?」
「龍弥さんは本日、こちらの裁判所には来ていません。代わりに代理人の弁護士の方が出席しています」
沙穂さんは目を見開いて調停委員を見返していた。
「今日は夫と話し合えるんじゃないんですか?」
調停委員の2人が目を見合わせる。
男性の調停委員が苦笑いをしたのを見て、女性の調停委員が頭を掻きながら説明をする。
「沙穂さん、調停という手続は、話し合いによる解決のための手続なんですけど、当事者同士が直接話し合うわけじゃないんですよ。私たち調停委員が交互にお話を聞いて、お互いにとって良い解決を探るんです」
「でも、夫は、その、来てないんですよね?弁護士の先生が代わりにいらっしゃってて」
「そうですね」
沙穂さんは何度も繰り返し頷いている。
事態を必死に咀嚼しようとしているのであり、決して腑に落ちているわけではないことは側から見ている楡にも分かる。
「私、夫と直接会って話したいんです。どうしても」
「それは調停という手続ではできないんですよ」
「どの手続ならできるんですか?」
「いや、旦那さんのお気持ちの問題なので、裁判所にはどうすることも……」
「夫は今どこに住んでいるんですか?」
「私たちがそれを沙穂さんに教えるわけにはいかないんですよ」
沙穂さんが頭を抱える様子を見て、男性の調停委員が「頭が痛いのはこちらの方だ」と言わんばかりの大きなため息をついた。
「沙穂さんのお気持ちはよく分かるのですが、裁判所にもできることとできないことがあるんです。とりあえず今は調停の場なので、先ほど龍弥さんの代理人から伺った主張を沙穂さんにお伝えしたいのですが、よろしいでしょうか?」
沙穂さんからの反応はなかった。
放心状態で、何も置かれていない真っ白な机の一点を見つめている。
「よろしいでしょうか?」
沙穂さんがコクリと一度だけ頷くのを確認し、調停委員が、先ほど弁護士から受け取った「申立人の主張」と書かれた書面を取り出した。
衰弱しきった沙穂さんにとって、龍弥さんの代理人が主張する内容はあまりにも辛いものだった。
夫婦間に何があったのか、という本当のことは分からない。
しかし、20年以上も支えてくれた伴侶に対する仕打ちが、こんな罵詈雑言にも近い五月雨式の欠点の指摘というのはあんまりである。
料理の味が濃い、靴の脱ぎ方が汚い、などの些細な事項を突くものは、もはや単なる人格攻撃でしかない。
楡は今すぐにでも沙穂さんをこの拷問部屋から解放してあげたい気分だった。
調停委員が全て話し終えるまで、沙穂さんは耐えていた。
涙をこらえるために唇をきつく噛み締め続けていた。
「以上が龍弥さんの主張になります。沙穂さんからの反論はありますか?」
沙穂さんは親の仇を見るかのような鋭い目で調停委員を睨みつけた。
しかし、彼女の口から出てきたのは、驚くほど拍子抜けな言葉だった。
「何も反論はありません」
調停委員の2人がまた顔を見合わせる。
女性の調停委員が大きく首を振る。
「あのぉ、沙穂さん、どんな些細な指摘でもいいんですよ?旦那さんの主張の中でこの部分はちょっと違う、だとか、もっと別の事情があるんだ、とか……」
「いいえ。何もありません。モラルハラスメントも、夫がそう感じたならば、そうなのだと思います。家事も、私は頑張ってやったつもりなのですが、夫が足りないと感じたならば、やっぱり足りなかったんだと思います」
心身の弱った沙穂さんが必要以上に弱気になっていることは明らかだった。
このままではいけない。
調停という場は、道理の勝負ではなく、粘った者勝ちだ。
弱気な当事者は必要以上に泡を食わされることになる。
司法修習生という立場が歯痒い。
もしも、楡が弁護士として沙穂さんの代理人となることができるのならば、龍弥さん側の単なる感情論ともいえるめちゃくちゃな主張を跳ね返すことができるのに。
「それでは、龍弥さんの申し立ての通り、離婚に応じるということですか」
「それは絶対に嫌です!」
突然ボリュームの上がった沙穂さんの声にビクリとする。
沙穂さんの目に初めて生気が宿る。
「私は夫に一生連れ添うと約束しました。私には夫しかいませんし、夫にも私にしかいないはずです。私じゃなきゃダメなはずです」
「いや、でもね、沙穂さん、龍弥さんは実際にこうして離婚を請求しているわけだから……」
「絶対に何かの間違いです!意味が分かりません!」
「ちょっと、沙穂さん落ち着いて。もしかしたら、もしかしたらですけど、龍弥さんが他所に女を作ったということだってありえるかもしれないし……」
「そんなこと絶対にありえません!」
「でも、龍弥さん、かなりの金額の慰謝料を用意すると言ってまして、沙穂さんと別れたいという決意は強いんですよね」
「お金なんて要りません!絶対に別れませんから!」
男性の調停委員が穏やかな口調で試みた説得は、どれも沙穂さんには届かなかった。これ以上の説得はどう考えても不可能だった。
「とりあえず、今日の調停期日はこれでおしまいにしましょうか。来月また裁判所に来てください」
試合終了のゴングを聴いてもなお、沙穂さんの身体は怒りで震え続けていた。
「殺人遺伝子」連載の最中、短編小説「この不思議過ぎる異世界転生は、俺の妹愛を結実させようとしている」を投稿しました。
「殺人遺伝子」とは対照的に、中身が空っぽの下らないコメディーとなっています。
僕個人としては、シリアス系よりもコメディーの方が得意だと自負しているので、ぜひとも皆様に読んでもらいたいです。
もちろん、「殺人遺伝子」の方も完結に向けて更新し続けます。最近、伏線張りの作業に入り、ストーリーがゆっくりになったせいか、ブックマークがあまりもらえなくなり、露骨に凹んでいます。作者を励ます面でも、少しでも気になった方はブックマークをいただけると嬉しいです。
よろしくお願いします。